その7
「『君、民俗学じゃなくて、生物学でも学んだ方がいいんじゃないか?』のことですか? 苔の探索をした時に聞きましたけど。でもそんなに重い言葉だとは思っていませんでした」
「そうそれ。学士の時と違ってね、やっぱり専門性が高くなってる分凝り固まってる先生方もいらっしゃるから」
苦い口調で言うのは、音喜多なりに森宮の行く末を案じているからだろうか。杏梨はさらに問いかける。
「でも、先生や山我さんのような方もいらっしゃるじゃないですか。それなら他にもたくさん森宮先生の論に賛同してくれる方だっていらっしゃるんじゃないですか?」
「まあ、たまにはいるが彼らのほとんどは大学の助手にも研究員にもなれず、市井の研究家として活動する他ないのが現状だよ」
肩を竦めて答える音喜多の声は乾いて聞こえた。杏梨は音喜多の淡々とした答えを聞きながら、顎に人差し指を置く。
「そう……なんですか……」
呟きながら考えた。自分の論が認められないからと言って、その鬱憤を晴らすために学生を監禁するということがありうるだろうか。黙考していると、ふいに話題を変えられた。
「仁科君も研究者を目指してるんだったよね?」
音喜多の問いに、杏梨は答えを躊躇する。
「ええっと、まだ迷ってて」
結論を出さなければならないのはわかっているが、まだどうするべきか見えてこないのだ。
「狭き門だけど目指す価値はあるから、頑張ってみたらどうかな?」
「はい……」
それとなく薦められ、杏梨は曖昧に頷く。すると、そこへ更なる強い紅茶の香りがした。振り返ると、山我がお盆に乗せたティーセットを持ち立っていた。
「なあに? 随分とお堅い話してるのねえ」
眉を顰める山我に、音喜多が半笑いで反論する。
「山我先生、あなたがそれを言いますか」
音喜多の言葉に、山我がお盆を持ったまま器用に肩を竦めてみせた。
「私は楽しんで研究をしているわよ。引っ攣り引っ張りはどこの世界だってあるものだし。敦弘だってそれは承知の上だと思うけど」
話しながらお盆をテーブルに置いて、山我が茶器をセットする。
「それは森宮君の運がいいからですよ。山我先生の旦那さんが山我理事だから俺のところに話が来たわけですし。仁科君にはそれがないわけですから」
音喜多の話に、山我が頷く。
「確かにそうだけど。でも、敦弘の研究は面白いけど異端だったから追い出されても文句は言えないのよ? その点仁科さんは真っ直ぐに自分の信じる道を進めば自ずと道は開けるわ。私だってそうだもの」
山我が胸を張るのを見て、杏梨は疑問を口にした。
「山我さ、山我先生は、あの、苔の研究一筋なんですか? 以前お話した時はご自分のルーツを探るところから始まったっておっしゃってたじゃないですか。それって森宮先生と同じですよね?」
問いかけると、山我が首肯する。
「そうね。でもこの間も言ったけど私は民俗学より苔を取ったの。だから大学に入り直して苔のことを学び直し、この山にいるってわけ。私からすれば、あの子は半端なことをしているように見えなくもないわ」
「半端……」
杏梨は自問する。半端なのは自分も同じだ。山我や森宮と同じ土俵に立つことさえためらっているのだから。
「第一、海水でも生きられる苔なんていないのよ。それは苔という名をつけられていても、藻なの。海の岩の上に生えているものも苔と言われていてもあれは海藻であって、苔ではありえないのよ」
「苔と言われているのに苔じゃないなんて。そんなに見分けづらいんですか? 苔と藻って」
「そうね。でも見分けにくいのは海の藻だけじゃないわ。陸上ではシダ科の植物にも苔と名のついたものが存在するし、肉眼だけでは見分けにくいところがあるわね」
では、森宮がやっていることは何にもならないのではないだろうか。専門家にここまで言い切られているのに、何故森宮は研究を続けるのだろう。
(私にはできない)
そんなことを考えている間にも、山我の話は続く。
「逆にね、淡水に棲む苔はいるのよ。言わずと知れたカワゴケ属がそれね。しかも驚いたことに、敦弘が思い描くような水陸両用の苔もいるの。タイ類のイチョウウキゴケと言うんだけどね。でも、残念ながら、それはあくまで淡水に生きる苔であって、海水にはいないの」
「そのこと、森宮先生は承知しているんですか?」
「もちろんよ」
「――そう、なんですか……」
それでも彼は自分の仮説を信じ、探し続けるつもりでいるのか。
(どうして、そうまでして)
唇に手をあて考え込んでいると、山我がでもね、と話を続ける。
「あの子本当に真剣なのよね。本気で海水でも生きられる苔を探してるの。そしてそれが自分のルーツに近づくことだって信じてるのよ。だから私も夫も応援したくなっちゃうのよね」
山我が苦笑すると、音喜多もカラカラと笑った。




