まっしろのひとり
奥野が帰り、老夫婦と三人組も帰り、関本も帰った。次の客は二組来て、その客も去るとペンションの客は七絵だけになった。
「少し余裕な時間があるから、明日は休んで。自転車貸してあげる。一本道の先に、湖畔があるの。お店が沢山あるから行っておいで」
ボスがマウンテンバイクを貸し、それで里波は出かけた。三十分ほど走ると、観光客が結構いた。いくつかのカフェやレストラン、小さい土産物屋もある。屋台もいくつかあった。アイスクリームと迷って、里波はレモンスカッシュを頼んだ。
「それ、二つで」
里波の横に、七絵がいた。七絵は大きな麦わら帽子をかぶっていた。
「迷惑かけたから。ササメの脱走と、風で飛んだ紙を集めてもらったの」
レモンスカッシュを持って、ふたりは湖の傍まで来た。七絵がシートを敷いてくれ、並んで座った。
「自転車を借りて、ピクニックに来たの。そしたら、里波君見つけて」
「そうすっか」
ペンションの見えない場所に七絵がいるのが、里波は不思議だった。ペンションから七絵が出られることにおかしいけれど驚いていた。七絵に対して里波は城に閉じ込められたお姫様のようなイメージを持っていた。湖の波打ち際で、子どもが遊んでいる。
「ここ姉と昔、何度か来たの。初めて来たのは私が大学二年の時。私が結婚するまで毎年来た。姉は仕事一筋だった。姉が死んだ日、私、姉の家に泊まったの。朝見送って。姉はバスに乗って。終点まで辿りついてやっと、死んでいるのに気づいてもらえた」
里波は七絵の横顔を眺めながら、レモンスカッシュを飲む。麦わら帽子で七絵の目元は見えない。誰かのはしゃぐ声が通り過ぎて、いつまでも聞こえる。
「両親もいなくてね。最後の家族だった。夫のことも家族だと思ってる。けど、ちょっと違うの。でも、とても大切」
七絵は困ったように笑った。
「なんとなく、わかる」
里波は頷いた。
「姉の四十九日が終わった後、私は抜け殻だったらしい。夫曰くね。そしたら、夫がしばらくここにいるように提案してくれた。喪失は取り分けの時間だからって。今は、特別すぎる時間。けど特別は永遠じゃ、ダメなの。そろそろ、戻らないとね」
「戻れるの?」
里波が心配した。
「あなたが拾ってくれたあの紙に、小説を書こうと思うの」
「小説?」
そう、と七絵は頷く。
「やっと答えが出た感じなの。なんで姉の部屋から、あのコピー用紙の束を持って来たか。私は絵が描けないから、文章にする」
「でも、なんで小説なんですか?」
里波は聞いた。
「全部、本当じゃ耐えられないから」
七絵は言った。
「希望や夢や理想や慰め。できないけどできたらいいこと。そういうのを時間に折りこむには嘘が必要だから。嘘を混ぜて、やっと本当を受け止めるの。伝えるの」
「伝える?」
「自分にね。感情は全部、言葉にできないけど、形にするのは文字がいい気がする」
青空の下で、七絵は戻る方法を決めた。ふたりは自転車を走らせて、ペンションに戻った。
それから七絵は部屋にこもった。食事も部屋で取るようになった。ボスとメアリーは心配した。里波は時々、ササメと外で遊んだ。ササメはよく草を食べた。七絵の部屋の窓は開かなかった。里波はササメにニンジンも沢山食べさせた。ササメを部屋に返す時、ノックをすると七絵は返事だけでドアを開けなかった。里波はドアを開けて、そっと部屋にササメを返す。七絵はデスクにかじりついていた。ボールペンが走る音だけが聞こえる。ウサギは跳ねる。里波はドアを閉める。
七絵が閉じこもって、一週間経った昼下がり。ボスとメアリーと里波は、食堂でお茶を飲みながら会議をしていた。
「そろそろ心配よね。旦那さんに連絡した方がいいんじゃないの?」
メアリーが提案する。
「それは、余計なお世話でしょう。生きてるみたいだし。もうしばらく様子見が良いと思う」
ボスはメアリーの意見に渋る。納得のいかないメアリーは里波に意見を求めた。
「あんたはどう思うのよ」
「俺に聞きますぅ?」
里波は困る。困ったまま、ボスの作ったバスクチーズケーキを食べる。その時、階段を下りてくる音が聞こえた。ボスとメアリーは慌てる。
「今晩、サラダどうしようかしら」
しらじらしくボスが言う。
「トマトとカニカマがいい。シーチキンとキュウリ。タマネギにあと、コーン」
「入れ過ぎじゃないですか?」
里波がメアリーに言った。食堂に現れた七絵は満面の笑みを浮かべていた。手には紙の束を持っていた。白紙ではない。
「小説を書いたの。一週間もかけたのに、短い話で完結してしまった」
七絵は出来上がった、小説を見せた。ボスとメアリーは顔を見合わせ、そして同時に七絵を見て喜んだ。
「それでこもってたのね! 読んでもいいの?」
メアリーは興味津々に聞いた。
「ぜひ。下手くそだけど。里波君もよかったら」
