夏に来た森
三月に一時帰国した里波の両親は、空き家になっている実家を売りに出す話をした。その手続きを終えると、またフィンランドに戻った。家が売れたら、里波に電話がかかってくることになった。秋津のことは、アメリカの大学に行ったということにした。スパークリングワインは三人で飲み干した。里波は悔しいけれど、おいしかった。
秋津が出て行った次の日、郵便受けに切手の貼っていない封書があった。松崎からだった。大学卒業まで、借家に住んでいいこと。手切れ金を受け取る。契約書にサインすること。このすべてに逆らわないこと。契約書は一言にすれば、言うことを聞いて何も喋るなという内容だった。サインをして郵便受けに戻した。次の日、札束の入った封筒に変わっていた。
里波はすぐに、解約していなかった前に住んでいたアパートに戻った。アパートから越して来たときの私物以外で借家から持ち出したのは、ウサギのぬいぐるみのシグレと文庫本だけだった。文庫本には秋津のリストを表紙の裏に挟んだ。それは栞にもなっていない。里波はひとりのアパートで、やけくそにやさぐれた。
大学に行く以外はすべて、アパートで図書館で借りた本を読みふけった。読み続けていた著者はデビュー作以外、制覇した。それからは手あたり次第に、小説を読んだ。自炊はしなかった。金が減るのことをためらわなかった。
「お前、一週間で何冊本読んでんだよ」
里波はブレッドにネコジャラシを使って構ってもらっていた。里波は、先週の月曜日から日曜日までに読んだ本を頭の中で数えた。ネコジャラシを揺らす手は止めない。
「十五冊」
須永は顔をしかめる。異常だと思った。
「就活は? どうすんの?」
須永が一度聞いた。里波は黙る。その反応で須永は就活の話はしないことにした。大学に来るだけマシだと思った。
「寝れてんのか?」
「うん」
これは嘘ではなかった。里波は秋津のいなくなった日の夜、シグレを抱きしめなくてもぐっすりと眠れた。目覚めた時、それがショックでシグレを殴った。でもすぐに、返事ができない相手に謝った。自分の行動すべてが情けなかった。
「じゃあ、いいか。飯、食いに行こう。ファミレス。ドリンクバーの無料券あっから」
「うん」
このままではよくないと、里波は分かっていた。けれど、どうでもよくもあった。定まらない毎日は積み重ならない。日々は必ず過ぎる。秋津との日々がまばたきになることはなかった。眠りのような春は終わり、まどろみのような梅雨になった。覚めきらない夢に縋りつくうちに七月は半分を過ぎた。
冷房をかけたアパートで、里波は飽きず本を読んでいた。最近はノンフィクションを借りていた。スマホが鳴る。須永からだった。もしもし、と里波は電話に出る。
「あんさ、うちに赤森さん来たんだけど。お前に会いたいって」
里波は驚く。
「俺、これからバイトなんだよ。今から出て来れるなら、中華屋の前まで連れて行くけど?」
「あ、うん。お願い」
里波は胸元がよれたTシャツと毛玉だらけのジャージのまま、アパートを出た。
「なんだ寝てたのか? 髪の毛ボサボサだぞ。でも、まあ寝むれてるならいいことだ! ギャバが効いたか!」
赤森は中華屋の前で、豪快に笑う。里波は慌て過ぎたと、恥ずかしくなった。
「どこか店に入ろう。昼前だから、どこも混んでるか」
赤森が歩き出す。
「ごめん、赤森さん! どっか行くなら、着替えてきたい! 本当にごめん!」
赤森が立ち止まる。赤森はサングラスをかけ、草鞋を履いていた。
「じゃあ、里波ちゃんの家にお邪魔していいか?」
里波はすぐに了承した。近所に新しくできたイタリアン惣菜店でパニーニをテイクアウトした。
「このパニーニ、人生でいちばん旨いサンドウィッチだ」
「それ、相当っすね」
