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トマト  作者: ヒルマ・デネタ
Chapter 6
12/17

夏に来た森


 三月に一時帰国した里波の両親は、空き家になっている実家を売りに出す話をした。その手続きを終えると、またフィンランドに戻った。家が売れたら、里波に電話がかかってくることになった。秋津のことは、アメリカの大学に行ったということにした。スパークリングワインは三人で飲み干した。里波は悔しいけれど、おいしかった。

 秋津が出て行った次の日、郵便受けに切手の貼っていない封書があった。松崎からだった。大学卒業まで、借家に住んでいいこと。手切れ金を受け取る。契約書にサインすること。このすべてに逆らわないこと。契約書は一言にすれば、言うことを聞いて何も喋るなという内容だった。サインをして郵便受けに戻した。次の日、札束の入った封筒に変わっていた。

 里波はすぐに、解約していなかった前に住んでいたアパートに戻った。アパートから越して来たときの私物以外で借家から持ち出したのは、ウサギのぬいぐるみのシグレと文庫本だけだった。文庫本には秋津のリストを表紙の裏に挟んだ。それは栞にもなっていない。里波はひとりのアパートで、やけくそにやさぐれた。

 大学に行く以外はすべて、アパートで図書館で借りた本を読みふけった。読み続けていた著者はデビュー作以外、制覇した。それからは手あたり次第に、小説を読んだ。自炊はしなかった。金が減るのことをためらわなかった。

「お前、一週間で何冊本読んでんだよ」

 里波はブレッドにネコジャラシを使って構ってもらっていた。里波は、先週の月曜日から日曜日までに読んだ本を頭の中で数えた。ネコジャラシを揺らす手は止めない。

「十五冊」

 須永は顔をしかめる。異常だと思った。

「就活は? どうすんの?」

 須永が一度聞いた。里波は黙る。その反応で須永は就活の話はしないことにした。大学に来るだけマシだと思った。

「寝れてんのか?」

「うん」

 これは嘘ではなかった。里波は秋津のいなくなった日の夜、シグレを抱きしめなくてもぐっすりと眠れた。目覚めた時、それがショックでシグレを殴った。でもすぐに、返事ができない相手に謝った。自分の行動すべてが情けなかった。

「じゃあ、いいか。飯、食いに行こう。ファミレス。ドリンクバーの無料券あっから」

「うん」

 このままではよくないと、里波は分かっていた。けれど、どうでもよくもあった。定まらない毎日は積み重ならない。日々は必ず過ぎる。秋津との日々がまばたきになることはなかった。眠りのような春は終わり、まどろみのような梅雨になった。覚めきらない夢に縋りつくうちに七月は半分を過ぎた。

 冷房をかけたアパートで、里波は飽きず本を読んでいた。最近はノンフィクションを借りていた。スマホが鳴る。須永からだった。もしもし、と里波は電話に出る。

「あんさ、うちに赤森さん来たんだけど。お前に会いたいって」

 里波は驚く。

「俺、これからバイトなんだよ。今から出て来れるなら、中華屋の前まで連れて行くけど?」

「あ、うん。お願い」

 里波は胸元がよれたTシャツと毛玉だらけのジャージのまま、アパートを出た。

「なんだ寝てたのか? 髪の毛ボサボサだぞ。でも、まあ寝むれてるならいいことだ! ギャバが効いたか!」

 赤森は中華屋の前で、豪快に笑う。里波は慌て過ぎたと、恥ずかしくなった。

「どこか店に入ろう。昼前だから、どこも混んでるか」

 赤森が歩き出す。

「ごめん、赤森さん! どっか行くなら、着替えてきたい! 本当にごめん!」

 赤森が立ち止まる。赤森はサングラスをかけ、草鞋を履いていた。

「じゃあ、里波ちゃんの家にお邪魔していいか?」

 里波はすぐに了承した。近所に新しくできたイタリアン惣菜店でパニーニをテイクアウトした。

「このパニーニ、人生でいちばん旨いサンドウィッチだ」

「それ、相当っすね」

 里波が笑う。パニーニは本当においしく、すぐに食べ終えた。白い雲の流れるスピードを観察するように里波は窓越しに空を眺める。長すぎた梅雨は先週終わった。赤森は肩肘を付いて、寝そべる。背中も掻く。

