帰らないといけない
酢豚、レバニラ、八宝菜にマーボー豆腐。あと、玉子スープ。テーブルに並べられた料理を里波と奥野は白米片手に食べる。里波との食事で、奥野がこんなに注文するのは、はじめてだった。メニューを広げ、手あたりしだいに注文する奥野に、奥さんは驚き、
「沢山食べるねぇ」
と、笑った。奥野は黙々と料理を胃に片す。
「里波君、これも食べなさい」
時折、里波に勧めるのも忘れなかった。平らげたあと、奥野は胡麻団子を持ち帰り、ふたりは店を出た。
「奥野さん今日、めっちゃ食べたね。俺、腹が破裂しそう」
里波はゲップを我慢する。奥野も腹をさすっていた。腕時計で時間を見る。
「やけ食いしたかったんだ。腹ごなしに散歩しよう」
里波と奥野は寒空の下、歩いた。そして公園に辿りついた。前に、里波と秋津がブレッドを捜しにきた公園だった。マロニエ公園と呼ばれているが、どんぐりの木しかない。公園は誰もいなかった。ふたりはベンチに座る。
「寒いな。やっぱりカフェでも入るか?」
奥野は首をすくめる。
「俺の腹はもう飲み物も入らねぇ」
里波は鼻先を赤くする。
「そうか」
奥野は腕時計を見る。それを里波が横目で見る。
「秋津さん、まだ松崎さんと話してるだろうね」
里波が言った。奥野は気まずそうに、腕時計をはめた手をコートのポケットに突っ込む。白い息を吐く。
「君に、もう松崎を会わせたくない」
里波のトラウマの一か月は消えていない。それでも、それより強い記憶が里波の傍にはある。奥野はポケットから手を出す。そこには厚みのある封筒があった。
「これを受け取っておいて欲しい」
奥野に渡された封筒の中身を里波が見る。札束だった。
「たぶん、この先の生活費は打ち切られる。困ったら、それを使え」
「一年更新の契約はやっぱり、意味なかった?」
里波は冷静だった。
「松崎にとっては不服の更新だ。もう我慢できなくなったんだろう。強硬手段に出る。秋津にも揺さぶりをかけるだろう」
里波は立ち上がって、家に帰ろうとする。
「秋津にもプライドがある。里波君が今帰ったら、君を守る彼のプライドがなくなる」
「なにそれ?」
里波は納得がいかなかった。
「私も秋津の気持ちが分かるわけではないよ。でも、秋津は里波君よりずっと、ずっと大人なんだ。今、帰るべきじゃない」
「なんだそれ……」
納得がいかないまま、里波はふてくされたようにベンチに再び座った。
「これから、大変だと思う。それでも、私は里波君が秋津に心がある限り、一緒にいて欲しいと願っている。お金に困るなら、できるだけ私が援助したい」
秋津は懇願した。里波はずっと不思議だった。
「どうしてそこまでするんだよ?」
秋津は長い白い息を吐いた。
「私は猫が好きだった。祖母が猫を飼っていて、私も可愛がっていた。優しい猫だった。祖母が病気で弱った時、いつも傍にいた。トイレに行く時も風呂に行く時も、ドアの前でうずくまって祖母を待っていた。愛おしい子だった。祖母より長生きした。赤森に預けた子猫は、うちの猫の血筋だ」
奥野はためらいがちな微笑みを浮かべる。
「私はある時、自分の才能に気が付いた。第一印象の直感が当たる。百発百中。私はその才能を信じていた。松崎の第一印象はすごくよくなかった。それでも、周囲の評判はとてもよく、松崎を悪く言う人間はいなかった」
里波はものすごく渋い顔をした。
「君には最初から本性マックスだったからな」
奥野は話を続ける。
「松崎に秘書を頼まれた。私は断った。周りに非難された。すると、だんだん私は私を疑うようになった。一度だけ、自分の直感に逆らってみようと思った。駄目ならやめればいい。死ぬほど後悔している。この手で猫を殺すハメになった」
奥野の手が震える。