里波が笑う。パニーニは本当においしく、すぐに食べ終えた。白い雲の流れるスピードを観察するように里波は窓越しに空を眺める。長すぎた梅雨は先週終わった。赤森は肩肘を付いて、寝そべる。背中も掻く。
「髪、伸びたな」
里波のはねた毛先を見て、赤森が言った。
「そろそろ切る」
エアコンの音が大きくなる。部屋は充分に冷えていた。窓の外は眩しそうだった。
「一昨日、奥野と会った。あいつが会いに来た」
「奥野さん、元気?」
里波は心配していた。関本と最後に電話をした日にはすでに、奥野の居場所は分からなかった。
「元気じゃないけど、生きてる」
赤森はありのままを伝えた。
「あいつは優秀だから。どうにでもなる。松崎もあいつには興味はない。邪魔になったから切った。蚊を叩いたようなもんだ」
起き上がった赤森は、白シャツの胸ポケットから紙を出した。
「奥野から。今度は嘘じゃないってさ」
赤森の手の中の紙を里波は疑い深く見つめる。赤森は急かすように紙を揺らす。里波はためらいがちに受け取り、紙を広げた。ペンションの住み込みのアルバイトについての内容だった。戸惑いながら、里波は赤森を見返した。
「後は野となれ山となれって性格じゃないからな、奥野は。後ろ足で砂をかけられない奴だ。荒療治かもしれないって、奥野は言っていた。断っていいぞ。考えてもいい。受けるなら、私が連絡しとく」
里波の精神を放っておけない、奥野が考えに考えた責任の取り方だった。しかし里波は、発想が斜め上過ぎないかというのが正直な感想だった。
「森でのアルバイトをこのアルバイトで上書きしろってこと?」
里波は紙を畳むと、そっと床に置いた。そんなこと、できるはずはなかった。赤森は紙を見つめ、言った。
「思い出を上書きできないのは、誰もが分かっている」
里波の後ろでシグレが寝ている。もう、ラベンダーの香りは消えていた。それでも里波は眠るときにシグレが傍にないと、不安が降ってきた。秋津を昨日のように思い出す、なんて感情は里波にはなかった。まぶたの裏にいるというのも当然、違った。自分をまとう空気に、秋津の気配が常にあった。秋津の思い出は食卓にある飲みかけのグラスのようなものだった。
「上書きじゃなく、考え方を変える。勘違いでいいから、変えるんだ。秋津は僧になった」
「象?」
「僧」
赤森が強く訂正する。
「僧になって、山籠もりをしている。見方によれば、あいつは徳の高い僧だぞ。あんなに若さと時間を持て余すのに、人を抱いたことも抱かれたこともない。手遊びは死ぬほどしてたけどよ。だから、あいつは出家した。そういうことにしとけ」
里波は顔をしかめた。赤森は紙を拾う。ペラペラと紙の先を指先ではじく。
「私を無神経だと思うだろう? よく言われる。これ以上誤解されたくないから、はっきり言う。恥ずかしげもなく言う。私は里波ちゃんが心配だ。今日の私の言動は里波ちゃんを心配しているからだ。須永ちゃんからも、最近のお前のことを聞いた。軽くな。須永ちゃんは口が堅い。良い友達だ。それに里波ちゃんは、やさぐれ方が良い子ちゃんだ」
必死な赤森に、里波は吹き出した。
「心配かけて、ごめん」
「違う、そういうんじゃないんだよ。謝るな」
赤森は唸る。そして、紙をポケットに戻した。
「押し付けがましかった。忘れてくれ。アイスクリームでも食べに行こう。どぎついぐらいカラフルで三段の奴だ」
立ち上がろうとする赤森のポケットから里波は紙を抜いた。そして再び広げる。
「わかってるんだ。割り切ることが必要だって。けど、割り切ったらさ、未練が消えるのがもったいなくて。ははっ、なーんて、ね」
里波はふざけた口調で照れをごまかした。
「行くよ、これ。奥野さんにもそう伝えて」
このペンションのアルバイトを終えたら、将来と向き合おう。里波は決めた。赤森は里波の肩を優しく叩いた。
「里波ちゃん、これからは清濁併せ呑むんじゃないよ」
赤森は助言した。