「髪、伸びたな」

 里波のはねた毛先を見て、赤森が言った。

「そろそろ切る」

 エアコンの音が大きくなる。部屋は充分に冷えていた。窓の外は眩しそうだった。

「一昨日、奥野と会った。あいつが会いに来た」

「奥野さん、元気?」

 里波は心配していた。関本と最後に電話をした日にはすでに、奥野の居場所は分からなかった。

「元気じゃないけど、生きてる」

 赤森はありのままを伝えた。

「あいつは優秀だから。どうにでもなる。松崎もあいつには興味はない。邪魔になったから切った。蚊を叩いたようなもんだ」

 起き上がった赤森は、白シャツの胸ポケットから紙を出した。

「奥野から。今度は嘘じゃないってさ」

 赤森の手の中の紙を里波は疑い深く見つめる。赤森は急かすように紙を揺らす。里波はためらいがちに受け取り、紙を広げた。ペンションの住み込みのアルバイトについての内容だった。戸惑いながら、里波は赤森を見返した。

「後は野となれ山となれって性格じゃないからな、奥野は。後ろ足で砂をかけられない奴だ。荒療治かもしれないって、奥野は言っていた。断っていいぞ。考えてもいい。受けるなら、私が連絡しとく」

 里波の精神を放っておけない、奥野が考えに考えた責任の取り方だった。しかし里波は、発想が斜め上過ぎないかというのが正直な感想だった。

「森でのアルバイトをこのアルバイトで上書きしろってこと?」

 里波は紙を畳むと、そっと床に置いた。そんなこと、できるはずはなかった。赤森は紙を見つめ、言った。

「思い出を上書きできないのは、誰もが分かっている」

 里波の後ろでシグレが寝ている。もう、ラベンダーの香りは消えていた。それでも里波は眠るときにシグレが傍にないと、不安が降ってきた。秋津を昨日のように思い出す、なんて感情は里波にはなかった。まぶたの裏にいるというのも当然、違った。自分をまとう空気に、秋津の気配が常にあった。秋津の思い出は食卓にある飲みかけのグラスのようなものだった。

「上書きじゃなく、考え方を変える。勘違いでいいから、変えるんだ。秋津は僧になった」

「象?」

「僧」

 赤森が強く訂正する。

「僧になって、山籠もりをしている。見方によれば、あいつは徳の高い僧だぞ。あんなに若さと時間を持て余すのに、人を抱いたことも抱かれたこともない。手遊びは死ぬほどしてたけどよ。だから、あいつは出家した。そういうことにしとけ」

 里波は顔をしかめた。赤森は紙を拾う。ペラペラと紙の先を指先ではじく。

「私を無神経だと思うだろう? よく言われる。これ以上誤解されたくないから、はっきり言う。恥ずかしげもなく言う。私は里波ちゃんが心配だ。今日の私の言動は里波ちゃんを心配しているからだ。須永ちゃんからも、最近のお前のことを聞いた。軽くな。須永ちゃんは口が堅い。良い友達だ。それに里波ちゃんは、やさぐれ方が良い子ちゃんだ」

 必死な赤森に、里波は吹き出した。

「心配かけて、ごめん」

「違う、そういうんじゃないんだよ。謝るな」

 赤森は唸る。そして、紙をポケットに戻した。

「押し付けがましかった。忘れてくれ。アイスクリームでも食べに行こう。どぎついぐらいカラフルで三段の奴だ」

 立ち上がろうとする赤森のポケットから里波は紙を抜いた。そして再び広げる。

「わかってるんだ。割り切ることが必要だって。けど、割り切ったらさ、未練が消えるのがもったいなくて。ははっ、なーんて、ね」

 里波はふざけた口調で照れをごまかした。

「行くよ、これ。奥野さんにもそう伝えて」

 このペンションのアルバイトを終えたら、将来と向き合おう。里波は決めた。赤森は里波の肩を優しく叩いた。

「里波ちゃん、これからは清濁併せ呑むんじゃないよ」

 赤森は助言した。

「それどういう意味?」

「里波ちゃんは、良い子だから悪いもんも引き受けちまう。悪い子になれってことだ」

「善処する」

 笑いながら里波は返した。里波は須永の兄に頼んで、カチューシャが必要ないくらい髪を短く切った。




 里波は大きなキャリーバッグを買った。キャリーバッグの半分はシグレが占めた。窮屈そうにあちこち折れ曲がっている。置いていく気持ちになれず、文庫本も持って行った。

 夜明けとともに里波はアパートを出た。電車を乗り継いで、ペンションの最寄り駅に着いた時には午後の三時前だった。駅までペンションの主人が里波を迎えに来ていた。主人は五十代のふくよかな女性だった。

