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【短編】親友のことが好きな女と

作者: 照元章一


 大学二年、夏休みの終わり、といっても眉をひそめる暑さも去った九月の末、私はある(ひと)に連絡を受けた。


 それも「今、何してる?」だとか、「暇なら飲みに行こうよ」とか、そういう、軽々しく受け流せる連絡と言うわけではない。


 そこには「今すぐ来て」、「もう死んでしまいたい」という、にわかには信じられない文言があって、というのは、彼女に、そんなことを言うイメージなんて一切なかったから、これは何事かと、私は大いに慌てた。


 けれど、結果から言ってしまえば、この()()には、まったくと言っていいほどヒステリックな結末は訪れなかったし、かといって、ドラマチックなそれも一切なかった。

 しかし、私の人生において、到底忘れられない出来事であったのもまた確かで、そんな妙に、放ってはおけない、事件だった。


 事件。

 そう言ってしまえば、許されると思う自分もいる。

 しかし同時に、そんな大したことではないのかもしれなかった。

 

 その日あったことを順に言えば、私は、彼女から連絡を受けて家に向かい、少し酒を飲んで、しばらく外を歩き、そのまま一緒に寝て過ごしたと言うだけなのだ。


 だから、客観的に見れば、ただの仲睦まじい男女が、どうってことない一夜をともにしただけの出来事だとも言える。

 ただそれでも、私には、無視できない重要な出来事だった気がしてならないのだ。


 あらかじめ言っておくと、彼女は私の好きな人だった。とにかく大好きな人だった。

 見た目も性格も、私にはもったいないほどの(ひと)だ。

 しかしそれ以上に彼女には惹かれる何かがあって、この人でなければ駄目だという、鬼気迫る気持ちが私にはあった。

 

 彼女とは一年前、たまたま飲んでいる店で会った。

 その店はやけに古臭くて、席はだいたい十くらい、その日は全ての席が埋まっていたと思う。

 

 来ていたのは、新しい客と言うよりは、いつもの常連という感じだったが、一見の私たちにも優しく、それはいい店だった。

 

 このとき私は親友のMといて、ひどく飲んでいた。


 彼との話題と言えば、その大体が「就活がもう始まる」とか、「バイト先の先輩がウザい」とか、どこにでもいるような大学生が、いつでも話しているようなもので、わざわざ酒が必要な話でもなかった。


 しかし、ときより、ふと熱をもって盛り上がることがあって、つまり私たちはそのために酒を飲んでいると言ってもよくて、それは私とMの恋愛観について、相違する意見をぶつけ合うための議論だった。

 

 Mは、女性との付き合いに対して、いつも、テキトウに遊んだほうがいい、それがいつか本物の愛を教えてくれる、というような主張だった。


 一方の私は、そんなのは不純だと、遊び人はいつまでたっても遊び人で、誰とでも真剣に向き合う人間が、いつか本物の愛をしることになるという主張だった。

 

 今に思えば、こんな議論は、誰が聞いたところで娯楽にもならない、まして二十そこいらの若者が悟ったようにする話ではない風に思うが、それでも、自分の考えを信じて止まない若者の扱いとは厄介なもので、気づけば私たちの声は店全体に轟くほどのものになっていた。

 

 予想外だったのは、この大きな声で、半ば強制的に巻き込んだ周囲の客が、同じように議論に加わったことだった。

 店全体が一つの話題で持ちきりになり、そこにいる全員で問題を共有した。

 

 そしてその中に彼女がいた。


 彼女はそのとき、私の考えに賛同した。

 そして私を組織のリーダーとするなら、彼女はその右腕として、そう例えるのが自然なほどに、次々と僕の援護をして、Mに口撃を仕掛けていた。

 

 そして、こうするうちに、私と彼女が意気投合するのは、赤ん坊が立ち歩きを覚えるくらいに当然のことで、気づけば、私とMは、彼女とその友達を加えて、四人で一緒に酒を酌み交わしていた。

 時々、彼女とMが、思い出したように熱くなっては、言い合いをしていたけど、それもまた一興ではあった。

 

 大学生活とは、人生における夏休みなどとよく例えられるが、それからの生活は、まったくもってその通りになった。

 

