ビザンチンオムレツ
ソフィー・チャトル=モンクハイムが社会主義に傾倒しだしたのは己の信条によるものだった。だが、彼女がチャトル=モンクハイム家の一員になったのは結婚によるものであった。結婚相手は裕福な閥族の一人で、親類縁者は富豪として名の知れた人ばかりだったが、夫もその例に漏れず金持ちな男だった。富の再分配という話題になると、ソフィーは極めて進歩的で明確な意見を披露していたが、それを支えているのが、お金持ちという己の境遇であった。彼女はその境遇に満足していたし、そして幸運だと思っていた。客間やフェビアン協会の集まりで、資本主義の悪行について滔々と痛烈な批判を並べ立てている間も、自分の生きている間は資本主義といえども不公平や不正を重ねて生き続けるだろう、と安気に構えていられるのだ。己の説く善政が世に受け入れられようとも、それが実現するのは自分の死後のことである。そう考えると、中年の改革者も、ある意味で気が休まるというものだった。
ある春の夕辺、まもなく晩餐という時分のことだった。鏡台と御女中の間でソフィーは安穏と腰を下ろし、鏡の中では今流行りの手の込んだ形に御髪が盛られている最中だった。素晴らしき平穏に取り囲まれ、日々を過ごしている。多くの努力を経て耐え忍んだ末に、大望を手にした者の平穏である。そして今もなお、手にしたものが並外れて魅力的だと思っていた。
予てから約束していたように、この日はシリアの大公を客人として屋敷に招いている。大公は今まさに腰を落ち着けて、もうじきに晩餐の席に着こうという頃合であった。ソフィーは忠実な社会主義者として、社会的格差というものを常日頃から否定していたし、王侯のような特権階級を嘲笑ってもいた。それでも、人の作りし社会的階級や序列というものは今後も存在し続けるだろうから、屋敷での催事では嬉々としながらも神経を尖らせて、高貴な見本として気高き秩序を守らねばならなかった。
ソフィーは罪を憎んではいたものの、罪人に愛を与えられるほどには十分に広い心の持ち主である。シリアの大公のことはあまりよく知らなかったし、大公に個人的な温情を抱いたわけでもなかったが、それでも大公が屋敷に来られるというのは並外れて喜ばしいことだった。その理由はソフィーにも説明できなかったが、誰もそんなことを聞こうとはしない。ただ他の家の奥方たちが、ソフィーのことを羨んだだけだった。
「リチャードソン、今夜はいつも以上に気合を入れてちょうだい。この上ないくらい綺麗に魅せないといけないんだから。みんなにも全力で臨んでもらわないと」と悦に入りながら、ゾフィーは女中に告げた。
御女中は何も答えなかったが、その凝らした目の眼差しと器用に舞う指先を見れば、最上の仕事という期待を前にして苦心しているのは明白だった。
扉を叩く音が聞こえる。静かだが、圧を感じさせる音だった。拒まれるとは思っていないような、そんな音である。
「誰なのか見てきてちょうだい。たぶん葡萄酒をどれにするとか、そんな話だろうから」とソフィー。
リチャードソンは扉の傍に行くと、姿の見えない訪問者と何やら大慌てで口論しはじめた。そして奥方の下に帰ってきたものの、いつものような抜けの目ない様子はなく、珍しく無気力な様子が、ただただ目を引いた。
「何だったの?」とソフィーが尋ねる。
「ええ奥様、屋敷の使用人たちが『職場放棄』したようでございます」とリチャードソンは告げる。
「職場放棄ですって!」とソフィーは叫び声を上げた。
「それは、ストライキが起こった、そういうことかしら?」
「そうでございます、奥様」
そして、リチャードソンは一つ付け加えた。
「問題なのはガスパーレなのです」
「ガスパーレ? あの臨時で雇った男がどうしたの! あのオムレツ専門の料理人のこと? 」
言葉を見失いながらもソフィーは尋ねる。
「左様でございます、奥様。ガスパーレはオムレツ専門の料理人になる前は、近侍職を生業にしてきたそうです。なんでも二年前にグリムフォードの卿様のお屋敷で大規模なストライキが起きたとき、スト破りをやってのけた者の一人が、あのガスパーレなのです。そして、奥様がガスパーレをお雇いになったことを知るなり、家中の使用人は皆、抗議の『職場放棄』を決め込んだのでございます。奥様には何の不満もございませんが、使用人たちはガスパーレの即時解雇を要求しているのです」