「それどういう意味?」
「里波ちゃんは、良い子だから悪いもんも引き受けちまう。悪い子になれってことだ」
「善処する」
笑いながら里波は返した。里波は須永の兄に頼んで、カチューシャが必要ないくらい髪を短く切った。
里波は大きなキャリーバッグを買った。キャリーバッグの半分はシグレが占めた。窮屈そうにあちこち折れ曲がっている。置いていく気持ちになれず、文庫本も持って行った。
夜明けとともに里波はアパートを出た。電車を乗り継いで、ペンションの最寄り駅に着いた時には午後の三時前だった。駅までペンションの主人が里波を迎えに来ていた。主人は五十代のふくよかな女性だった。
「私のことはボスと呼んで」
豪快に笑い、たくましいボスだった。ペンションの従業員は他に、ボスの妹がいた。妹は姉が里波にボスと呼ばれているのを聞いて、
「じゃあ、私はメアリー」
と、決めた。経理、客の迎え、料理はボスが担当で、掃除やベッドメイキング、雑務はメアリーの担当とざっくり決まっていた。里波は主に、メアリーの手伝いをすることになった。里波は早速、メアリーとハンモックを取り付けた。取りつけるのが終わると、里波は乗って安全を確かめた。ゆらゆらと揺れる。大丈夫そうだった。
「寝ころんでごらん。もっと、気持ちいいよ」
メアリーに言われ、里波は仰向けになる。爽めく木漏れ日が里波にかかる。ペンションの二階の窓から赤い髪の女性が笑顔で、里波を見ていた。女性は手を振る。里波はぼんやりと窓辺の女性を見つめた。メアリーが両手で大きく窓辺の女性に振り返した。
「新しい子?」
窓辺の女性が大きい声で尋ねる。
「そうよー! 里波君っていうの! よろしくね!」
メアリーが里波に手を振るように促す。里波はぎこちなく手を振った。窓辺の女性は優しい笑みを浮かべ手を振ると、部屋に姿を消した。
「七絵さんっていうの。長期滞在してる。いい人よ」
「そうなんですか」
「ウサギがいるわ。いつか触らしてくれる」
とっておきの秘密のようにメアリーは教えた。里波はハンモックからおりた。ハンモックはしばらく揺れて、止まった。
七絵が飼っているウサギは白ウサギだった。朝、里波がシーツを干し終えペンションに戻ると、七絵が草をウサギに食べさせていたのを見つけた。七絵は前髪を、眉のあたりで切り揃え、ウェーブのかかった赤い髪をポニーテールにしていた。背中のあいたグリーンのワンピースがよく似合っていた。七絵は膝を抱え、ウサギを撫でていた。里波に気が付くと、微笑みかけた。
「触る?」
里波は頷いた。カゴを置いて、かがむとウサギに軽く触れてから、撫でた。ウサギはおかまいなしに、草を食べる。
「めっちゃ食ってる」
「たぶんおいしいんじゃない? ここ空気がおいしいし」
事実かどうかは別として、七絵の理論は説得力があった。
「里波君はいくつ?」
「二十一」
「若いね。大学生?」
「四年です」
「大学かー。私、卒業したの十年前以上だな」
七絵はしみじみ驚いて、そんな自分がおかしかった。
「このウサギ、名前はなんていうんですか?」
里波が聞いた。
「ササメ」
「ササメ?」
口慣れない名前に思わず里波は聞き返した。
「細雪のささめ」
七絵は言った。
「ユキじゃないんですね」
白色なのに。
「姉がつけたの。この子は元々、姉が飼ってたから、雪はありきたりで嫌だったんじゃない?」
「そうなんですね」
里波はササメ、ササメと何度も呼んでウサギを可愛がった。
シーツを干した後、里波は厨房でひたすらに玉ねぎの皮をむいた。
「全部むけたら、適当な大きさに切ってフードプロセッサーにつっこんで粉々して」
ボスは昼食と夕食の仕込みを同時進行しながら、指示を出す。
「ハンバーグっすか?」
ボスは舌を鳴らしながら、立てた人差し指を左右に動かした。
「オンニオンドッレシング」