 残り二年という時間の中に、人生最大の思い出を残そうとした私たちは、それからもよくつるんだ。

 たとえば、その年の冬には四人でレンタカーを借りて、長野の山奥まで、雪山をすべりに行った。

 春先には、近くのキャンプ場でBBQもした。

 

 そうして、インスタのページには、四人で映った写真がことあるごとに追加されるようになる。


 気づけば、「本当に幸せなら、他人に見せびらかす必要ないだろ」なんていう、生活の充実してない人間こそが僻んで言うのを見つけては、「他人の幸福を受け入れられないのは、自分自身が不幸だからだ」などと思うようになった。


 ちなみに、彼女と出会う前の私は、もともとそうやって僻んでいた側の人間で、だからこそ、それが僻みによるものだと見抜けたということは、あえて言っておきたい

 

 そうして私は、まるで決まっていたかのように、彼女のことを好きになった。

 ただ、これと言って、好きになったタイミングなどは思い出せない。

 

 いや、今に考えると、実は、初めて会ったその日には、私はもう、彼女に惹かれていたかもしれなかった。

 

 あの時、隣に座った彼女の横顔は、穏やかで、明るくて、妙に真っすぐだった。

 そこから感じる純真無垢さは、私の知っているどの女性よりも純度が高かった。

 そして、そんな自分にないものに対する興味が、いずれのうちに好意へと変わっていったのだ。

 

 思い返せば、四人でいるとき、私はいつも彼女の一挙一動を見つめていた。

 そこに、彼女との関係を進展させる、何か重要な情報がないかと、いつも探していた。

 こちらに向けられる笑顔、言葉、しぐさ、目に入る情報全てから、彼女の私に対する気持ちを探ろうとした。


 そして、どこかの恋愛特集に載っていそうな、脈あり診断などに当てはめては、都合のいい部分にだけ目を向け、反対に、少しでも私と彼女の進展を否定しようものがあれば、そんなのはくだらないと揶揄した。

 

 ただしそれは、改めて鑑みると、まるで狂気であった。

 私は完全に狂っていた。

 彼女のこととなると、それまでの人格全てを投げうって、彼女の求める男になろうとしていた。

 とにかく私はイカれていやがった。


 そしてそれは酔い。自己陶酔。

 結局は、彼女を好きな自分のことが好きなだけだと、ある日、ふと思ったのである。

 いや、思ったというよりは気づかされた。彼女のことを見ているようで、私は自分のことしか見ていなかったのだ。

 

 根拠はいくつかある。ただ、一つ上げるとすれば、それは彼女の目線だ。

 彼女はいつも同じところを見つめていた。

 それなのに、私はそんなことにも気付けなかったのである。

 水面下で進んでいたそれを、まったく感知できなかった私は、なんと哀れなのだろうか。

 

 私たちが店で出会って半年後、彼女はMと付き合った。



 と、言うのを踏まえると、やはり、この日にあった連絡とは妙なのである。


 「死んでしまいたい」なんていう深刻な問題があるのなら、それは私なんかではなく、まっさきにMに話すべきで、むしろ、彼女の中で私とMの優先順位が入れ変わったのかと、愚かにも期待したほどだった。

 

 彼女から連絡があって二十分ほど経ったころ、私は彼女住む、三階建てのアパートの前についた。

 乗ってきたバイクを駐輪場のところに止め、部屋の前まで行く。

 ドアの横に付いたベルを鳴らすと、中から足音が聞こえて、まもなくドアが開いた。

 

 私はここにくるまでに、彼女がどんな様子なのか、あれこれと想像していた。

 最悪の状態、例えばナイフの一つでも持って取り乱していたなら、自分の体に刺してでも止めようとか、そんなことを考えていた。


 しかし、ドアを開けた彼女は、驚くほどにあっけらかんとしていて、色々考えていた私が寂しさを覚えるほどに、本当にいつも通りだった。


 「来てくれたの。返信なかったから来ないと思った」

 「いや、なんかヤバいと思って急いできたんだけど」

 「そう……」

 少し寂しそうに彼女は言って、私を玄関に残し、すたすたと部屋の中へ戻って行った。

 