それに対して、ソフィーも抗議の弁を振るった。
「でも、ビザンツ風オムレツの作り方を知っているのは、このイングランドであの男しかいないのよ。シリアの大公様がいらっしゃるから特別に雇ったんですもの。そんな、すぐに辞めさせて別の料理人を宛てがうなんて無理な話よ。そうなったら、パリに使いを出さないといけなくなるわ。ビザンツ風オムレツは大公様の大の好物なのよ。駅からの道すがら、ずっとその話ばかりだったもの」
「ですが、あの男はグリムフォードの卿様のところでスト破りを働いていたのでございますよ」とリチャードソンは何度も繰り返す。
「なんて最悪なのかしら」とソフィー。
「こんなときに、使用人のストライキだなんて。シリアから大公様が来られてるっていうのに。すぐになんとかしないと。ねえ早く、髪を仕上げてちょうだい。あちらに行って、なんとかして事を丸く納めてくるから」
「奥様、あいにく御髪は仕上げられません」とリチャードソンは静かに、それでも大きな意志を持って告げた。
「私も労働組合に入っているのです。ストライキが収まるまでは、少しの時間だって働くことはできません。お力になれず申し訳ありませんが」
「そんな残酷なこと言わないで、ねえ!」
ソフィーは悲劇のように叫んだ。
「私はいつだって模範的な女主人でいたはずじゃない。労働組合に入っている使用人ばかり雇ってあげているのに、その結果がこれかしら。自分じゃ髪なんて結えないわ、どうすればいいかわからないもの。どうすればいいの? いじわるしないで!」
「意地悪と仰いますか」とリチャードソンは答える。
「私はれっきとした保守主義者でありますから、申し訳ありませんが、社会主義者の愚かしさには我慢がならなかったのです。あれは全く暴政でございます。全く以てそうでございます。しかしながら、私も他の者と同じく生計を立てて暮らさねばなりませんから、労働組合に加入しているのです。ストライキが成功するまでは、もうヘアピン一本たりとも触れることはできません。たとえ、奥様が私のお給金を二倍にしてくれるとしてもダメなものはダメでございます」
そのとき、爆ぜるような勢いで扉が開いた。部屋に飛び込んできたのは、腹立たしげなキャサリン・マルソムである。
「まったく結構なことですわね」とキャサリンが叫ぶ。
「まったく予告もなしに使用人たちがストライキを起こすだなんて。おかげで私はこんな有様よ! こんな格好じゃ人前に出られないわ」
ソフィーはひどく焦りながらも、キャサリンの姿をじろりと眺めてみると、確かに人前に出られる様子ではないな、と納得した。
「みんな、ストライキに参加してしまったのかしら」と女中に尋ねる。
「いいえ、厨房の者どもは参加しておりません」とリチャードソンが答えた。
「あそこは別の労働組合に所属しておりますから」
「じゃあ、少なくとも晩餐会は大丈夫みたいね。ありがたいことに」とソフィー。
「晩餐会がなんだって言うの!」と鼻を鳴らすキャサリン。
「いったいぜんたい、晩餐会の何がありがたいって言うのかしら? 誰も出られないでしょう? あなたの髪を見なさいよ……そして私も見て! いや、やっぱり見ないで」
「分かってるわ、女中がいないと何をするにしても困るものね。だったら、あなたの旦那さんに手伝ってもらうのはどうかしら?」とソフィーは自棄になって訊いてみた。
「ヘンリーを? あれは私たちよりもっと最悪よ。あの人、どこに行ってもトルコ式の蒸し風呂に入らないと気が済まないの。でも、あの馬鹿げた最新式のお風呂の使い方を本当に分かっているのは、あの人の付き人だけなの」
「トルコ式のお風呂なんて、一晩くらい入らなくても大丈夫よ、そうでしょう」とソフィー。
「私なんて髪がダメだから人前にも出られないのよ。それなのにトルコ式の蒸し風呂だなんて贅沢な悩みだわ」
「あのね、聞いて」と、ぞっとするような口調でキャサリンが口を挟んだ。
「ストライキが始まったときヘンリーは蒸風呂に入ってたの。ええ、お風呂の中にいたの。分かるかしら? 今も、あの人、中にいるのよ」
「出られないっていうの?」
「あの人、あのお風呂からの出方なんて知らないのよ。『開放』って書かれたレバーを引っ張るけど、そのたびに出るのは熱い蒸気だけ。それに、お風呂の蒸気には『我慢できる』と『とても我慢できない』の二通りの熱さがあるのに、あの人、それを二つとも出しちゃったの。ねえ、このままじゃ、私、未亡人になっちゃうわ」
