その18
結局、その後誰かが口を開くことはなく、杏梨は皆と一緒に暗い気分のまま山を下りた。去り際山我が心配げな表情で見送ってくれたが、彼女も何かを隠しているのだろうか。黙考しながら進むうちに、いつの間にか温室のごく近場まで戻ってきていた。空を見れば、先程の大雨が嘘のように澄んだ藍色をしている。
陽が沈んだのだな、とぼんやり思っていると、ふいに温室の方から怒号が聞こえてきた
「お前が犯人か!」
「俺なわけないだろう! お前こそなんだ! 美穂とどんな関係なんだ!」
聞き慣れない男性たちの声だ。どうやら言い争っているらしい。もしかしたら一触即発なのではないだろうか。杏梨は焦って森宮を見遣る。そんな視線には気づかぬまま、森宮が二人の名前を叫んだ。
「高間君! 丸田君! やめるんだ!」
森宮の声を聞いて、杏梨は目を見開いた。高間は言わずと知れた美穂の元カレであり、丸田君と言えば恐らく美穂の実の弟だろう。そんな二人が何故言い争いをする必要があるのだろうか。
「そんなことお前なんかに説明する必要ないだろ!」
焦げ茶色の短髪をした白いワイシャツと黒のスラックス姿の男性が、己の手で相手の手を払い除ける。男性の丸い輪郭はまるで幼い子供のように愛らしく見えるが、その瞳には激しい怒りを宿していた。
だが、一方の青年、高間も黙ってはいない。
「ある! 俺はアイツの恋人だ!」
恋人だ、と名乗った彼は今日もまた黒いざんばら髪をしている。怒っているためか、普段から整っていない長髪がより一層乱れて見えた。高間が払い除けられた手で、またしても相手の腕を掴もうとした時だ。
「俺は恋人なんて脆い関係性じゃない!」
焦げ茶色の髪をした童顔の男性が吼える。そこへ耳慣れた声音が重なった。
「おいおい、ちょっと待て。落ちつけ。な?」
二人の間に割って入ったのは隆行だった。
「叔父さん?」
「ああ、杏梨か。山はどうだった?」
大の男二人を押し退けながら、隆行が飄々とした調子で話しかけてくる。
「どうだったって……。そんなこと言ってる場合じゃないじゃない」
杏梨は隆行へ向かい眉根を寄せる。よくこんな状態で、冷静でいられるものだ。本来なら危ないことはやめるよう姪である自分が言うべきなのだろうが、そうは言っていられない状況である。
「そうだな。こいつら会うなりいきなりいがみ合っちまってな。血の気が多いのなんのって」
何故か愉快げに笑う隆行に対し注意しようとした時だ。高間が身を震わせて叫んだ。
「血の気なんか関係ない! 俺は美穂に会って話したいことがあるんだ! そのためにもアイツを見つけないと!」
「お前は美穂に振られた元カレだろう! そんな奴が今更うちの美穂に近づかないでくれ!」
美穂の弟も同等の勢いで高間へ食ってかかる。
「うちの美穂! お前、美穂のなんなんだよ」
「弟だよ! 実の! なんか文句あるのか!」
美穂の弟が間髪入れずに反論すると、高間が鼻を鳴らした。
「実の弟がいい歳してシスコンかよ! これは俺と美穂の問題だ! アイツ、絶対俺に捜して欲しいと思ってるはずなんだ!」
言い切る高間に、美穂の弟が地団駄を踏む。
「そんなわけあるか! 見つけて欲しいって願ってるのは弟の俺に対してでお前じゃない! 振られた奴は引っ込んでろ!」
「お前たち、二人とも少し黙れ!」
隆行が凄みを効かせて叫ぶと、おもむろに森宮が三人へ近づいた。