 ここで私は、今後の人生において重要な見解を得る。

 それは、本当に何かを望む者は、言葉よりも、まず行動が伴うということだ。


 本当に仕事を辞めたい人間は、誰かに言う前に会社を辞め、本当に愛する人間には、愛してると言うより先に抱きしめる。

 本当に誰かを心配した人間は、連絡するより先に駆け付け、無論、本当に死にたい人間は、死にたいという前に死ぬのだ。

 

 つまり彼女は、本当に死にたいなどと、これっぽっちも思っていなかった。

 彼女の言う「死にたい」は、せいぜい「かまって」くらいの意味なのだろう。

 彼女にもそんな一面があることを、私はまったく知らなかった。


 「何ぼーっと立ってんの。入れば?」

 彼女は呆然とする私に冷たく言い放つ。こうして私は、好きな人の部屋に足を踏み入れた。

 

 部屋の中心まで来ると、彼女はテーブルのあたりを適当に手で差して、「好きに座って」と言うので、床に置かれていた座布団の上へポツンと座った。


 すると、奥から酒をもって戻ってきた彼女が「そこは、私の場所」と言うのから、「別にいいでしょ」と面倒くさそうに見せて言い、反対側に置いてあった同じ座布団の上へ座った。

 

 落ち着かず、部屋の中をキョロキョロ見ていると、彼女は、目の前に五百ミリリットルのチューハイを一本出す。

 「ちょっと付き合ってよ」

 酒は苦手だったし、帰りにバイクに乗ると飲酒運転になる、などと思いつつ、結局彼女に付き合わなくてはいけない気がして、私はそれを受け取った。

 

 そこからの会話は上の空であまり覚えていない。

 しかし、こういう時に早速本題を促すのは野暮だと、それくらいの常識はあったので、多分、他愛も中身もない話をしたのだと思う。

 そして気づいた時には、こんなことを言っていた。


 「でも、意外と部屋は綺麗にしてあるんだね」 

 「意外とってなによ。女の部屋にしては可愛くなくてごめんね」

 「別にいいよ。逆に女の子らしい部屋は、似合わないだろうし」

 そう言ってからかうと、彼女は近くにあったクッションをこっちに投げてきた。


 その攻撃は、言葉に対する仕返しのはずなのに、力もなく、それどころか衰弱を必死に訴えるように弱々しくて、私は急に彼女が心配になった。


 「どうしたの? らしくないね」

 「そう? 普通だけど」

 「大丈夫?」

 「大丈夫」


 言葉がまだ未完成だった世界。自分の考えを伝えるに苦労した大昔の人々は、これをみて、きっと不思議に思うだろう。文明は育ち、言葉はその数を増したはずなのに、人は、自分の気持ちを隠すために言葉を使うようになった。


 私が不思議な顔をしていると、彼女は下手くそな笑顔で「ごめん」と言った。

 

 「で、急に呼び出してどうしたの?」

 「うーん、何から話そうかな、まぁとりあえず乾杯しようよ」

 そうして私たちは手に持っていたアルミ缶をぶつけ合った。

 


