森に来た夏
※ボーイズラブ作品です。
里波は髪を赤く染めた。そのせいで、アルバイトをクビになった。
「オマエさー、髪染めんのダメだったなら言えよ」
大学構内のカフェテリアで須永が呆れた。須永の兄が美容師で、もしよければと里波にカラーリングの練習台を頼んだのだ。
「店長が茶髪だからさ、染めても大丈夫だと思ったんだよ。でも、赤はダメなんだって。赤色選んだのは俺だし、須永は気にすんな」
須永は張り切ってシルバーに染めた。里波は須永に奢ってもらったカレーライスを食べながら、前髪をかきあげる。
「前髪はもっと切ればよかったな」
「兄貴に頼むか?」
「今度でいいよ」
ピラフを食べ終えていた須永は、スマホを出した。
「家の近くと大学の近くどっちがいい?」
里波はスプーンについたルーを舐める。
「え、探してくれんの? 家チカがいい」
須永が思い出す。
「兄貴んとこの美容院行く前にさ、オマエんちの近くの中華屋行っただろ? 天津飯が死ぬほどうまいとこ」
「行った」
「あそこ、アルバイト募集の貼り紙なかった?」
「あった」
須永は中華屋の電話番号を調べた。
近所の中華屋は月日が馴染み、風景のにおいとなっている街中華といった感じで、カウンターと四つのテーブルがある、こぢんまりした店だった。須永が調べた電話番号にかけた里波は、土曜の三時に面接の約束をした。その時間は営業時間外だった。里波はテーブル席に座って、店主が戻って来るのを待っていた。
「ごめんねぇ。早めに来てくれたのに。ちょっと、町内会長さんのとこ行ってるだけだから。すぐに戻って来るからね」
店の奥さんが、水を運んできて申し訳なさそうにする。
「大丈夫です」
里波は、水をゴクゴク飲んだ。中華屋は冷房がよく効いていた。できるかぎり長居をしたいから店主遅刻してこないかな、と考えながら里波は厨房の方を眺めた。埃と油でベタベタになった換気扇の羽根が、外の風の力だけでのろのろと回っていた。節電のためか、照明の明かりのほとんど落とされ、薄暗い店内に換気扇からこぼれる日差しは白く、のびたりちぎれたりしている。ドアベルが鳴った。里波はふり返る。店主ではなかった。なで付けた黒髪に、細フレームの眼鏡。シャツは腕まくりし、ボタンは第二まではずしている。細身ではないが、中肉中背でもない。それよりなにより姿勢がすこぶるよかった。
「あら、奥野さん! いらっしゃい! お久しぶり」
「ご無沙汰しております」
奥野のお辞儀にはゆがみがなかった。里波は思わずまじまじと見つめる。
「申し訳ない、時間外に」
「いいのよ。ちょうどこの時間は店にいる予定だったから」
奥さんが里波を一瞥する。奥野と目があった里波は、座ったままぎこちないお辞儀をした。奥野はなかなか里波から目を離さない。里波は不思議に思う。奥野は、軽やかな所作で里波の向かいに座ると尋ねた。
「君はアルバイトか?」
「これから面接です」
テーブルにあらかじめ出しておいた履歴書を里波は指さす。奥野はそれを滑らして手に取る。
「里波俊吾。大学生。二年生?」
「あ、はい」
戸惑いながらも里波は頷く。
「もうすぐ夏季休暇でしょ?」
「あ、来週から」
「ふーん」
奥野は履歴書を熟読する。この人はいったいこの中華屋でどういうポジションなんだと里波は疑問だったが、聞けず無言で待った。奥野がまた口を開く。
「実家?」
「いや、ひとり暮らしです」
「家帰らないの?」
「親、今海外なんで。俺、飛行機苦手で、会いに行くのもちょっと。年末にはこっち帰って来るんで」
「そうか。そうかそうかそうか」
奥野は、嬉しそうに頷きながら履歴書を裏返す。
「里波君さ、住み込みのバイトどう? 一か月」
「へ?」
ポケットからボールペンを出した奥野は履歴書の裏に数字を書く。
「バイト代これだけ出すよ」
「めっちゃ多い!」
里波は思わず口を手で押える。
「食費もこっち持ち。電気代も浮くよ」
その一押しは強烈だった。里波は口を押えていた手を挙手に代える。
「奥野さんこれ、胡麻団子。あら、お喋り?」
立ち上がった奥野は申し訳なさそうにした。
「横取りで誠に申し訳ないんですが、この子うちにもらえませんか?」
奥野はただの客だった。
