その10
また一日が過ぎた。
杏梨は裏山へ向かうことはせず、今日は音喜多ゼミに向かう。
「音喜多先生、今よろしいですか?」
尋ねながら扉を開くと、比較的綺麗に整頓された研究室で、本の整理をしていた音喜多が笑顔を向けてきた。
「あ? ああ、仁科さんか! どうぞどうぞ。入りなさい」
「ありがとうございます。失礼します」
室内に入り長机にトートバッグを置くと、音喜多が尋ねてくる。
「今日は一限休講かい?」
「いいえ。今日は二限からなので」
音喜多の言葉にかぶりを振ると、音喜多が本を自分のデスクへ置いた。
「コーヒーでも入れようか。飲むかい?」
「はい。いただきます」
ありがとうございます、と礼を言うと、音喜多が手を横に振ってくる。
「いや、俺が飲みたいだけだから」
「いつもすみません」
研究室に来る度に何かしらお相伴に預かっている気がして、杏梨は詫びる。なんのなんの、と音喜多がカラカラと笑った。
「で、君が朝から研究室に顔を出すなんて珍しいけど。何かあったのかい?」
音喜多に問いかけられ、杏梨は内心で手を打つ。言われてみれば、ゼミがある以外はお昼過ぎに顔を出すことが多い。それもここ最近は温室に通っていたこともあって、あまりここへ顔を出してはいなかった。杏梨は己の行動を顧みて、羞恥に頬を熱くする。だが、恥ずかしがっている場合ではない。今日こそは音喜多に尋ねなければならないことがあるのだから。杏梨は軽く首を左右に振り、コーヒーソーサーをセットする音喜多へ近づいた。
「はい。あの、実は、これに見覚えはないかなって」
杏梨はポケットの中から小さな指輪を取り出す。掌に乗せて音喜多へ見せると、手を覗き込んだ音喜多が苦もなく首肯した。
「うん。あると言えばあるかなあ。それって確か丸田君が着けてた物だと思うけど。どこで見つけたんだい?」
疑問を投げかけてくる音喜多へ杏梨は目を輝かせる。
「やっぱりそうだったんですね。実はこれ、温室にあった苔玉の中に紛れ込んでたんです。参考にしようと思って見てた時にキラっと光る物があったので、抜いてみたんですけど」
「……ほう」
事情を話す内に、音喜多の目の色が濃くなった。
「で、君も森宮先生が怪しい、と?」
低い声で問われ、杏梨は即座に否定した。
「いいえ。森宮先生がやったにしては少し露骨だな、と。むしろ他の人がわざとやったんだと考える方が自然なような気がして。なので、今まで誰にも言っていなかったんですが」
杏梨が説明すると、音喜多がにやりと笑んだ。
「なるほど。つまり君は、俺が怪しいと踏んだわけだね」
「そんなことは! ただ昨日の様子だと何か知ってらして、それを隠してるのかな、って思えたものですから。確認に」
実は半分だけ疑っている、と言う言葉は呑み込み、指輪を持った掌を握り込む。
「じゃあ、このあと山我先生のところにも行くのかな?」
ソーサーからできあがったコーヒーを注ぎつつ、音喜多が悪戯っぽい瞳で訊いてきた。
「はい。そのつもりです」
頷くと、さらに音喜多が尋ねてくる。
「山我先生が丸田君を隠してる、と?」
音喜多の言い方があまりにも軽く、杏梨はむっとする。
「はい。或いは音喜多先生、あなたかも、とも思っています」
言うつもりがないことを言ってしまったのは、からかわれていることが明らかだったからだ。しまった、と軽く口元へ手をあてるが、時すでに遅し。だが、こちらの思いとは裏腹に、音喜多への心象は悪くなかったようである。
「ふむ……。やっぱり今日はBマイナ評価かな。物事はもう少し多角的に見なくちゃ駄目だよ。だからもちろん、私情を挟むこともあまりいいとは言えないかな」
評価が上がっただけでなく、アドバイスまでくれる。だからと言って、真実を語ってくれているわけではないが。
「申し訳ございません。でも、昨日よりは評価上がりましたよね。つまり、音喜多先生、あなたは何かを知っていらっしゃるってことですよね?」
確認すると、音喜多がコーヒーを手渡してきながら、肯定する。
「うん。まあ。まだ話すつもりはないけどね。君が曇りのない目で物事を見た時、誰が誰にとっての真の被害者であり、真の加害者であるかがわかるはずだよ」
音喜多の言葉に、杏梨は唇を噛み締める。つまり、自分は彼らの手の内で踊らされているということか。面白くないが、抜け出す方法もわからない。
「……頑張ってみます」
内心で臍を噛みながら告げると、音喜多の声が改まった。
「ああ。俺は言う立場にはないんだろうけど、応援してるよ」
思った以上に真面目な表情で言葉を紡がれ、杏梨は姿勢を正す。
「はい。ありがとうございます」
もらったコーヒーがこぼれないよう注意しながら、杏梨は一礼した。