「私のことはボスと呼んで」

 豪快に笑い、たくましいボスだった。ペンションの従業員は他に、ボスの妹がいた。妹は姉が里波にボスと呼ばれているのを聞いて、

「じゃあ、私はメアリー」

 と、決めた。経理、客の迎え、料理はボスが担当で、掃除やベッドメイキング、雑務はメアリーの担当とざっくり決まっていた。里波は主に、メアリーの手伝いをすることになった。里波は早速、メアリーとハンモックを取り付けた。取りつけるのが終わると、里波は乗って安全を確かめた。ゆらゆらと揺れる。大丈夫そうだった。

「寝ころんでごらん。もっと、気持ちいいよ」

 メアリーに言われ、里波は仰向けになる。爽めく木漏れ日が里波にかかる。ペンションの二階の窓から赤い髪の女性が笑顔で、里波を見ていた。女性は手を振る。里波はぼんやりと窓辺の女性を見つめた。メアリーが両手で大きく窓辺の女性に振り返した。

「新しい子?」

 窓辺の女性が大きい声で尋ねる。

「そうよー! 里波君っていうの! よろしくね!」

 メアリーが里波に手を振るように促す。里波はぎこちなく手を振った。窓辺の女性は優しい笑みを浮かべ手を振ると、部屋に姿を消した。

「七絵さんっていうの。長期滞在してる。いい人よ」

「そうなんですか」

「ウサギがいるわ。いつか触らしてくれる」

 とっておきの秘密のようにメアリーは教えた。里波はハンモックからおりた。ハンモックはしばらく揺れて、止まった。


 七絵が飼っているウサギは白ウサギだった。朝、里波がシーツを干し終えペンションに戻ると、七絵が草をウサギに食べさせていたのを見つけた。七絵は前髪を、眉のあたりで切り揃え、ウェーブのかかった赤い髪をポニーテールにしていた。背中のあいたグリーンのワンピースがよく似合っていた。七絵は膝を抱え、ウサギを撫でていた。里波に気が付くと、微笑みかけた。