「でもでも、そんな簡単にガスパーレを辞めさせるわけにはいかないじゃない」とソフィーは泣き叫んだ。
「オムレツの専門家をもう一人探すなんて、出来っこないに決まってるじゃない」
「私だって、夫をもう一人探さないといけなくなるのよ。そんな私の苦しみなんて、誰かさんの頭の中では、当然些細なものなのね」とキャサリンは苦々しく言い放った。
そして、とうとうソフィーは白旗を揚げた。
「行きなさい」とリチャードソンに命じる。
「ストライキの闘争委員会に伝えるのよ。この騒動を指導している者なら誰でもいいわ。これを機にガスパーレを解雇します、と伝えなさい。そして、ガスパーレには、私が書斎にいるからすぐ会いに来るように伝えて。支払うべきものはガスパーレに支払います。そして出来る限りの弁解はしてみます。そしたら、あなた、飛んで戻ってきなさい。私の髪を仕上げてちょうだい」
三十分後には、大広間で待つ客人たちは列をなし、ソフィーを先頭にして格式ばった行進で食堂へと向かった。ただし、ヘンリー・マルソムの顔が、素人芝居で見かける大げさな舞台化粧のように、真っ赤に熟れた木苺色をしているのを除けば、集った人々の顔からは、今しがたまで直面していた危機を乗り越えたという気色はほとんど見受けられない。しかし、あの緊張感のせいで感覚はもう麻痺してしまい、心中はどうにも晴れない気分のままだ。
ソフィーは華やかな客人たちに手当たり次第に話しかけていたが、大きな扉にばかり目がいっていた。晩餐会の用意ができた、というおめでたい声があの扉の向こうからまもなく告げられるのである。そして、その瞳は時折、鏡の方へ向けられた。鏡面には、美しく飾り立てられた髪が映し出される。それを見つめるソフィーはまるで、破壊的な大嵐の後、港に無事に辿り着いた延着船を、歓喜の思いで見つめる保険屋のようであった。
すると扉が開いた。部屋に入ってきたのは、先程から待ち望んでいた執事の姿である。だが、執事の口から出てきたのは、宴会の支度ができたことを客人たちへ知らせるものではなかった。執事の後ろで扉が閉まる。その言葉はソフィーだけに伝えられた。
「奥様、お食事はご用意できません」と厳粛な面持ちで執事が告げる。
「厨房の使用人たちが『職場放棄』したのでございます。ガスパーレは『料理人および厨房従業員組合』に所属していたのでございます。ガスパーレの即時解雇の報を聞くや否や、連中はすぐにストライキをはじめたのです。そして、ガスパーレの速やかな職場復帰と組合への謝罪を要求しております。申し添えさせていただきますが、奥様、連中の意志は非常に強固でありますぞ。食卓の上に既に置かれていたロールパンですら、返却せざるを得なかったのでございます」
あれから十八ヶ月が過ぎた。ソフィー・チャトル=モンクハイムは再び、昔通っていた集会や知り合いの元に顔を出し始めていたが、それでもまだ注意深く様子を見なければいけなかった。応接間での議論やフェビアン協会の集まりのような、気持ちが昂る場に出ることは医者が許さないだろう。無論、そのようなところに彼女が顔を出したがっているかは疑わしいのだが。
原著:「Beasts and Super-Beasts」(1914) 所収「The Byzantine Omelette」
原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)
(Sakiの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)
翻訳者:着地した鶏
底本:「Beasts and Super-Beasts」(Project Gutenberg) 所収「The Byzantine Omelette」
初訳公開:2020年7月16日
【訳註もといメモ】
1. 『ビザンツ風オムレツ』(The Byzantine Omelette)
