帰宅
日が出たとはいえ、まだ多く人が寝ている時間なので人がいない住宅街を勇士は走っていた。もっと正確に言えば、少女を背負いながら屋根の上を走っているのだが、不思議なことに物音で起きてくる住人はいない。勇士は極力音を立てないように走っていたし、何より魔法で姿を隠していた。
「まさかあんなに人が集まっているなんてな……」
『確かにこの時間にしては多く集まっていたのう。しかし、あの戦闘音を聞いて出てきたというなら少ないほうではないか?』
「それもそうだな。おかげであそこから逃げ出すのは楽だった」
『それよりも、こんなに朝早くから仕事とはこの町の治安組織にとっては迷惑じゃろうな』
「………まあ、原因は俺じゃなくてあの魔物にあるからな」
勇士は少しの間後ろを振り返り、気まずそうに眼を逸らした。後ろの山の付近には人だかりができ、甲高いサイレンの音が鳴り響いて早朝の静けさはなく、騒がしかった。
自分が関わっていることでこんな朝早くから仕事をしていると思えば、勇士でも多少は申し訳なく思うがこれはこれで都合が良かった。鍛錬で周辺の木を切ってしまったことをあの魔物に押し付けることができるからだ。こちらに関しては敵なので押し付けることに罪悪感などは皆無だった。
『む?主殿、女子の鎧が光っておるぞ』
「は?……うおっ………ととっ……常夜、何があったんだ?急に軽くなったぞ?……それに背中に当たる感触が違うんだが………」
『いや、儂にもよくわからんが急に鎧が淡く光って消えだしての……代わりに今は白いワンピースを着ておるぞ。………それと背中の感触については気にせんで良い』
「………そう言われてもな」
『まったく、これじゃから男は………』
ちょうど屋根から屋根へと飛び移ろうとしていたタイミングで急に背中に背負っている少女が軽くなり、飛びすぎて屋根の端ギリギリに着地してしまい、危うく落ちかけて慌てて次の屋根に飛び移った。
勇士が常夜に何があったのかと聞くと、背負われている少女は格好が金色の鎧ではなく、白いワンピースに変わっているらしい。軽くなってのは勇士の負担が減っていいのだが、ある問題が発生した。それは背中に女性特有の柔らかさが伝わり、勇士の心の平穏が乱れ、そのことを感じ取った常夜の機嫌が急降下していくというものだ。
さらに、勇士がどうにかして心を落ち着けようと集中すると余計背中の感触が気になり、心が乱れ、常夜の機嫌がさらに悪くなるという悪循環も生まれていた。
「………やっと、着いた……」
『……さっさと家に入り、その女を床に転がしてしまえ』
「こいつは布団に出して寝かすぞ」
『……ふん!』
勇士は静かに屋根から飛び降り、自宅である二階建ての一軒家の前に着地した。その時つい勇士の口から零れ出た言葉には万感の思いが込められていた。家にたどり着くまでの間、勇士は永遠と不機嫌な常夜の愚痴を聞かされる羽目になり、精神的に疲弊していた。少女の何が悪いのか、兎に角、常夜は少女が気に食わないらしく今では女子ではなくその女と呼び方もグレートダウンしていた。その事実に頭が痛くなるのを感じつつ勇士は少女を背負ったまま、玄関の鉢の下から鍵を取り出し家に入った。
「ただいま」
誰もいない家の中に声が響き、消えてゆく。勇士には、父親と母親、そして姉が一人いるが、父親と母親は海外を飛び回り仕事をしているため、家にいることはほとんどなく、姉は鍛錬に行く前に常夜が言ったように世直し世界一周の旅の真っ最中でこれもまた家にいない。つまり、現在、家にいるのは彼一人ということだ。俗に言う一人暮らしである。不便なことは多いが、今回の場合はこの状況はありがたかった。
靴を脱いでからリビングを目指して廊下を歩き、扉を開けてリビングに入り、テレビの前にあるソファーに少女をゆっくりと寝かせた。
「ふぅ、確か布団は和室の押入れにあったよな」
勇士は来客用として和室の押入れに仕舞ってある布団を持ってくるために、リビングと同じく一階にある和室を目指し、リビングを出て廊下を歩く。
『その前に風呂に入ったほうが良いと思うぞ?』
「……確かにそうだな。それにしても、このジャージ、ここまでボロボロになってると捨てるしかないか。結構気に入ってんだけどな」
『それだけで済んだのじゃから良いじゃろ』
「いや、まあ、それはそうなんだがな……」
洗面所の近くを通ったところで常夜が勇士に風呂に入るように勧めた。勇士は顔を下に向けて自分の恰好を見て頬をひきつらせた。お気に入りだった黒いジャージには所々穴が開き、肌が見えている。黒いので目立っていないが血もついているその惨状では、たとえお気に入りだとしてもジャージは処分せざるを得ないだろう。
勇士はジャージをもう一度見て溜め息を吐いて洗面所に入っていった。
「………こんなもんか」
勇士は常夜からまたジャージか、と溜め息を吐かれながら紺色のジャージに着替えると、和室から持ってきた布団をリビングの空いているスペースに敷き、掻いてもいない汗を拭う仕草をする。少女をソファーから布団に移してから、勇士はソファーに腰を下ろし、くつろいだ。
「ふあ~、………今更になって戦いの疲れが出てきたな」
『お疲れ様じゃ、主殿』
戦いの影響か、眠気を感じた勇士はそのままソファーに倒れ込む。先程まで少女を寝かしていたので、甘い香りが鼻腔をくすぐり、なかなかに寝付けなかったが、煩悩を必死に頭の隅に追いやっている間に意識が遠退き、眠りについた。