ネイティブぶった発音でボスは言った。
「ハンバーグ好きなら今度、賄で作ってあげる」
「楽しみ」
里波とボスは笑い合う。
「哲生君に、あなたみたいな友人がいるなんてね」
「テツオクン?」
里波の玉ねぎの皮をむく手がゆっくりになる。そして、ああ、とこぼす。
「奥野さんのこと?」
「そうそうそう」
何度も頷くボスの横で、寸胴鍋がぐつぐつ音を立てている。
「下の名前、はじめて知った。哲生っていうっすね」
「哲生っていうのよ。ふははっ。あの子も大学生の時、今の里波君みたいにアルバイトに来たの。卒業してからは客としてね。ここ数年は、来なかったけど。それが先月かな。アルバイト募集してないかって。本当はもうひとり来てくれるはずだったんだけど、ドタキャンされちゃって。人手不足だから、ビシバシ働いてね」
「はい。こき使ってください」
里波がそう言えば、ボスの笑い声が厨房の外まで響いた。ペンションは二階建てで、客室は五部屋あった。そんなに多くはない部屋数だが、三人だけでは人手不足なのは、働き出して一日も経たないうちに里波でも分かった。受付の電話が鳴る。
「俺、出ましょうか?」
「まだいいわ。私が出る。鍋見てて」
ボスは厨房を出る。電話は七絵の夫からだった。
「七絵さんはね、スマホも持たずにうちにきたの。だから、二日に一回は旦那さんがペンションの電話に直接かけてくるの」
昼のまかないはナスとベーコンのペペロンチーノだった。厨房の作業台をテーブルにして、里波とメアリーは食事を一緒にした。七絵の話に里波は曖昧な相槌を打つ。
「誤解しちゃダメよ。七絵さんはと旦那さんは仲良いの。素敵な旦那さん。焦ることなく、七絵さんを待ってる」
「待つ?」
里波は聞き返した。
「心が落ち着くのを。療養中よ。いつもは気にしなくていいから、会ったら笑顔で挨拶して。それは、どのお客さんも同じか。暇な時に軽い話相手になってあげて。相手の様子を見てね。猫の手も借りたい状況だけど、上手にやってくださいよ」
メアリーはくるくるフォークにスパゲッティを巻く。里波はナスを食べる。食事を終えた里波は休憩がもらえた。一階に里波の寝泊りしている部屋はあった。部屋に行こうする途中、ササメを見つけた。階段の真ん中で鼻をヒクヒクさせている。里波はササメを抱き上げた。ササメは抱き上げられたことにも気づいていないかのように、じっとしていた。それでも鼻はヒクヒクさせている。七絵の部屋に行くと、ドアが少し開いていた。里波はノックする。
「はい」
部屋から七絵の声がした。
「里波です。ササメが階段にいたから、連れてきたんですけど」
「え! あ! いない!」
ドタバタと音がして、ドアは開いた。
「ごめんね。ドア、きちんとしめてなかった」
部屋のデスクの上に白い紙が沢山あるのが、里波の目に入る。七絵が里波の腕からササメを抱き上げ、床に離す。
「ありがとう」
「いいえ」
立ち去ろうとする里波を、七絵は呼び止めた。
「ハンモック、乗ったの。気持ちよかった」
七絵の笑みは夏の日差しによく映えた。
「よかったです」
里波も思わず嬉しくなった。部屋に戻ると、シグレを枕に里波は仮眠を取った。
「お久しぶりーな、里波!」
午後、関本がペンションの客として現れ、里波は驚いた。五日間、ペンションに滞在すると言った。
「明後日、奥野も来るって」
「そうなの?」
里波はさらに驚く。
「ああ、もう。せっかく驚かそうと思って黙ってたのに」
ボスが言った。関本が笑いながら、気楽に謝った。里波は関本を部屋まで案内する。関本の部屋は七絵の隣だった。
「いいとこね。旅行なんて久しぶり」
関本は窓の外を眺める。
「同じ緑でも、あそことは全然違うね」
肩の荷が下りたような関本にもしかして、と里波は遠慮がちに確かめた。
「関本さんも森を辞めたの?」