この短編を読んだら一度は「ビザンツ風オムレツ」とは一体どんな卵料理なのかと期待を膨らませるものだろう。シリアの王侯の大好物なのだからさぞかし美味なものなのだと思う。しかしながら、この料理に関して少し調べてみたがはっきりとしたことは分からなかった。妄想ばかりが広がる夢の卵料理である。Wikipediaなんかを調べると、ビザンツ帝国時代の代表的な卵料理に「Sphoungata」というのがあるらしいが、ラテン語もギリシア語の文献も読めないので詳しいことは分からない。ただ阿呆なりに調べてみると、「ビザンツ帝国の味:伝説の帝国の料理(Tastes of Byzantium: The Cuisine of a Legendary Empire)」(Clark P. Asian Affairs. 2012)という英語の総説が見つかり、それによると「Sphoungata」は「溶き卵を玉ねぎや香草とともに油で焼いて折りたたんだオムレツ」のことだそうだ。「Sphoungata」という名前から察するに、スポンジ状にふわふわに焼き上げた逸品だったのだろう。要は具入りのオムレツである。旧ビザンツ帝国領には、卵にトマトやチーズと香辛料を入れて焼いたギリシャのστραπατσαδαやトルコのMenemenがあるので、「Sphoungata」や「ビザンツ風オムレツ」も同じような料理だったのかもしれない。
2. 『ソフィー・チャトル=モンクハイム』(Sophie Chattel-Monkheim)
サキの物語に出てくる登場人物には特殊な名前がよく見られる。ネイティブな人はその特異な名前を見て「ははあ、この物語でやらかすのは、こいつだな」というのが分かるという話をどこかで聞いたことがあるが、この物語のソフィー・チャトル=モンクハイムもその一人である。「Sophie」はギリシア語の「知恵(Sophia)」由来の女性名で、「Chattel」は「家財、動産(原義は財産)」、「Monk」は「修道士」という意味を持つ英語である。「ソフィー・チャトル=モンクハイム」という名は「財産を持ちながらも世間に疎く自分は清らかなつもりでいる知識人」という彼女の役割を表しているのだろう。
3. 『フェビアン協会』(Fabian conferences)
19世紀末に英国のロンドンで設立された社会主義者団体。革命や暴力による社会改革ではなく、議会政治による漸進的な社会改革を目指す。
4. 『シリアの大公』(The Duke of Syria)
20世紀初頭のシリアはオスマン=トルコ帝国の属州であり、当時はシリア州(Syria vilayet)、アレッポ州(Aleppo vilayet)、ベイルート州(Beirut vilayet)の三州などから成っていた。なのでここで言う「シリアの大公」というのはこれらの州の総督(Wāli)を表しているのだろう。もしくはイェルサレムやレバノンなど皇帝から直接任じられた統治者(Mutasarrıf)のことを指しているのかもしれない。このあたり、詳しい方がおられたらご教授いただきたい(大公という訳語が果たして適切なのかも踏まえて)。
5. 『ガスパーレ』(Gaspare)
「Gaspare」はイタリア系の男性名なので伊語風に「ガスパーレ」と訳した。手元の短編集では「ガスペア」(新潮、講談)や「ガスペーア」(ちくま)と英語読みで訳しているか、「ガスパール」(白水)と仏語風に訳しているかである。好みの問題であろう。ただし「Gaspare」は英語圏に入ると「キャスパー(Caspar)」や「ジャスパー(Jaspar)」に転訛するし、仏語風の「ガスパール」ならスペルは「Gaspard」になるだろうことは書き添えておく。
6. 『トルコ式の蒸風呂』(Turkish Bath)
トルコ式の蒸風呂「ハマーム(hamam)」のことと思われる。中東や中央アジアでは公衆浴場を指すようだが、本文中では個人用の蒸風呂のようである。ヘンリー・マルソム氏は自邸からこの最新のトルコ式蒸風呂を持ってきているようだが、移動式の風呂というのが当時あったのだろうか(専門家の情報・知見が欲しいところだ)。既訳は古いものも新しいものも概ね「トルコ風呂」と訳している。もちろん件の「トルコ風呂」なんてのはもう死語なので、気にせず使用すればいいのだが、私にはどうにもその勇気が無く本稿のように訳してしまった(普段、他人様の翻訳に色々とケチをつけている癖になんたる臆病か、と嘲笑っていただいて構わない)。
20世紀初頭の社会主義や労働争議に関しては、私よりも詳しい人が在野に多くいるので、ここで敢えて註釈はつけない。むしろ時代背景的な誤訳をご指摘いただきたいほどである。