住み込みのアルバイトをすると須永に連絡すると、じゃあ代わりに俺が行くと言い出した須永が、中華屋で働くことになった。須永は里波から電話をもらった時、春ごろからベランダに時々やって来る猫が、痩せ細ってゆくのが見てられず、飼う決意をしていた。猫のために稼がなければいけなかった。須永は猫の名前を「ブレッド」と付けた。お腹が白いトラネコだった。
「あの中華屋は昔なじみでね。今の仕事をする前はよく通っていたんだ。元常連。私があんまりにも胡麻団子を頼むから、ああいう風に持ち帰りさせてくれるようになったんだ」
車は高速道路を走る。奥野はカーナビの電源は付けなかった。
「あそこおいしいよね、ですよね」
奥野が笑う。
「敬語は苦手なのか?」
「時々」
里波は気まずそうに曖昧にした。
「君が世話をする人にはそういう感じでいいよ」
「そういう感じ?」
里波は聞き返す。
「気負わず、自然な感じで。次のサービスエリアに寄ろう」
「あ、友達にお土産買っていいですか?」
「いいよ。ついでに心配したらいけないからその友達に、メッセージ送っておいたらどうだ? これから行くところは、電波が届かないからね」
「え?」
奥野が飲み物を買いに行っている間、里波はサービスエリアのベンチで須永にメッセージを送った。するとすぐに電話が鳴った。
「今更だけどさ、オマエなんの仕事なの?」
前置きなしに須永が喋り出す。
「山奥のコテージで雑用。夏が繁忙期で人手不足なんだって」
そのコテージで長期滞在している男がいる。その客の身の回りの世話をして欲しい。仕事内容をそういう風に里波は奥野に説明された。辞めたくなったらすぐに帰してあげるから、と奥野は微笑んでいた。
「ふーん。まあ、デジタルデトックスになっていいんじゃね?」
須永が能天気に言った。
「たしかにぃ。俺、依存症ぽいとこあんし」
「それだけ能天気なこと言えんなら、そこまで依存症じゃないだろ。これからバイトだから、そろそろ行くわ」
「いってら。ブレッドの写真送ってよ」
「気が向いたらな」
そう言って電話を切った須永は速攻で、ブレッドの写真を送ってきた。腹を見せて寝ている。里波に影がかかる。
「お待たせ。何笑ってるんだ?」
奥野がアイスコーヒーとアイスティーを持って立っている。里波も立ち上がると、奥野にブレッドの写真を見せた。
「友達の猫。かわいくないですか?」
奥野はすぐに目をそらした。
「私、猫怖いんだ。トラウマがある」
「それはすんません」
里波はスマホをポケットにしまい、アイスティーを受け取った。里波は一口飲む。慣れない紅茶の味がした。
「何時ぐらいに到着予定ですか?」
再び車が走り出し、アイスティーはカップの半分まで減っていた。奥野はそれをちらりと確認する。
「お昼は過ぎるよ。途中、どこかでご飯を食べよう」
奥野は心にもないことを言う。里波はぼんやりと前を見る。
「近くにスーパーもコンビニもないって聞いてカップラーメン持って来たんです。あと袋ラーメンも」
「そうなんだ」
「本当は納豆と、できたら卵も欲しいけど」
里波はぎゅっと瞬きをして、目をこする。
「納豆も卵もあるよ」
「やったぁ」
里波は、うとうとする。アイスティーが傾く。それをさっと奥野は取るとドリンクホルダーに置いた。しばらくすると、里波の寝息が聞こえはじめた。長い前髪が、里波の顔にかかり、揺れる。
ドリンクホルダーからアイスティーはなくなっていた。
「里波君。里波君、起きて」
奥野が里波の肩を叩き、呼びかける。里波はゆっくりとまぶたを上げた。
「着いたよ。ぐっすり寝てたから、起こすのも悪いと思って食事は飛ばしたよ」
「だっ! はっ!」
里波は自分が寝ていたことに気がつき、慌てて起き上がろうとしたがシートベルトに押し返された。
「落ち着いて」
奥野は車を降りると、トランクを開ける。里波もシートベルトをはずし、前髪をかき上げ、車から降りる。地下駐車場だった。ひんやりとした空気が里波を包む。里波はきょろきょろしながら、奥野の元へ行く。
「はい」
里波は奥野からバックパックを受け取り、背負いながら薄暗い駐車場を見渡した。地下駐車場の入り口が眩しく、この薄暗さから切り取られている。奥野はボストンバッグをおろすと、トランクを閉める。ボストンバッグはかなりくたびれている。それは里波の父のお古だった。