 「ねぇ、どこからが浮気だと思う?」

 乾杯から一時間ほどが経ったころだと思う。

 彼女は、針のように鋭く聞いてきた。

 どこにでもありそうなトークテーマだったが、彼女の問いかけは妙に重い。


 「考えたこともないね。そんなのは、浮気された人間か、浮気する人間が真剣に考えることだろうって」

 「ふーん、じゃあ君は随分と幸せな恋愛をしてきたんだね」


 それは違った。

 私はこれまで、彼女ができたことはあっても、その相手と真剣に関係を深めることはしてこなかった。精神的にも肉体的にも。

 この歳になって、経験人数よりも、付き合った人数の方が多い男は私ぐらいだろう。


 「そんな風に言うのは、自分が幸せじゃないから?」

 その言葉に彼女は戸惑う。

 どうやら、それが本題らしいと分かった。Mとの間に何かあったのだろう。途端に気まずくなって、私は話題をそらす。


 「じゃあ、そっちはどこからが浮気?」

 「私はよく分からないかな。気持ちが浮ついたら? そのままだけど」

 「キスとかセックスとか、そんなことされても平気?」

 「平気じゃないけど許しちゃいそう」

 「そういう人もいるよね」

 彼女はうん、と言って少しうつ向いた。

 「Mとなにかあった?」たまらず私は聞いた。

 「あった」

 「少し外歩こうか」

 「そうやって気が回るのは、君のいいところだよ」

 こうして私たちは部屋を出た。


 国道から一つ奥に入った道沿いに、彼女のアパートはある。部屋を出ると、道路を走る車の音がよく聞こえた。

 その道を国道あるのとは反対の方にまっすぐ進むと、近くの川に出る。そっちの方向へと歩いた。


 道の上で等間隔に並ぶ街頭は、壊れているのか、時より明かりを切らせる。

 そんな時、ふと、公団に挟まれた夜空を見上げると、細く光る三日月が、雲の隙間から一瞬だけ見えた。

 同時に建物の陰から現れた飛行機は、音もなく、私たちとは反対の方へ飛んで行った。

 

 「こうやって二人で歩くのは、ずいぶん、久しぶりな気がする」と彼女は小さな声で言う。

 「そもそも、会うのも久しぶりだね。少し太った? いや、筋肉がついたのかな? 少し見ない間に、人って変わるものだね。ほら毎日会ってたら気づかなかっただろうけど、こうして時間があったからこそ気づくこともあるというかさ」

 彼女はそう言いながら、優しく私の腕に触れ、そのくせ少し恥ずかしそうにした。

 

 「初めて会った日のこと覚えてる? ほら、君たちが店で大声で言いあってたの」

 「そんなことあったかな」

 「あったよ。恥ずかしくて忘れたことにしようとしてるでしょ。私は覚えてるよ。君の意見の味方した」


 確かに彼女の言う通り、忘れたふりをした。昔の記憶に執着する姿を他人に見せるのは、本意ではない。


 「Mは遊ぶのが大切だって、君は誰とでも真剣にって、そんな感じだったかな。女の人との付き合い方で、あそこまで揉める人なんか初めて見たよ。もう一年くらいたったかな。あの時言ってたのと、まだ考えは変わってない?」


 変わってない、と言いかけたけれど、最初にごまかした手前、「どうだろう」と曖昧に笑って彼女の話を聞いた。

 

 「ところで、Mは何か言ってた? 最近のこと。まぁ、あんまり人に相談するタイプじゃないとは思うんだけど、君になら、もしかしたら可能性はあると思って。どうかな?」

 「特に何も聞いてないけど、まぁ確かに、Mは自分のことをペラペラ話すタイプじゃないからね」

 「やっぱりかー。もうMが何考えてるのか、私には分からなくてさ」

 「Mと、あんまり上手くいってない?」

 「いってない、のかなぁ。しっかりと話す時間があればいいんだけど。M、いつもバイトがとか、飲み会がとか言って、私のこと放ってばかりだから、どうしようもなくてね」


 私はうーん、と長いうめき声をあげ、彼女に同情するべきか、Mの肩を持つべきか考えて、

 「確かに、Mとは最近、ゆっくり話せてないなぁ。忙しそうにしてる。ただ、放っとかれるのは、それはそれで寂しいね」と、どっちつかずのことを言った。


 すると彼女は、「君もMとはそんな感じなんだね」と何か悟ったように笑い、

 「まぁ、今日はせっかくこうやって会えたんだし、あんまり暗い話してもねぇ。Mについては少し話せたし、今は心が軽いよ。ただこれからも、こういう時間は必要だね。君のこと、これから呼び出すことが多くなるかも」と言った。

 私は少し嬉しいのと悲しいのが混ざった気持ちになった。

 

 「君は最近どう?」と彼女は突然聞いてくる。

 主語を測りかね、彼女の顔を見た。

 するとそれが、こと恋愛事情について尋ねているのだとすぐに分かる。


 「君も、自分のことはあまり話したがらないね。休みの日に何してるのかとか、全然、想像つかないよ。どこにいるのか、誰かといるのか、いないのか。いい感じの人とかいないの? 君のそういう話、聞いてみたい」