「ええ。引継ぎとかで辞めれたのは五月ぐらいだったんだけどね。退職金、しこたま貰ってやったの。しばらくは人生のロングバケーション」
窓から離れた関本はベッドのふちに腰掛ける。
「寝れてる?」
関本が尋ねる。
「寝れてるよ。昨日、八時間寝れた。初日なのに」
関本は微笑み、俯いて、顔を上げて里波に伝えた。
「秋津は森にはいない。きっと松崎の傍にいる」
その現状を里波は思ったより、穏やかな心で受け止められた。
「そっか」
それでも、頷くしか里波はできなかった。秋津は里波の深い心を泳いでいる。
「奥野からこのペンションの話を聞いた時、来るかどうか迷った。年齢を重ねて分かったことは、おせっかいがやめられないことね」
関本はごめんと小さく言った。里波は首を横に振った。関本は疲れたのか、そのまますぐ、昼が終わるまで眠った。里波も夜、沈むように眠った。
次の日、ボスがお好み焼きパーティーの予定を里波に話した。
「明日の昼ね、外で鉄板を出してやる予定なの。普通に昼が食べたい人は、別に用意する。お客さんに参加の有無を聞いといてくれない?」
ボスは朝届いた食材を壁みたいな冷蔵庫に入れながら、里波に指示した。ペンションは今、四組の客がいた。関本、七絵、老夫婦、三人組の女性。
「奥野さんは?」
「ああ、明日の朝一番で来るって。参加にしといていいでしょう。迎えはいらないって言ってから、車でここまで来るんでしょう。タフよねぇ」
ボスは感心したように身体を揺らして笑った。メアリーが、洗濯物を干すように頼み、里波は食堂を出ようとし、その背中にボスが、
「そのあとで食堂のテーブルを拭いておいて」
と、頼んだ。忙しいことは里波にとっていいことだった。
沢山のタオルを干し終えたあと、昨日と同じところを通ったが、七絵もササメもいなかった。強い風が吹いた。思わず、里波は目をつむった。
「ああっ!」
悲鳴に近い声が聞こえ、里波は目を開く。白い紙が、何枚も風に舞って、転がっている。
「里波君っ! それ、拾って! ごめんっ!」
七絵が窓から叫ぶ。里波は慌てて風で飛んだ紙を追いかけ集めた。七絵は窓を閉めて、急いで部屋を出る。里波の集めたのは全部まっしろなコピー用紙だった。七絵が来た時には、里波が全部拾えおえていた。七絵は申し訳なさそうに白紙の束を受け取った。
「ごめんなさい」
「いいえ。これで全部かは、分からないけど」
「私も分からない」
ふたりは笑い合った。それから一緒に歩きペンションへと歩き出す。
「紙、沢山ですね」
沈黙の散歩は気まずくて、里波は言った。
「コピー用紙、束でまんま持って来たから。包装紙もなくて、棚にまるごとあったのをそのまま、バッグにいれてきた」
七絵は思い返した自分がおかしくて、笑うのを我慢できなかった。日差しが、七絵の赤毛を透かす。
「何か、書くんですか?」
「何か、描いてないかなって。姉の部屋から持って来たの。遺品」
里波は戸惑いの声を漏らした。
「そうなんですね」
「姉は絵を描くのが趣味でね。昔から、コピー用紙に絵を描いてた。その、残り。私は絵を描かないから。まあ、コピー用紙は絵を描くためのものじゃないけど、たぶん」
里波は微笑みの相槌を打った。鳥が遠くの木の上から鳴いている。
「全部、拾えていたらいいですけど」
里波は言った。
「たぶん、大丈夫よ」
七絵は安心させるように言った。七絵はウサギを抱えるように、白紙の束を抱え、階段を上がっていった。
里波が食堂のテーブルを拭き終え、調味料の補充をしていると受付の電話が鳴った。ボスもメアリーもいない。里波が出ると、相手は七絵の夫だった。
「あ、お繋ぎしますね」
電話の横に貼ってあるメモを確かめながら、里波は七絵の部屋に繋ごうとする。
「いや、いい。毎日電話するのはよくないから。その、でも気になって。彼女は元気ですか?」
七絵の夫は、本当に心配そうに尋ねた。