「これは私が持つから。君だけたくさんの荷物を持たせるのは人目が気になる」
「あ、じゃあ、お願いします」
「中からも行けるけど、せっかくだから外を見て行こうか」
「あ、はい」
奥野が眩しい入口へ歩いて行くのに里波は、落ち着きなくついていく。外に出ると、一面緑だった。山奥というよりは、森のなかのようだった。建物をふり返る。建物も緑に覆われていた。蔦に囲まれた白い外壁が見える。建物は四階建てだった。佇んでいると表現するには、威圧的過ぎた。想像していたコテージとはまったく違い、里波は驚くしかなかった。
「ここのことは『森』と呼んでいる」
奥野が言った。
「森? 森って、」
飲み込まれそうな木々の奥を里波は見つめて、続けた。
「どこまで?」
「ここの施設を総じて森と呼んでいる。正式名称は特にない。あまり遠くに行かない方がいいよ。この建物が見えなくなると、帰れなくなる」
里波は奥野を見るが、奥野はけして視線を合わせず歩き出す。里波は奥野が持つボストンバッグに視線を落とす。急に心細くなった。
ガラス戸を押して建物に入る。ロビーは窓明かりだけを頼りにしていた。水色のロビーチェアが三つ、ひっそりと横に並んでいる。
「エレベーターがあるけど、基本は階段移動で。エレベーターは荷物を運んだり、とにかくやむ負えない場合のみ。里波君の部屋に案内するよ」
聞こえる音は里波と奥野の足音だけだった。奥野が気にする人目など、まったくなかった。里波は自分達以外の人の気配を捜すように頻繁にふり返った。
「奥野さん、コテージのお客さんって何人ぐらいいるの?」
コテージのアルバイトと聞いて里波はここへ来た。あまりにもこの「森」の雰囲気が予想していたコテージと違い、里波は自分が明らかな異物のように感じ、頼りなくなった。この森は、コテージというよりは、病院のようだった。
「ここに滞在している人間のことは、アルバイトの君には教えられない。数は正規職員の一部しか把握していない。里波君は、秋津さんという人の世話をして欲しいんだ」
「……なんで俺なんですか?」
里波のその質問はあまりにも遅すぎた。奥野が立ち止まる。里波は緊張する。奥野はポケットからカードを出して、ドアを開けた。
「ここが君の部屋だよ。風呂トイレ付き。冷蔵庫もベッドの横にある。掃除をお願いする時は、この札を外側に貼って。貴重品の管理は気をつけて」
ドアの裏にあった磁石になっている「清掃お願いします」の札を奥野は指で叩く。部屋はビジネスホテルによくある間取りだった。入ってすぐの右側にクローゼット。反対側に姿見、風呂とトイレ。ユニットバスではなかった。真っ白いベッドと鏡台を兼ねたダークブラウンの大きなデスク。レースのカーテンが引かれた窓の傍には丸いテーブルとふたつのソファチェア。奥野は部屋の奥まで真っ直ぐ歩くと、ボストンバッグを左側のソファチェアに置いた。
「お昼抜いたから、お腹が空いただろう? 食堂がある。すぐに行くかい?」
奥野は腕時計を見る。
「三十分ぐらいなら休んでいいよ」
「あ、じゃあ、ちょっと休みます」
里波は軽く壁にもたれた。奥野が里波の近くに来る。
「私が、里波君にこの仕事を頼んだのは、君がここで働く人間にはいないタイプだったから」
奥野は遅れて里波の質問に答えた。里波は中華屋の出会いを思い出して、眉間に皺を寄せる。
「人間のタイプがあんな一瞬で分かります?」
里波の声に猜疑心がにじむ。
「私は第一印象で人を決める」
奥野は平然と言った。里波は何も言い返さなかった。奥野はカードを差し出す。
「部屋の鍵。なくさないようにね」
「はい」
「三十分経ったら、迎えに来るよ」
「はい」
「じゃあまたあとで」
奥野は部屋を出て行く。里波はバックパックを適当に床に置くと、ベッドに腰掛けた。窓の向こうを見つめるが、レースのカーテンのせいでぼんやりしていて、緑色もよく見えなかった。
里波は食堂でハンバーグ定食を食べた。あまりのおいしさに感動した。食堂のメニューは二十種類あった。里波はここにいる間に制覇しようと決める。居心地はまだ悪いが、そのうち慣れるだろうと里波は楽観的に気持ちを向けた。一か月、光熱費と食費が浮いて、お金までもらえる。日々は必ず過ぎる。里波は悪いことを考えるのはやめて、その日は早めに寝た。