 私は少し黙って、「どうだろうね」と言い、喉がふさがるような苦しさを覚えた。


 このとき、私たちは川のすぐ目の前まで来ていた。


 「俺の話はつまらないよ」

 「別にいいよ。恋愛の話が嫌いな人ってあんまりいないから。私だって、他人のそういう話を聞くのは好きでね、友達とはいつもそんな話をしてるの」

 何となく、そんなのは嘘だと思った。


 「しかも、こういう場所歩いてると、なんだかそう言う話をしたくならない? ほら、暗くて静かで、水の流れる音とか聞こえて、それにさ、月が綺麗だ……って、この言葉、知ってる?」

 「ん? この言葉ってなに?」

 「知らないの?」と彼女は笑い、「君は読書が足りてないよ。この言葉は有名だから、あとで調べてみて。あぁでも分かったからって連絡はしないでね。なんか恥ずかしいから」

 

 この時はさっぱり意味が分からなかった。

 彼女が少し変なのではないか、とさえ思った。

 しかし、そんなことはなく、あとで調べると、漱石による「I Love You」の意訳だと言うから驚いた。


 「友達の話だけど、それでもいい?」

 「ふーん。別にそれでもいいけど」

 そう言いつつ、彼女はきっと、分かっていた。

 友達の話、とは、我ながら下手な嘘であると思う。何も言わないのは、きっと彼女なりの優しさだった。


 まず私は、「友達には好きな人がいて」と前置きした。

 すると彼女は「はいはい」と、私の嘘など意に介さない様子で、だからこれは、少し私も悔しくなってきて、驚かせようと、「だけど、付き合ってる人もいるんだよね」と続けた。


 彼女は驚き、「ん? その好きな人と付き合ってるってことじゃなくて……あれ、どういうこと?」と一人で混乱している。


 これは本当だった。そして相手は、彼女もよく知る人物。

 初めて会ったあの店で、彼女と一緒に来ていたYと、私は付き合っていた。


 しかし、付き合っていると言えば聞こえはいいが、実際はそんな立派なものではない。

 私は相変わらず、彼女のことが忘れられない始末だったし、また、Yの気持ちも、そんな私への一時的な同情に過ぎなかった。

 そして、それを互いに知ってか知らずか、私たちは、Mと彼女に、そのことをまだ打ち明けられてはいない。


 「じゃあ、その()()は、好きな人とこれ以上を望めないから、妥協でその人と付き合ってるっていうこと?」

 彼女はそう聞いて、少し不快な顔をすると、「男の人はよく分からないね。女の子なら、本命に嫉妬してほしくて……みたいなことはあるけど。男の人のそれはねぇ」と言った。

 私が「たぶん、友達の彼女は、いい人なんだと思う」と言えば、「それは”都合の”いい人でしょ」と、彼女は一蹴した。


 「ちなみに、どっちから告白したの?」

 「友達からって聞いてる」

 「そうなんだぁ。それだと、余計に切ないね」

 「そうかな」

 「そうだよ。よく恋愛の穴は恋愛で埋めろなんて言うけどね、穴の形はどんな恋愛をしたかで違うの。しかも、形は複雑。だから、他で埋めようなんて絶対に無理だよ。そして間に合わせで選んだ相手はね、穴を埋めてくれるようで、実は穴の縁にも引っかからない、小さくて通り過ぎていくだけの存在。そもそも埋めようとしてるうちは、いつまでもその穴をあけた人のことが忘れられないの」

 そう言って、彼女は、うんうんと、納得したように自分で頷く。


 「じゃあ、友達はどうするべきか」と尋ねると、「その友達が一番分かってるんじゃない?」といたずらに彼女は言った。


 もうすぐ、川沿いの道は終わる。次の角を左に曲がって、まっすぐ行けば、アパートに戻ることができた。


 「ところで、その()()の好きな人はどんな子なの?」

 思い出したように彼女は言った。

 「髪型は? 身長は? どうやって知り合った?」と、質問はずいぶん具体的だ。


 答えを用意してなかった私は、仕方なく彼女に当てはめて答える。


 「髪は肩ぐらいの長さで」そして大胆に、「身長は、君と同じくらい。飲み屋で知り合った」と言えば、また、すました顔で彼女は、ふーんという。


 彼女はきっと私の気持ちに気づいていた。

 だとすれば、これはある種、拷問よりも残酷だ。

 抗うこともできないまま、私は自分の心の内をさらけ出すしかできない。


 そしてこのとき、私はもう、彼女がどうしようもない男たらしだと、十分に分かっていた。

 彼女の手の平で転がされていることも。しかし、分かった上で、私はその罠に嵌りにいく。

 

