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苔の海に溺れた人へ  作者: 朝川 椛
第二章 手がかり
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その10

「はあ。正直少し」


 予想通りの答えだったからだろう。森宮が苦笑混じりに語り出す。


「僕の論はなかなか認めて貰えないんですよ。でも僕にとって苔や藻を研究することと、竜宮伝説を研究することはいつだってイコールなんです」


 森宮の論は杏梨には少し難解に思えた。紀要には次のように記されている。「蓑亀の苔が藻ではなく苔であるならば、それは真に苔の亀が実存していたことになる。森宮自身の一族である竜宮の眷属が実存していたことも鑑みるに、それはすなわち竜宮が実存していたことに他ならないのではないだろうか」と。確かに竜宮伝説がどこまで史実に基づいた話なのか、どの話が実存に最も近いのかには興味がある。御伽噺にはそれぞれ素になった事象がある、と杏梨は考えているからだ。けれど、それを畑違いの生物学的な観点から見てみよう、とは夢にも思わなかった。紀要を読んで思ったことは、

「この先生とんでもなく変人だ」ということである。そして同時に確信した。とんでもない情熱を秘めたすごい人だ、とも。


「つまり先生は、苔と藻の違いという観点から竜宮伝説を紐解こうとしていらっしゃるんですよね?」


 改めて確認すると、森宮が深く頷く。


「そうです。それが僕の命題だと言っていいんじゃないかと思っています。でも、博士論文を書いた時に言われてしまいました。『君、民俗学じゃなくて、生物学でも学んだ方がいいんじゃないか?』と。それでも僕は諦めきれずに一人粘っている、というわけです。従姉には意固地な人間だ、と呆れられていますがね」


 自虐めいた口調で語る森宮の横顔を、杏梨はしばし見つめる。


「――すごい」

「え?」


 呟くと、森宮が虚をつかれたような顔をした。杏梨は真っ直ぐに森宮を見つめ言葉を紡ぐ。


「私はそこまで深く考えて竜宮伝説について調べたいとは思っていませんでした。浦島太郎の話が好きで、調べてみたいと思っただけなので」


 とんでもない情熱を持った人に話すには、あまりに恥ずかしい進学理由。だが、森宮が呆れたり嘲笑したりすることはなかった。


「それでも、全然問題ないと思いますけどね」


 真剣な表情で返され、杏梨は自分の胸が温かくなるのを感じた。


「そうなんでしょうか……」


 希望を込めて問いかけると、森宮がおもむろに語り出した。


「僕はね、恥ずかしながらお祖母さん子だったんです。父方の祖母の家が網元だったことは話しましたよね? 最初はみんなの村のまとめ役でもあったんですが。でも、ある時その家に水虎がいるという噂が立ちました。噂の子供は、思春期になると同時に病に侵され暴れるようになったというのです。夜な夜な村人を襲い、その血を飲むようになった、と。何故血を欲しがったのかは未だ謎なのですが。つまりは、今で言うところの精神的な病を抱えた子供だったわけでしてね。僕の父方の祖先は、その子を座敷牢に閉じ込めたわけです。ところがそれ以来、周囲の海は荒れ、漁猟に出た者が帰ってこなくなってしまった。それで村人たちは父方の祖母の家のことを『水虎の一族』と呼び恐れるようになったんです。そこで立ったのが閉じ込められた子供の弟でして。弟は無人で帰ってきた舟の中に一匹の蓑亀を見つけたんです。弟はその亀を連れて行方不明になった村人たちをたった一人で捜しに行きました。そして、見事見つけて帰ってきたんですよ。それで村人たちは、今度は畏怖の対象として僕の祖母の一族を崇めるようになったってわけでして。実は僕のご先祖は『遠野物語』にも少ないですが記述があるんですが。該当するような話を覚えていらっしゃいますか?」


 ふいに尋ねられた言葉に、杏梨は首を左右に振る。


「いいえ。そこまでは覚えておりませんでした。勉強不足ですみません」


 『遠野物語』は講義でもやっているし自分でも読んでいるが、どこに何が書かれているかまでは詳しく答えられない。無学を恥じていると、森宮が優しげな声音で言葉を紡いできた。


「では読み直して探してみてください。まあ、ゼミに入ったばかりなら普通ですよ。最近では『遠野物語』を読んだことがない子もいるくらいですから」

「そうなんですか?」


 杏梨は驚いて森宮の横顔を見遣る。分野が違えば読んでない方が普通かもしれない。だが、民俗学を専攻しているのに未読の学生などいるのだろうか。疑問符を抱いたまま森宮の言葉を待つと、森宮がくすりと笑んだ。


「君のお友達もそうなんじゃないですか?」


 森宮の発言に、杏梨は小さく呻く。


「あ、はあ、多分……」


 確かに千奈津はどちらかと言うと民俗学よりファンシーなものやスイーツの方が詳しいし、妹尾も対称は違うが同様だ。彼らの魅力は民俗学に詳しいからではなく、もっと別の人間的な部分にある。だが、『遠野物語』を読んだかどうかと言われれば、恐らく読んでいないだろうと思われた。


「もしかして、院に進もうとしています?」


 無言でいたことで何か悩みがあるととられたのだろう。柔らかな口調で問われ、杏梨は拳を握り締める。


「実は、今は悩んでいるところです」


 絞り出すように言葉を紡ぐと、森宮が顎に手をあてた。


「ふむ……。もしよかったら、今度裏山に行きませんか? 苔の観察や収集に向かうのですが、お手伝いしてくださると嬉しいです」


 森宮の誘いに杏梨は自然に首肯していた。


「はい、お邪魔でなければぜひ」


 視線が合わさり微笑み合う。心がふわりと宙に浮かんだかのようだ。杏梨はどんどんと温かくなっていく胸の内に少しだけ戸惑いを覚える。


(気をつけろって言われてるのに)


 けれど、この人の微笑みが心地よくて抜け出せない。いや、抜け出したくない。ずっとこのままでいられたらいいのに。ふとそんなことが脳裏を過ぎった時だ。


「おい、いるか?」


 雄々しい声がした。無遠慮に近づいてくる足音で、その人物が音喜多教授であることを悟る。


「はい、こっちです。いつものところですよ」


 視線を外した森宮が音喜多を呼んだ。杏梨は我に返り頬を熱くする。自分は今なんて馬鹿なことを思ったのだろう。ずっとこのままでいたい、なんて。羞恥と同時にえも言われぬむず痒さが込みあげてきて、杏梨はうろたえる。今自分の顔は真っ赤だろう。こんな姿を二人に見られるわけにはいかない。慌てて熱を覚まそうと手を上下させて風を送った。

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