「元気そうですよ。昨日は、ウサギが脱走しましたし、今朝は窓から紙を飛ばして、慌ててました」
里波が伝えると、七絵の夫は大笑いした。
「目に浮かびます。ご迷惑かけて、申し訳ない」
ボスによろしく伝えてくれと言って、電話は切れた。メアリーの話だと、七絵はもうここに三か月は滞在していた。里波はそれが長いとは思わなかった。昼下がりのお好み焼きパーティーは、全員参加になった。
お好み焼きパーティーの日の午前は大忙しだった。ボスはずっとキャベツを千切りにして、その横でメアリーが長いもをすっている。里波はエビの背ワタを竹ぐしで取り、ひたすらに皮をむいた。ボスが壁の時計を見る。
「哲生君、遅いわね」
「間に合いますかね?」
里波がむいたエビをボウルに入れる。
「間に合わなかったら、間に合わなかったね」
ざっくばらんにボスは言った。
「大丈夫よ。この量よ、遅刻しても食べられないことはないわ。下ごしらえが終わったら、鉄板出すからね。あと、椅子とテーブル。もうひとつハンモックも」
メアリーが早口で喋る。
「ハンモックは昨日メアリーさんが言ってたから、ボスと付けましたよ」
「わお! さすが!」
メアリーは大げさに歓喜して、厨房はけたたましく賑やかだった。
木陰の下にテーブルと椅子を並べていると、待ちきれない関本がやってきた。
「何か手伝うことはない?」
「関本さんは客だから」
里波は断った。
「冷たいこと言うねー」
おちゃらけに関本はひねくれる。ついでだからと、里波は聞いた。
「奥野さんから、連絡来てない?」
「来てない。大丈夫、私が奥野の分も食べる」
「そういうことじゃないんだけど」
お好み焼きはすべて、メアリーが焼いた。十年ほど大阪のお好み焼き屋で働いていた経験があるらしく、とても上手だった。とんぺい焼きも作ってくれた。関本と七絵は瓶ビールを分け合って飲み、お喋りしていた。誰もがほろ酔いになった頃、奥野がやってきた。奥野はボスとメアリーに挨拶し、お好み焼きを持たされ、関本とも話し、少し離れた木陰に座った。黒のTシャツにカーゴパンツを履いていた。髪も撫でつけておらず、ラフな奥野を初めて見た里波は奥野とすぐに分からなかった。里波はよく冷えた缶チューハイを持って、奥野の元へ行った。
「どっちがいい?」
レモンとグレープフルーツ。
「里波君が好きなの飲みな」
里波はレモンの方を奥野に渡した。
「隣いい?」
里波が聞く。
「いいよ」
奥野の隣に座った里波は、缶チューハイを開ける。奥野も開けると、ひと口だけ飲んだ。
「ここで働いてくれてありがとう」
奥野が言った。里波は缶から口を離す。
「紹介してもらってよかった。いいとこだよ。仕事内容も嘘じゃなかった」
ジョークのつもりで里波は言ったが、奥野は申し訳なさそうに眉を動かして懺悔した。
「私がここを君に紹介したのは、自分の罪悪感を慰めるためだ。関本が来たのだって、同じような理由さ」
「卑屈すぎない?」
里波は困った顔をした。
「それが事実だ」
穏やかな風が吹いた。葉が揺れ、鳴る。
「赤森と一緒に、秋津に会ったんだ。松崎から逃げるように説得した。けど、ダメだった」
里波の海が音もなく波打つ。
「誰かの力を頼って、松崎の元からは去らない。自分でどうにかする。そう言った」
どうにかできないのを里波は知っていた。
「松崎さんから逃げられないのは俺がいるせいだろう」
奥野は首を縦にも横にも動かさなかった。
「里波が秋津のそういう存在になった。それだけで、松崎は秋津に見切りを付けると思っていた。これは私が甘かった」
奥野は甘い復讐を苦く噛み締める。
「どうやってもさ、俺にとって秋津さんは特別だから」
里波が言った。お好み焼きからエビがはみ出している。
「それはもうどうしようもないんだよ」
奥野はそれ以上何も言わず、お好み焼きを食べた。