 「その子とは、よく遊ぶの?」

 「よく遊ぶ。最近久しぶりに会った」

 「その子の好きな動物は?」

 「猫。実家に黒いのを飼ってた」

 「好きな食べ物は?」

 「ラーメンかな。飲みに行った後は、いつも食べるのに付き合わされる」

 「その子のどこが好きなの?」

 「すみませんより、ありがとうって言うところ」

 「Mはその子のこと知ってるの?」

 「もちろん、知ってる」

 「イニシャルは?」

 「・・・・・・だよ」


 好きを認めた方が負け、という恋愛理論はあながち間違ってもいないだろう。

 しかし、言ってはいけない、という理性は、彼女に気持ちを打ち明けたい、という本能に逆らえない。

 思わず、私はその場で立ち止まる。


 「ねぇ、それじゃあ、まるで私みたいじゃん」と少し前を歩きながら言う彼女に、「そうだよ」と一言で答えた私は、見事なまでに、彼女との勝負で敗北を喫した。

 

 

 気持ちを吐露した私は、完全に酔いも冷めていた。

 私の答えに「そう……」とだけ言った彼女は、あれから一切言葉を発していない。


 ただ、返事は聞くまでもなかった。彼女にはMがいる。

 だから、今日のことは無かったことにして、これからまた四人で、いつも通りに過ごせることを望んだ。

 そのためにも、私はアパートの前まで彼女を送れば、それからすぐに帰る腹積もりでいた。

 これは紛れもない真実である。


 しかし、そんなのは所詮、付け焼き刃だった。

 彼女はそんな私の気持ちを、いとも簡単に打ち砕く。

 

 「ねぇ、今日泊まっていきなよ」

 アパートの前までくると、彼女は急に口を開いてそう言った。


 その急な提案に、真っ先にMの顔が浮かび、当然、断ろうとしたのだけれど、彼女は「飲んだからバイクでは帰れないよ。まさか押して帰るつもり?」などと言うので、結局、彼女の部屋にもう一度上がることにした。


 正直に言えば、酒を飲んだ時点では、こうなることを期待していた。

 しかしそれは、私の気持ちが彼女には知られていない前提の話だった。

 もちろん、彼女とどうこうなるつもりなんて最初からなく、その企ては、朝早くに私だけが起きて、寝顔の一つでも拝めればいい、という程度のものだったことは、あえて言っておきたい。

 

 部屋に入ると、さっきと同じ場所に座った。

 彼女は、「シャワーを浴びる」と言って、私の座った後ろにあるタンスから、黒い下着と部屋着を取り出すと、「冷蔵庫から適当になにか飲んでいいよ」と言いながら、浴室へ向かった。