「自分を信じなかったせいで、トラウマを持った。最初はそう思ったよ。でも、違う。松崎の秘書になったせいで猫が死んだんじゃない。松崎のせいだって」
「そう思うよ」
里波は力強く同意した。
「松崎が執着しているのは、秋津しかない。秋津を松崎から奪いたかった。これは復讐だ。私は復讐に里波君を利用した」
奥野は謝罪も口にしようとしたが、しなかった。唇を閉じる。
「後悔してんの? 俺を利用したこと」
里波が尋ねる。
「複雑」
奥野は神妙に言った。
「俺と秋津さんが楽しく暮らせば、奥野さんの後悔にならないよな」
里波は想像する。奥野の瞳が揺れる。
「今の家、引っ越して。どっかの小さいアパートに住む。ふたりで働いたら、いつかは家も建てられるかも。無理かなぁ。秋津さんよりはさ、俺めちゃくちゃ若いけどさ。普通にもう、大人。経験不足の大人。なんとかなるよ」
「そうなったらいい。きれいごとかもしれないけど」
奥野は自分が望んでいることなのに臆病になる。
「でもさ、奥野さん。きれいごとを諦めたら心はもたないよ」
里波がそう笑った。奥野もつられるように笑う。奥野のスマホが鳴った。帰ってもいい合図だった。
「今日はもう帰ろう。また今度」
奥野はそう言って立ち上がる。
「また今度」
里波は返した。先に去って行く奥野の背中を里波はしばらく見送った。
里波が帰る家は暖かい。
「めっちゃ、暖房効いてる」
居間で里波はマフラーをとく。秋津が両手で里波の顔を包んで、声を上げた。
「冷たっ! 氷だね」
笑いをこぼしながら、秋津は冷えた里波の肌を温めた。
「公園で喋ってた」
ダウンのポケットにある札束の話を秋津にするか一瞬里波は迷ったが、やめておいた。里波は秋津の手首を掴むと顔から離した。
「上、脱いでくるから」
「そう。何か飲む?」
「今はいいや」
自室に入ると、里波はポケットの札束をデスクの引き出しの奥に隠した。ダウンをハンガーにかけると、ベッドにぬいぐるみのシグレがいないのに気がつく。
「秋津さん、シグレ知らない?」
「俺の部屋にいるよ」
冷蔵庫を開けていた秋津が扉から顔を出す。
「いるならいいや。夜、取りに行く」
「そう。今夜、何食べようか?」
秋津が冷蔵庫の食材とにらめっこする。里波は申し訳なさそうにした。
「昼に食べ過ぎたから、夜は食べれんかも」
「そう。じゃあ、俺も軽めにしようかな」
「いいよ、俺に合わせなくて。好きなの食べて。秋津さんはもっと自分の気持ちを大事にしな」
里波が言った。
「じゃあ、里波が俺の心になって」
秋津は冷蔵庫の扉を閉める。里波は困惑の間を置いて、返した。
「この脈絡でそんなこという?」
「ずっと思ってたことが今、出ただけ」
食卓の上にトマト缶があった。里波はそれを手に取る。
「今夜、ミネストローネにするつもりだった」
秋津が言った。
「この間、俺が作ったのおいしかった?」
「うん」
秋津が素直に頷く。里波は照れる。
「スープぐらいは食べれる。一緒に作ろう」
「うん」
「あと、秋津さんの心は秋津さんのものだからね」
里波はトマト缶を食卓に戻すと居間に行って、座った。それに秋津がついていく。
「怒った?」
秋津は里波の後ろに座る。里波はふり向く。
「怒んないよ。嬉しかったけど、嬉しい。でもって感じ」
「難しいね」
秋津が笑う。
「そう。難しいんですよ」
里波はうまく説明できなかった。秋津に秋津をないがしろにして欲しくなかった。ワガママな秋津をもっと里波は知りたかった。秋津は里波の背に耳を付ける。冷たい体温の鼓動が、心地よかった。里波も見えない体温を穏やかに感じていた。
里波は松崎とどんな話をしたか、秋津に聞かなかった。秋津も里波に話さなかった。
