その5
「山には『苔女』って魔女がいるって、みんなの噂になってるの、知らない?」
「全然」
杏梨は間髪入れずに首を左右に振った。そんな話は聞いたことがない。目を瞬かせていると、千奈津が呆れたように目を細めた。
「あんたはそういう子よね……。ともかく裏山には苔女って言われてる魔女が棲んでるの。そんな怪しい裏山によ? 夜、森宮先生が山へ向かって、何か重い物をくるんだような青いビニールシートを引きずって歩いてるのを見たって子もいるんだから」
話しているうちに怒りが湧いてきたのか、千奈津がむすっとしてソファへ身を沈める。
「それって、死体ってことかい?」
隆行が冷静に質問すると、美穂の母親が顔色をなくした。
「そんな!」
叫ぶ美穂の母親を父親が宥める。彼女の背中を擦りながら無言で隆行へ視線を送った。
「なんとか引き受けてはいただけないでしょうか」
美穂の母親の悲痛な声音に、杏梨は胸を打たれる。
「叔父さん、私からもお願い」
「杏梨?」
口を挟むと、隆行が驚いたような声をあげた。杏梨は叔父に嘆願する。
「予定が組みにくいなら、私が動くから。アルバイトとして雇ってください。お金はいらないわ。ボランティアで構わないから」
我ながら有り得ないほど積極的な言葉がスルスルと口を吐く。すると、叔父が何を考えているのかいまいち読めない表情で、目を細めた。
「珍しいな。お前がそんなふうに言うの」
「だって、美穂ちゃんって子全然知らないわけじゃないし。千奈津の大切な友達だし。それに、ちょっと興味があるの」
「杏梨?」
隆行が不思議そうに名を呼んでくる。杏梨は今まであまり話したことがなかった思いを口にした。『星浄大学の水虎』。ちょうどいい機会だと思った。獲って喰われるとまでは思っていない。だが、あの森宮講師についての噂が、どこまで真実でどこまでが嘘なのか。これを機にしっかり確認しておきたいのだ。
「水虎ってね、竜宮の眷属って言われてるの。眷属ってことは、乙姫を護る側の存在よね? なのに悪く言われている。それがどうしてなのかすっごく気になってたんだ。ほら、私の研究対象、竜宮伝説だし。直近で先行論文出してるのって森宮先生と音喜多教授だけなんだもの。あんな真摯に竜宮伝説について熱く語る人が悪いことするとはどうしても思えなくって……」
正直な思いを口にすると、隆行の眉間の皺が深くなった。
「だがもし本当に事件だったとしたら、お前の身に危険が及ぶんだぞ。お前に何かあったら死んだ友恵姉さんにも美知子さんにも申し訳がたたんよ」
隆行の言葉に杏梨は一瞬言葉に詰まる。二人の母親のことを言われると辛い。彼女達は一人はもうこの世にはいないが、どちらも自分のことを本当に大事に思ってくれていると知っているから。
杏梨は拳をぐっと握り締め、隆行を見据えた。
「お母さんとママにはちゃんと報告する。それに何かある前にきちんと叔父さんの指示に従うから。お願いします」
もう一度心を込めて腰を折ると、しばらくして深い溜め息が聞こえてきた。
「……幸也さんにも連絡しておけよ」
「じゃあ、いいの?」
顔をあげて隆行を凝視すると、隆行が複雑そうな顔のまま肩を竦める。
「まあ、な。実際のところそんなに危険もなさそうだし」
「ありがとう! 叔父さん」
飛び跳ねんばかりに喜ぶと、隣で話を聞いていた千奈津が見あげてきた。
「えっと、つまりは依頼を引き受けてくれるってこと?」
問いかけられ、杏梨は瞬間自信をなくす。
「そういうこと、よね? 叔父さん」
再度恐る恐る確かめると、隆行が今度こそしっかり首肯してくれた。
「ああ」
「わあ! ありがとうございます! さすが杏梨の叔父様だわ!」
手を叩く千奈津のさらに横向かいで、美穂の両親が深々と頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「全力で取り組ませていただきます」
隆行が力強く言い切るのを頼もしく眺めていると、美穂の両親も同じことを思ったのだろう。
「はい。ありがとうございます」
泣いているのか、美穂の母親が礼を言う声は小刻みに震えていた。