 この際、酒を飲んで正気を失ってやろうかとも思う。

 わけの分からないフリをして、気持ちを全て打ち明け、なるようになってやろう。

 そうすれば、若気の至りという一言で済む程度の過ちとして、将来、笑い話にでもなるのではないかと思った。


 浴室から、重力を受けて落ちるシャワーの音が漏れる。

 その鈍く低い音は、小さな部屋で淡々と響いた。

 一枚壁の向こうに、生まれたままの姿で彼女がいると思うと、私の体はますます緊張する。


 女性を抱くのは初めてではないが、好きな(ひと)とそうなれるかもしれないのは、初めてだった。

 そしてこの時、Mのことはすっかり頭から消えていた。


 ただ、あれこれと考えるうちに、適度な疲労を抱えた私の瞼は、次第に重くなっていって、ふと気が付くと、目の前に部屋着姿の彼女がいた。


 「かなりお疲れだったみたいね」と、濡れた髪を丁寧に拭きながら、彼女は言う。

 狼狽えながら体を起こすと、体にかかった毛布がゆっくりと肩から落ち、そこで初めて自分が寝ていたことに気付いた。


 「ごめん。寝てた。これ、かけてくれたの?」

 「うん。そのまま眠られてたら、私が寝るときにかけるのが無くなってたよ。まぁその時は一緒に入らせてもらおうかと思ってたけど」と彼女は頬を赤くして言う。

 それが恥ずかしさによるものか、湯上りのせいなのかは分からなかった。

 しかし、どうしてこんな恥ずかしいことを、彼女は簡単に言えるのだろう。


 もういい加減、彼女の本心が分からなかった。

 私を使って、一時の寂しさを埋めたいのだろうか。

 それならそうと、言ってくれた方が楽かもしれなかった。

 期待するから傷つく。だったら最初から期待はしない。どうせダメなのだ。


 いや、しかし一方で、それがいいのかもしれなかった。

 私の好きな人は、私なんかを好きにはならない人。

 高嶺の花に焦がれ、ずっと期待せずに思ってだけいられれば、いつも傷つかずにいられた。

 きっとそういう人だから、私は彼女を好きになったのかもしれなかった。


 「君は、本当にずるいよ」

 私の言葉に、不思議そうに彼女は首を傾げる。

 毛布の片方を広げて見せ、私は彼女をすぐ横へ招いた。

 彼女もそれに素直に応じ、私たちは一つの毛布に包まって、体を寄せ合った。

 

 「Mがね、浮気してるみたいなの」と、彼女は小さく言葉をこぼす。そんな気はしていた。彼女の頭が、私の肩へそっと乗る。


 「そう。悲しかった?」

 「悲しいよ」彼女は深くため息をついて、「でも、裏切られたから悲しいのか、自分のものじゃなくなったから悲しいのか、相手の子に負けたから悲しいのか分からない」

 「きっと全部だよ」

 私がそう言うと、彼女は笑い、

 「全部のせだね。ラーメンみたい」と言うから、

 「ぐちゃぐちゃだ。まぁでも、お腹に入れば同じだよ。全部あっていい。きっと同じじゃないけど、なんとなく分かるから、それ」


 すると彼女は、「ありがと」と言って、私の目を見た。

 「これは浮気かな?」試すように彼女は聞く。

 「それは君が決めることなんじゃない」

 「ずるいなぁ」

 「そっちこそ」

 

 そのまま私たちはキスをした。

 唇だけでなく、全てを求めあった。

 初めて触れる彼女の体は、思っていたよりも小さく、強く抱きしめると壊れてしまいそうだった。


 腕の中で悶え、いつもと違う、溶けたような表情の彼女は、私を優しく包み込み、快楽の頂上へと誘う。

 リズムよく腰を打ち付けていると、彼女が先に果て、それを追うようにして私も果てた。

 彼女と繋がったまま、腰が砕けたような感覚に襲われる。

 その一瞬だけ、Mの顔が浮かんだ。


 こんな経験は初めてだった。

 危うく、体の全てを彼女に預けそうになる。

 既の所で耐え、息を乱しながら後始末をすると、すぐさま彼女の横で仰向けに倒れこんだ。


 「気持ちよかった?」と彼女が聞いてくるので、少し恥ずかしくなって、「別に」と言いながら、彼女を背中から抱きしめた。

 そうして、腕の中で彼女を感じながら、私は眠りについた。



 目覚めると、明かりの消えた部屋は少しだけ明るかった。

 カーテンの隙間から入った光が、彼女の使ったビードログラスの中を通って、白い壁の上で鱗のように乱反射している。

 いつも目覚めたときの景色と違うから、ここはどこかと一瞬だけ考えたが、机の上に残っていたアルミ缶を見て、すぐにどこか思いだした。

 

 私はすぐさま寝返って、後ろを確認する。

 そこには裸のまま横たわって、眠っている彼女の姿があった。


 寝顔を見る、という当初の目的は十分に達成できたので、私の顔は少しだけ緩んだ。

 時間を確認すると、もう十時を回っていた。二限の授業には、もう間に合いそうもない。

 

 ベッドの上でスマホを開き、LINEを確認する。

 Yから連絡が来ていた。

 