里波はもうひとつリストを作ることにした。やりたいことリスト。秋津と暮らしていくためにやりたいこと。里波はとりあえず、ひとつ書いてみた。
・引っ越す。
秋津と住んでいる借家の家賃は、森に払ってもらっている。里波はこの家が好きだけれど、出て行かなければならない。候補は新しくアパートを借りるか、里波の実家だった。厳密に言えば、母方の祖父母の家だった。祖父は里波が小学生の時に、祖母は里波が高校生の時に亡くなった。それから、空き家になっていた。里波家は元々、マンションに暮らしていたが、両親がフィンランドに行くことが決まると、売りに出した。里波の母はひとりっ子で、その家をどうするか保留にされていた。家は最寄り駅から徒歩三十分で、電車の本数は一時間に二本あるかどうかだった。半年に一度、風を通しに里波は実家に行っていた。秋津には行き先をいつも伝えていたが、毎回ひとりで行っていた。一緒に行くには不便な場所なため、里波は遠慮していた。
「週末さ、実家にちょっと行くんだけど、秋津さんも一緒に行かない?」
新しいラベンダーが香る時間、里波は誘ってみた。秋津の手が肌を滑る。
「年末に行ったばかりだろう」
秋津が聞く。
「ちょっと、気になることがあって」
咄嗟に里波は言い訳が思いつかなかった。
「ガスの元栓閉め忘れた?」
「ガスも電気も止めてるよ」
そう返したが、ちょうどいい理由を里波は思い付いた。
「ふと、二階の窓閉めたか気になって。秋津さんがちょっと遠出したい気分ならどうかなって」
「いいよ。一緒に行こう」
秋津は言った。
「ありがとう。早起きしてね」
次の日、ふたりは八時前に家を出て、実家に着いたのは昼前だった。それを見越して、家から水筒に入れたお茶とスープマグに入れた味噌汁を持ってきていて、電車に乗る前におにぎりを買った。
「うちより綺麗だね」
里波の実家を見て、秋津は言った。里波は鍵を開ける。
「リフォームしてるから」
里波の実家は秋津と住んでいる家と真逆の、洋風の造りをしていた。門扉から玄関までは、レンガ造りで、外壁も白い。玄関のドアも引き戸ではない。里波はリビングの雨戸と窓を開けた。
「ついでだから、風通すな。二階見て来る」
建前を成し遂げるために、里波はひとりで二階に行く。窓の鍵はすべて閉まっていた。リビングに戻ると、秋津はあぐらをかいて開いた窓際に座っていた。
「お昼、食べよっか」
里波が声をかける。
「そうだね」
秋津がバックパックから、水筒とスープマグを出す。風に秋津の髪がなびく。
「窓閉める?」
「いいよ。ピクニックみたいで」
秋津は楽しそうだった。
「じゃあ、春にもう一度来よう。あったかい日にピクニックはするもんじゃん」
里波が誘う。
「ははっ。こんな日にするのもオツでいいよ」
「オツって」
里波は笑う。ふたりは味噌汁を分け合った。おにぎりを食べながら、里波は聞いた。
「この家住むのに、どう思う?」
秋津は庭を眺める。
「トマトもキュウリも育てられるスペースあるよ」
里波は秋津が乗り気になりそうな理由を伝える。
「いい家だし、いい庭だね」
秋津は落ち着いて、素直に褒めた。
「今は雑草生えてるけど。草抜き大変なんだ。今度、秋津さんも手伝ってよ」
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
「今だから、言ってんだよ」
秋津は里波に微笑み返す。
「ありがとう、里波」
「別に」
里波はおにぎりを飲み込む。食後、倉庫に新品の軍手を発見し、秋津と里波は庭の草を抜いた。
「先月、抜いてこれだけ生えるなら俺の生家も竹だらけになるはずだ」
「雑草と竹は違うでしょ」
里波が言った。
「秋津さんの生家ってどこらへん?」
里波は秋津に背を向けて、さりげなく尋ねた。秋津はすらすらと教えた。