「触る?」

 里波は頷いた。カゴを置いて、かがむとウサギに軽く触れてから、撫でた。ウサギはおかまいなしに、草を食べる。

「めっちゃ食ってる」

「たぶんおいしいんじゃない? ここ空気がおいしいし」

 事実かどうかは別として、七絵の理論は説得力があった。

「里波君はいくつ?」

「二十一」

「若いね。大学生?」

「四年です」

「大学かー。私、卒業したの十年前以上だな」

 七絵はしみじみ驚いて、そんな自分がおかしかった。

「このウサギ、名前はなんていうんですか?」

 里波が聞いた。

「ササメ」

「ササメ?」

 口慣れない名前に思わず里波は聞き返した。

「細雪のささめ」

 七絵は言った。

「ユキじゃないんですね」

 白色なのに。

「姉がつけたの。この子は元々、姉が飼ってたから、雪はありきたりで嫌だったんじゃない?」

「そうなんですね」

 里波はササメ、ササメと何度も呼んでウサギを可愛がった。

 シーツを干した後、里波は厨房でひたすらに玉ねぎの皮をむいた。

「全部むけたら、適当な大きさに切ってフードプロセッサーにつっこんで粉々して」

 ボスは昼食と夕食の仕込みを同時進行しながら、指示を出す。

「ハンバーグっすか?」

 ボスは舌を鳴らしながら、立てた人差し指を左右に動かした。

「オンニオンドッレシング」

 ネイティブぶった発音でボスは言った。

「ハンバーグ好きなら今度、賄で作ってあげる」

「楽しみ」

 里波とボスは笑い合う。

「哲生君に、あなたみたいな友人がいるなんてね」

「テツオクン?」

 里波の玉ねぎの皮をむく手がゆっくりになる。そして、ああ、とこぼす。

「奥野さんのこと?」

「そうそうそう」

 何度も頷くボスの横で、寸胴鍋がぐつぐつ音を立てている。

「下の名前、はじめて知った。哲生っていうっすね」

「哲生っていうのよ。ふははっ。あの子も大学生の時、今の里波君みたいにアルバイトに来たの。卒業してからは客としてね。ここ数年は、来なかったけど。それが先月かな。アルバイト募集してないかって。本当はもうひとり来てくれるはずだったんだけど、ドタキャンされちゃって。人手不足だから、ビシバシ働いてね」

「はい。こき使ってください」

 里波がそう言えば、ボスの笑い声が厨房の外まで響いた。ペンションは二階建てで、客室は五部屋あった。そんなに多くはない部屋数だが、三人だけでは人手不足なのは、働き出して一日も経たないうちに里波でも分かった。受付の電話が鳴る。

「俺、出ましょうか?」

「まだいいわ。私が出る。鍋見てて」

 ボスは厨房を出る。電話は七絵の夫からだった。

「七絵さんはね、スマホも持たずにうちにきたの。だから、二日に一回は旦那さんがペンションの電話に直接かけてくるの」

 昼のまかないはナスとベーコンのペペロンチーノだった。厨房の作業台をテーブルにして、里波とメアリーは食事を一緒にした。七絵の話に里波は曖昧な相槌を打つ。

「誤解しちゃダメよ。七絵さんはと旦那さんは仲良いの。素敵な旦那さん。焦ることなく、七絵さんを待ってる」

「待つ?」

 里波は聞き返した。

「心が落ち着くのを。療養中よ。いつもは気にしなくていいから、会ったら笑顔で挨拶して。それは、どのお客さんも同じか。暇な時に軽い話相手になってあげて。相手の様子を見てね。猫の手も借りたい状況だけど、上手にやってくださいよ」

 メアリーはくるくるフォークにスパゲッティを巻く。里波はナスを食べる。食事を終えた里波は休憩がもらえた。一階に里波の寝泊りしている部屋はあった。部屋に行こうする途中、ササメを見つけた。階段の真ん中で鼻をヒクヒクさせている。里波はササメを抱き上げた。ササメは抱き上げられたことにも気づいていないかのように、じっとしていた。それでも鼻はヒクヒクさせている。七絵の部屋に行くと、ドアが少し開いていた。里波はノックする。