 「おはよう。今日、会えるかな?」

 「今起きたよ。授業、寝坊したし、いつでもいいよ」

 そう返事して、すぐにインスタを開いた。

 Mがストーリーを更新している。


 「バイトのメンツとそのまま飲み会。明日は自主休講確定!!」という言葉に添えて、見知らぬ男や女と肩を組むMの姿が、数秒間、画面の上を流れた。

 Mには少しだけがっかりして、Twitterで愚痴の一つでもこぼそうかと思ったとき、ちょうど彼女も目を覚ました。

 

 彼女は、朧げな目をして「おはよ」と言うと、枕元にあるスマホに手を伸ばす。

 Mのストーリーが頭に過った私は、その手を取り自分のもとへ引き寄せた。

 「どうしたの?」という彼女に「おはよう」と返して、キスをすると、「何よ」と言って彼女は笑った。

 それから私たちは、もう一度だけ繋がった。

 

 二度目の情事を終え、狭い浴室で二人シャワーを浴び、私は昨日と同じ服を着た。

 歯磨きの代わりに、口の中を何度か注いで、昨日の私の一部を吐き出す。

 こうすれば、昨日とは違う自分になった気がして、この過ちも忘れられる気がした。


 「もう帰る?」髪を拭きながら彼女は聞いてきた。

 「うん、帰るよ。彼女に会うんだ」

 もう、友達の話だとは言わなかった。

 

 私は生乾きの頭を念入りにドライヤーで乾かし、身支度を整える。すぐに出ていこうと思った。

 ここにきて、とてつもない罪悪感に苛まれ、今すぐこの部屋を出て行きたくなったのだ。

 それは、Mが急にここへ来るなど、ありもしないことを想像しては、いつか壊れるであろう友情も、今だけは失いたくないという、卑怯で姑息な性格のせいでもある。


 幸い、彼女も、そんな私のことは引き留めなかった。

 しかし代わりに、「また来てくれる?」と聞いてくるから、これで終わりにしようとしていたのに、また彼女のことが惜しくなった。


 答えを保留にしておきたくて、

 「気が向いたら」と一言だけ返すと、彼女は私の腕をつかんで、

 「いや、絶対だよ。私、君のことがもう好きになりかけてるから。Mとはもう終わりにしてもいい。気まずいって言うなら、君のことは何も言わずに別れるから。そしたら、内緒で付き合えるでしょ。私ね、あんなに感じたのは初めてだったよ。君とは一緒にいてすごく楽だし、もう誰かに振り回されるのはうんざりだから。ねっ? 君なら安心できるんだよ」と私の目を見ながら言った。潤んだ目とは、まさにこれだろう。

 

 私にだってYがいる、この男たらし、とは思ったが、無視はできなかった。

 それどころか私も愛しくなり、「分かった」と最後にもう一度だけキスをしてしまう。すると、彼女は嬉しそうに笑った。


 罪悪感の種をまた増やし、それと引き換えに一瞬の喜びを得るのは、今に考えると、くだらなくはある。

 けれど、人間はさらなる利益を逃すよりは、その瞬間の損失を一番に嫌うもので、一度抱きしめた彼女を、みすみす手放すことが私にはできなかった。


 そしてまた私は、いつか傷つくための準備を始めるのである。同じことの繰り返し。ニーチェが言うところの永劫回帰だ。

 つまり私は、また誰かに期待する。

 そして、それをいつか失い、傷つく。

 そんなものに、貴重な人生の時間を費やす。

 ただ、この時はそれでもいいような気がしていた。

 

 しかし、話はまだお終いではない。


 この後、私はさらに、彼女への執着を強めることになる。

 まったく、本当に彼女は、最低なほどに素敵な(ひと)だ。


 扉を開き、「じゃあね」と最後の挨拶をすると、彼女は私を呼び止めこう言った。

 「あっ、Mの浮気話は二人だけの秘密ね。その浮気相手、Yだから!」

 

 

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[良い点] 拝読しました。 スゴくリアリティなやり取りがスーッと浮かびます。 駆け引きが面白い上に最後の一言の破壊力はスゴい… そう来るかと… 予想はできても衝撃はスゴいですね! 思わず引き込まれてし…
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