「住所は忘れないもんだね。電話番号は忘れたけど。少ない数字だったはずなのに」
「電話あったんだ?」
「たぶんね。まあ、覚えていても、もう繋がらないし」
「確かに」
里波は笑った。庭で話しながら草を抜いていると隣のおじさんが声をかけてきた。里波は挨拶をする。週明けのごみの日についでに出しておくから、と親切にしてくれた。里波たちはゴミ袋に抜いた草を詰めた。家に入り、里波は窓を閉める。戸締まりを確かめる。
「そろそろ帰ろう。秋津さん」
「そうだね」
秋津は頷いた。
「え、じゃあ里波は地元帰んのか?」
週明け、講義終わりに里波は卒業したら空き家の実家に住むかもしれないと須永に話した。
「たぶんね。まだ決めた訳じゃないけど。須永は?」
「俺も実は実家に帰ろうと思ってる」
「家業、継ぐの?」
須永の実家はブドウ農家だった。
「いや。市役所受ける」
「え! 公務員!」
里波は驚く。
「候補のひとつとしてな。受かるか分かんねぇし。けど、うち兄貴が美容師だから、継ぐことになるかもな。親は別にいいって言ってるけど」
「そうなんだ……」
里波の将来設計に、浅い考えの影がさした気がした。バイトに行く須永と別れ、里波は本を返しに図書館に寄った。次の本は借りなかった。自習机に、里波はリストを広げた。リストと言っても、項目はまだひとつしかない。「引っ越す」の下になかなか文字が続かない。やるべきことはいくつもあるはずなのに、頭の中は漠然として指先に伝わってこない。里波はボールペンを置く。自分は浮かれすぎている。里波は薄々、自覚が芽生えていた。森のアルバイトを終えて、里波は新しいアルバイトをしていない。それでも、秋津と一緒に暮らすことで金に困ることはなかった。それをこれからは身に受けないといけない。奥野に金の無心をするような人間に里波はなりたくなかった。里波はボールペンを持つ。これは「やりたいことリスト」だ。そう思い直し、ボールペンを走らせる。
・秋津さんと一緒にいたい。
その一文を里波は二重に囲った。それ以上のことは何も思いつかなかった。
家に帰ると、秋津はほうれん草のお浸しを作っていた。味噌汁の具もほうれん草で、里波は溶いた卵を入れた。夕食を食べ終えた頃、雨が降りはじめた。
「そのうちに雪になるね」
カーテンを閉めながら秋津が言った。里波は厚手のガウンをはおり、もこもこの靴下を履いた。
「こたつが欲しいね」
里波は思わず言った。
「そうだね。来年は買おうか」
秋津が言った。里波は嬉しそうに頷いた。里波が風呂から上がると、里波のベッドにシグレが寝かされていた。昨夜シグレは、秋津の部屋にいた。秋津が里波の部屋に顔を出す。
「湯たんぽしといたから、ついでに寝かしてみた」
里波は布団の中に、手を入れる。
「あったけぇ。いつの間に湯たんぽ買ってたんだよ」
「先週ね。俺、風呂に入るから。居間の電気消すよ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
秋津が戸を閉める。里波も部屋の照明を切るとベッドに潜った。シグレを抱きしめ、ラベンダーに包まれ、温もりの中に沈んでゆく。浅い影は深い夜に引きずられる。外は雨でうるさかった。
目が覚める。音がなかった。しんとした空間に、透き通った寒さが張りつめる。里波は眠り直そうとしたが、静かすぎて落ち着かなかった。里波はベッドから抜けると、カーテンを開ける。庭はまっしろだった。
「すげぇ……」
里波の声が白い息になる。目がチカチカする雪の眩しさに、里波はカーテンを閉める。何時だろう、とスマホを見る。すると、関本からの着信履歴があった。午前三時過ぎ。メッセージも届いていた。
深夜にごめん。奥野がクビになった。秋津は無事?
