幸せ者の自慢話。
昔から、不注意が目に余る人間だった。
自分では一生懸命生きているつもりである。しかし、約束事や必要なものを忘れてしまうのだ。メモをする暇もなく、「ナニカを忘れた」という喪失感だけが残る。それらは大抵苦しみを伴い、自分の不出来を何度も呪った。
他人にまで迷惑をかけ始めたというのは、ありがたいことに、こんな自分でも長く続いた懐の広いバイト先で死ぬほど後悔したものだ。大きい失敗が何度もあり、臨機応変が通用しなくて、指示する言葉も理解するのに時間がかかるような人間を、あの店はよくまぁ根気よく面倒を見てくれた。
「従業員の一人、フォローできなくて店長がつとまるかよ。」
そういってくれるような人に巡り合えたのは、自分の人生でも幸福なことだったろう。何せ自分は人との縁に恵まれている。両親も兄妹も友人も、私ができないことを理解してくれるような人達だった。やさしい人たちに囲まれて自分以上に幸せな人間はそういないのではないか。…釣り合わない、そう思うのは必然だろう。
もう迷惑はかけたくない。新しい人間関係を築くのは大の苦手だ。なまじ第一印象が良く取られがちなので、自分の欠陥が露呈してゆくのが耐えられなかった。会話は続かない。不必要な会話だと思ってしまったら、口に出すこともできない。こうして文章をしたためている間も、頭の中で言葉が浮かんでは死んでゆく感覚があるのだ。もう何を伝えたくて書いているのかすらわからない。一人の時間でさえそれなのだから、他人と共有された時間がどれだけ自分にとってこなすに難易度の高いミッションなのか分かるだろう。
支えられて生きている。苦しいのだ。日々を前向きに生きていても、こうしてどうしようもない時間がやってくる。
宿題は今までまともに提出できたことのほうが少ない。体中に消えない痣がある。成長した今でもどこかが必ずけがしている。目が悪い。肌が弱い。言葉よりも雑音に脳が支配される。衝動的に動く。物事を忘れる。大切なことを、大切な人のことを、忘れてしまう。欠陥は多い。
…それでも今を生きていかなければならない。どちらかというと、自分は幸せ者だ。世界中の色々なことに興味があり、経験に惹かれる。中途半端であろうと、対して仲良くもない知り合いに呆れられようと、好奇心は素晴らしいものだと、私は断言する。
「何かをやってみよう。」
「これはどのような構造になっているのだろう。」
「あれも、これも、すべてほしい。」
「どうしたら、皆と同じように、人との会話ができるようになるか。」
何かを成す過程が、他人より少し多いだけなのだ。少しだけ、できないことが多いから、時間がかかる。ただそれだけのことで、なぜ私が挑戦をやめねばならないのか。やめねばならぬ理由など、他人の尺度を気にするからという、そんなちっぽけなワケだけなのだ。
成功しない確率が君は高い。
それは、いつまでの、どこまでを成功と呼んでいるのか。
私は、様々な出来事を忘れてしまう。ゆっくり言葉にしてもらい、初めてしっかり理解ができる。好奇心が頓珍漢な方向に向くことだって日常茶飯事だ。しかし、それらを見る私の視界は非常に華やかで、絶対に忘れたくない光景だと常に考えてしまう。
無理なことはわかっている。私でなくとも、光景と経験の何一つ、忘れないことなんてできない。
ならば、私の愛する経験と知識と光景たちを、より多くを獲得して生きてゆくしかない。
私は幸せ者である。後悔に押しつぶされるような日があっても、自分を否定で埋め尽くすような夜があっても、好奇心が私の何よりの味方なのだから。
結局、何を伝えたいのか、最後まで思い出すことはなかった。
そういうことが少し人より多いだけの、ただの幸せ者の自慢話。