「はい」

 部屋から七絵の声がした。

「里波です。ササメが階段にいたから、連れてきたんですけど」

「え! あ! いない!」

 ドタバタと音がして、ドアは開いた。

「ごめんね。ドア、きちんとしめてなかった」

 部屋のデスクの上に白い紙が沢山あるのが、里波の目に入る。七絵が里波の腕からササメを抱き上げ、床に離す。

「ありがとう」

「いいえ」

 立ち去ろうとする里波を、七絵は呼び止めた。

「ハンモック、乗ったの。気持ちよかった」

 七絵の笑みは夏の日差しによく映えた。

「よかったです」

 里波も思わず嬉しくなった。部屋に戻ると、シグレを枕に里波は仮眠を取った。




「お久しぶりーな、里波!」

 午後、関本がペンションの客として現れ、里波は驚いた。五日間、ペンションに滞在すると言った。

「明後日、奥野も来るって」

「そうなの?」

 里波はさらに驚く。

「ああ、もう。せっかく驚かそうと思って黙ってたのに」

 ボスが言った。関本が笑いながら、気楽に謝った。里波は関本を部屋まで案内する。関本の部屋は七絵の隣だった。

「いいとこね。旅行なんて久しぶり」

 関本は窓の外を眺める。

「同じ緑でも、あそことは全然違うね」

 肩の荷が下りたような関本にもしかして、と里波は遠慮がちに確かめた。

「関本さんも森を辞めたの?」

「ええ。引継ぎとかで辞めれたのは五月ぐらいだったんだけどね。退職金、しこたま貰ってやったの。しばらくは人生のロングバケーション」

 窓から離れた関本はベッドのふちに腰掛ける。

「寝れてる?」

 関本が尋ねる。

「寝れてるよ。昨日、八時間寝れた。初日なのに」

 関本は微笑み、俯いて、顔を上げて里波に伝えた。

「秋津は森にはいない。きっと松崎の傍にいる」

 その現状を里波は思ったより、穏やかな心で受け止められた。

「そっか」

 それでも、頷くしか里波はできなかった。秋津は里波の深い心を泳いでいる。

「奥野からこのペンションの話を聞いた時、来るかどうか迷った。年齢を重ねて分かったことは、おせっかいがやめられないことね」

 関本はごめんと小さく言った。里波は首を横に振った。関本は疲れたのか、そのまますぐ、昼が終わるまで眠った。里波も夜、沈むように眠った。

 次の日、ボスがお好み焼きパーティーの予定を里波に話した。

「明日の昼ね、外で鉄板を出してやる予定なの。普通に昼が食べたい人は、別に用意する。お客さんに参加の有無を聞いといてくれない?」

 ボスは朝届いた食材を壁みたいな冷蔵庫に入れながら、里波に指示した。ペンションは今、四組の客がいた。関本、七絵、老夫婦、三人組の女性。

「奥野さんは?」

「ああ、明日の朝一番で来るって。参加にしといていいでしょう。迎えはいらないって言ってから、車でここまで来るんでしょう。タフよねぇ」

 ボスは感心したように身体を揺らして笑った。メアリーが、洗濯物を干すように頼み、里波は食堂を出ようとし、その背中にボスが、

「そのあとで食堂のテーブルを拭いておいて」

 と、頼んだ。忙しいことは里波にとっていいことだった。

 沢山のタオルを干し終えたあと、昨日と同じところを通ったが、七絵もササメもいなかった。強い風が吹いた。思わず、里波は目をつむった。

「ああっ!」

 悲鳴に近い声が聞こえ、里波は目を開く。白い紙が、何枚も風に舞って、転がっている。

「里波君っ! それ、拾って! ごめんっ!」

 七絵が窓から叫ぶ。里波は慌てて風で飛んだ紙を追いかけ集めた。七絵は窓を閉めて、急いで部屋を出る。里波の集めたのは全部まっしろなコピー用紙だった。七絵が来た時には、里波が全部拾えおえていた。七絵は申し訳なさそうに白紙の束を受け取った。

「ごめんなさい」

「いいえ。これで全部かは、分からないけど」

「私も分からない」

 ふたりは笑い合った。それから一緒に歩きペンションへと歩き出す。

「紙、沢山ですね」

 沈黙の散歩は気まずくて、里波は言った。

「コピー用紙、束でまんま持って来たから。包装紙もなくて、棚にまるごとあったのをそのまま、バッグにいれてきた」

 七絵は思い返した自分がおかしくて、笑うのを我慢できなかった。日差しが、七絵の赤毛を透かす。

「何か、書くんですか?」

「何か、描いてないかなって。姉の部屋から持って来たの。遺品」

 里波は戸惑いの声を漏らした。

「そうなんですね」

「姉は絵を描くのが趣味でね。昔から、コピー用紙に絵を描いてた。その、残り。私は絵を描かないから。まあ、コピー用紙は絵を描くためのものじゃないけど、たぶん」

 里波は微笑みの相槌を打った。鳥が遠くの木の上から鳴いている。

「全部、拾えていたらいいですけど」

 里波は言った。

「たぶん、大丈夫よ」

 七絵は安心させるように言った。七絵はウサギを抱えるように、白紙の束を抱え、階段を上がっていった。

 里波が食堂のテーブルを拭き終え、調味料の補充をしていると受付の電話が鳴った。ボスもメアリーもいない。里波が出ると、相手は七絵の夫だった。

「あ、お繋ぎしますね」

 電話の横に貼ってあるメモを確かめながら、里波は七絵の部屋に繋ごうとする。

「いや、いい。毎日電話するのはよくないから。その、でも気になって。彼女は元気ですか?」

 七絵の夫は、本当に心配そうに尋ねた。

「元気そうですよ。昨日は、ウサギが脱走しましたし、今朝は窓から紙を飛ばして、慌ててました」

 里波が伝えると、七絵の夫は大笑いした。

「目に浮かびます。ご迷惑かけて、申し訳ない」

 ボスによろしく伝えてくれと言って、電話は切れた。メアリーの話だと、七絵はもうここに三か月は滞在していた。里波はそれが長いとは思わなかった。昼下がりのお好み焼きパーティーは、全員参加になった。