里波は部屋を飛び出し、秋津の部屋にノックなしで入った。布団がきちんと畳まれていた。よろけそうになりながら、玄関に行くと靴がなかった。里波は素足のまま、スニーカーを履いて、外へ出た。足跡があった。里波は家の鍵も閉めずに、走ってその足跡を追いかけた。耳が鼻が指が、冷たさでバラバラになりそうだった。喉が血で凍りそうだった。里波は時々立ち止まって、足跡に目を凝らし、また走る。静かな白い世界に、里波の息切れだけが騒めく。マロニエ公園で佇んでいる人影を見つけた。里波は秋津の名前を呼んだが、声は掠れもしなかった。それでも、秋津はふり返った。驚いた表情を見せ、すぐに微笑んだ。目尻には優しい皺。里波は整わない息を飲み込みながら、秋津に歩み寄る。
「勘がいいね、里波は」
秋津は小さい子どもを褒めるように言った。
「なんで」
掠れた声を息切れの間に里波はやっと出した。
「俺は、長く生きてきたのに、人間らしい感情的な生活をおろそかにしすぎた。もっと、人脈や、人脈以外思いつかない。こういうところもダメなんだろう。気楽に生き過ぎた。寿命で死ぬことはないと思っていた。大切なものなんて、できると思わなかった」
秋津は淡々と語る。雪はもう、やんでいた。里波は泣きそうだった。
「里波のことは、ほかの人間よりちょっとかわいいぐらいだった。人間なんて、何万人と関わってきたのに。いや、何億かも」
秋津が声を立てて笑う。里波は笑わない。
「過去の自分が恨めしい」
秋津はどうしようもなかった。
「どこ、行くんだ?」
恐れながら、里波は聞いた。
「森に帰るんだ。俺は松崎に色々握られすぎてる。里波と一緒にはいたい。けど、この世界から里波が消えて欲しくない」
里波は息が詰まる。喉が痛かった。
「松崎に脅されたのか?」
秋津は何も言わなかった。なんで、言ってくれなかったのかという思いが、里波の胸に湧いたが、里波にできることは何もなかった。秋津もそれを分かっていた。だから、言えなかった。
「夢は長く見たかった」
秋津はまぶたを閉じる。
「夢にすんなよ」
里波は瞳を開く。そして、俯いた。
「待ってろ、とかもないのかよ」
秋津は目を開ける。
「言えない」
秋津は、コートを脱いで里波にかけた。
「風邪を引く。帰りな」
里波は秋津を睨む。秋津は里波を抱きしめた。
「どうか傷つかないで」
秋津の声が里波の耳元で擦れる。里波は秋津にしがみつくと言い返した。
「傷つくよ。これから、むやみやたらに俺は自分を傷つけるから。あんたの都合よくなるもんか」
秋津はあやすように、里波の背中を叩く。
「今、思うと長いけど、生きていけばこの瞬間は、たいした時間じゃない」
里波は首を横に振る。通り雨にするには過ごした時間は深く、長すぎた。秋津は里波の背から手を離す。里波の腕にそっと手を置いて諭す。
「俺にも里波にも、どうすることはできない。俺に、里波は守れない」
「一緒にいて欲しい」
里波は抵抗した。
「一緒にいたら、里波だけが死ぬ。俺は嫌だよ」
この人はどれだけの人に置いていかれたのだろう。里波はそう思って、でも、をくり返して、握りしめた手を緩めた。腕をすとん、と落とす。
「コート、ちゃんと着な」
さめざめと泣く里波の腕を秋津は、コートの袖に通してやった。
「帰って。最後くらい、俺にプライドを守らせて」
里波は唇を噛み締める。そして、ゆっくりと背を向けた。秋津と里波の足跡が絡み合うように続いているのを、里波は眺めた。それを崩すように、足の裏をひこずって歩き、マロニエ公園を出て行った。里波は一度も、秋津をふり返らなかった。
里波は寒くて寒くて堪らなかった。それでも、涙はとまらなかった。手でいくら拭っても、どうにもならなかった。冷たくなる指が我慢できず、コートのポケットに手を入れた。指先に何かが触れた。里波は、立ち止まりポケットからそれを出す。折りたたまれたレポート用紙だった。それは里波があげたものだった。秋津のやることリストだ。里波はリストを広げた。
里波と、
左上に小さくそう書いてあるだけだった。それ以外は空白だった。里波はリストを握りしめて、俯く。鼻にコートの襟が掠めるが、ラベンダーの香りはしない。雪が積もっている。里波はまぶたを閉じる。まぶたの裏の風景もまっしろだった。