「うん」
里波は嬉しそうに頷いた。七絵は夫に電話をした。週末、七絵を迎えに来ることになった。七絵の小説を里波はすぐ読めた。姉妹の話だった。けれど、姉は最後まで死ぬことはなかった。里波は許される想像の嘘に、この先が見えた気がした。それはまるで森で見た、たった一本の帰り道のように感じた。
七絵が帰る日、里波は挨拶に部屋に行った。部屋は、ほとんど片付けられ、床にはササメがいるだけだった。里波はドアをノックする。七絵はふり返ると微笑む。
「どうぞ」
里波はササメを抱き上げる。
「お前ともお別れか。元気でな」
ササメは鼻を動かすだけだった。
「色々ありがとう。里波君って、いるだけで誰かを幸せにするタイプね」
褒められた里波は、ぎこちなくなる。
「そんなことない。一緒にいるだけじゃ、うまくいかなかったこともあったよ」
七絵は言葉を溜めた。しかし、聞かなかった。
「そうね。私もそうだったのに。自分がすっきりしたら、他人にもそれを押し付けちゃう。よくない。気を付ける」
デスクの上には白紙の束があった。七絵は気まずそうに、その束を持った。
「結局、ほとんど余って。帰って、メモ帳でも作ることにする」
「それ、貰えないですか?」
里波のお願いに、七絵は驚く。
「あ、すいません。メモ帳にするなら、そのままで欲しいなって。すいません、無神経でした」
里波はササメを床におろし、やらかしたと反省した。ササメは里波の足元から動かない。
「いいよ。その方が嬉しい。はい」
七絵は白紙の束を里波に差し出した。里波は、七絵を気まずそうに見る。七絵は優しく、頷いた。里波は受け取った。七絵はササメを抱き上げて、ケースに入れた。ボスが餞別に渡した、ニンジンも入れる。七絵は里波と向き合う。
「ありがとう。お礼しか言ってないけど」
「これ、貰ったから。沢山」
里波は紙の束を軽く持ち上げた。
「そう言ってくれたら、嬉しい。元気でね」
「お元気で」
七絵は部屋を出て行った。違う客室を掃除している時、里波は窓の外に男の人を見た。すぐに七絵が現れ、ふたりは抱き合った。美しい風景だと里波は思った。
七絵がペンションを去って、一週間。里波のアルバイトも終わった。ボスとメアリーは里波が電車に乗るまで見送ってくれた。里波は電車のなかで、須永に連絡をした。須永はアルバイトが休みだった。里波はそのまま、須永のアパートに行って、お土産やボスが沢山持たしてくれた野菜を須永に分けた。須永はカップ焼きそばならあるから食っていけ、と里波を部屋に上げた。須永がカップ焼きそばを作る横で、里波はレタスとトマトでサラダを作った。
「このボスお手製のオニオンドレッシング、超おいしいから」
「ボスがドレッシング作るのかよ」
須永はオニオンドレッシングに感動し、レタスを追加で千切った。里波は焼きそばをすする。
「俺さ、二か月ぐらいこもる」
里波が言った。
「は?」
須永が顔を険しくする。
「二か月、こもる。須永に心配させたくないから、先に言っとく。二か月後にはシャキッとするから。そのレタスぐらい」
「笑えねぇんだけど」
須永が真面目に言った。
「ごめん」
「まあ、いいけど」
須永はあっさり言った。
「お腹壊すなよ」
「うん」
須永のアパートから帰ると、里波はキャリーバッグを開けた。衣服を全部、洗濯機に回す。シャワーを浴びた。髪を乾かし、洗濯物を全部干した。シグレをベッドに戻し、白紙の束をテーブルに置いた。帰る途中にボールペンを十本買ってきていた。日々は過ぎるが、特別は永遠ではない。取り分けの時間を終わらせる。里波は白紙にボールペンを走らせた。全部、本当のことではない。名前も立場も、嘘のことの方が多い。それでも、白紙はどんどん埋まっていった。そのうち手首が痛くなって、サポーターを買った。紙が無くなると、裏返しにして書いた。書き終えたのは、紅葉の手前の秋の正午だった。
里波はそれを、パソコンにすべて打った。何度も読み返して、直した。そして、これで終わりにしようと永遠のピリオドを決めた。里波は小説を七絵みたいに身近の人間に読ませたくはなかった。そして、手元にも残しておきたくなかった。里波は小説投稿サイトに上げて、パソコンを閉じた。手書きの小説は、全部ハサミで切り刻んで、捨てた。部屋の掃除をした。シグレを浴槽に沈め、洗って、ベランダに干した。キャリーバッグは帰って来た日から、広げたままだった。中に、文庫本が残っていた。里波はそれに手を伸ばしかけて、やめた。キャリーバッグを閉めて、クローゼットにしまう。須永に連絡する。返信はすぐに来た。夜はアルバイトだという。里波は食べに行くと伝え、着替え、鏡の前で髪を整える。前髪が伸びていた。横に無理矢理流した。里波は部屋を出た。
小説のタイトルは「まぶたのそばにいて」にした。