 お好み焼きパーティーの日の午前は大忙しだった。ボスはずっとキャベツを千切りにして、その横でメアリーが長いもをすっている。里波はエビの背ワタを竹ぐしで取り、ひたすらに皮をむいた。ボスが壁の時計を見る。

「哲生君、遅いわね」

「間に合いますかね?」

 里波がむいたエビをボウルに入れる。

「間に合わなかったら、間に合わなかったね」

 ざっくばらんにボスは言った。

「大丈夫よ。この量よ、遅刻しても食べられないことはないわ。下ごしらえが終わったら、鉄板出すからね。あと、椅子とテーブル。もうひとつハンモックも」

 メアリーが早口で喋る。

「ハンモックは昨日メアリーさんが言ってたから、ボスと付けましたよ」

「わお! さすが!」

 メアリーは大げさに歓喜して、厨房はけたたましく賑やかだった。

 木陰の下にテーブルと椅子を並べていると、待ちきれない関本がやってきた。

「何か手伝うことはない?」

「関本さんは客だから」

 里波は断った。

「冷たいこと言うねー」

 おちゃらけに関本はひねくれる。ついでだからと、里波は聞いた。

「奥野さんから、連絡来てない?」

「来てない。大丈夫、私が奥野の分も食べる」

「そういうことじゃないんだけど」

 お好み焼きはすべて、メアリーが焼いた。十年ほど大阪のお好み焼き屋で働いていた経験があるらしく、とても上手だった。とんぺい焼きも作ってくれた。関本と七絵は瓶ビールを分け合って飲み、お喋りしていた。誰もがほろ酔いになった頃、奥野がやってきた。奥野はボスとメアリーに挨拶し、お好み焼きを持たされ、関本とも話し、少し離れた木陰に座った。黒のTシャツにカーゴパンツを履いていた。髪も撫でつけておらず、ラフな奥野を初めて見た里波は奥野とすぐに分からなかった。里波はよく冷えた缶チューハイを持って、奥野の元へ行った。

「どっちがいい?」

 レモンとグレープフルーツ。

「里波君が好きなの飲みな」

 里波はレモンの方を奥野に渡した。

「隣いい?」

 里波が聞く。

「いいよ」

 奥野の隣に座った里波は、缶チューハイを開ける。奥野も開けると、ひと口だけ飲んだ。

「ここで働いてくれてありがとう」

 奥野が言った。里波は缶から口を離す。

「紹介してもらってよかった。いいとこだよ。仕事内容も嘘じゃなかった」

 ジョークのつもりで里波は言ったが、奥野は申し訳なさそうに眉を動かして懺悔した。

「私がここを君に紹介したのは、自分の罪悪感を慰めるためだ。関本が来たのだって、同じような理由さ」

「卑屈すぎない?」

 里波は困った顔をした。

「それが事実だ」

 穏やかな風が吹いた。葉が揺れ、鳴る。

「赤森と一緒に、秋津に会ったんだ。松崎から逃げるように説得した。けど、ダメだった」

 里波の海が音もなく波打つ。

「誰かの力を頼って、松崎の元からは去らない。自分でどうにかする。そう言った」

 どうにかできないのを里波は知っていた。

「松崎さんから逃げられないのは俺がいるせいだろう」

 奥野は首を縦にも横にも動かさなかった。

「里波が秋津のそういう存在になった。それだけで、松崎は秋津に見切りを付けると思っていた。これは私が甘かった」

 奥野は甘い復讐を苦く噛み締める。

「どうやってもさ、俺にとって秋津さんは特別だから」

 里波が言った。お好み焼きからエビがはみ出している。

「それはもうどうしようもないんだよ」

 奥野はそれ以上何も言わず、お好み焼きを食べた。


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