鍛練と平穏の終わり
遅くなりました。
まだ太陽が出ていない日の出前の暗い街の中で黒い影が家の屋根の上を飛び移りながら走る。家の屋根から跳躍して町と山の境目に走っている道路に着地した黒い影、勇士はあたりを見回す。
「さすがに少し肌寒いな。ジャージの下に何か着てくるべきだったか」
『ならば日の出まで待てばよかったものを……』
「いや、それだと時間が遅くなるだろ」
まだ3月ということもあり、日の出の時間は遅く朝も寒い。まだ太陽すら出ていない上に、薄いジャージ一枚しか着ていないのだから寒いのは当然であった。もっとも、一般人にとって寒くても勇士にとっては肌寒い程度なのだが。
「ま、鍛錬をしてるうちに体はあったまるだろ」
『まあ、そうじゃろうな』
勇士は近くの木の枝に飛び乗ると枝を蹴り、一気に加速して山の中を駆け抜けていく。わざわざ細い枝や鋭く尖った岩の先端などを相場にしているのだが、勇士が体勢を崩した様子は一度もない。
数分ほど走り山を一つ越え、別の山の頂上にある木がない開けた場所で勇士は足を止めた。
「ふう、体力はかなりついてきたな」
『主殿もわかっていると思うがこの世界の一般人から見れば、かなりどころではないぞ?』
山の中を非常識な速度で疾走したのに息一つ乱さないという、超人レベルの身体能力に対してかなり程度の認識をしている勇士に、一応この世界の最低限の常識を弁えていると自負している常夜が苦言を言う。
「わかっているよ。俺が何年この世界にいると思っているんだ……。ただ、昔と比べるとどうしてもな」
『……それはそうじゃろうが。昔の主殿は向かうところ敵なしといった状態じゃったからの。今の主殿とは比べるのも烏滸がましいぐらいじゃ』
「少し辛辣すぎないか?技量はあまり変わってないだろう……希望的観測だが」
『いや、技量も落ちておるし、何より身体能力の差が激しすぎるの』
「うぐっ」
勇士の声が聞こえたかはわからないが常夜は勇士の希望的観測、願望を容赦なく叩き潰した。勇士は言い返すことができず呻き声を出して閉口する。実際に前世での勇士の身体能力は神々のものと比べても圧倒的であった。超人レベルの身体能力といっても、所詮は超人レベルであって神々にすら遠く及ばないのだ。神々すらも超えるのであれば、比べることすら烏滸がましいというのは当然だろう。
「まあいいか……武装召喚」
『ふん、また儂の模造品なんぞを召喚しおってからに………』
「仕方ないだろ。こんな所でお前を振り回してみろ、周りの木が切れて倒れるぞ」
『儂とてそんなことは分かっておるわ』
勇士が魔法で抜き身の刀と黒い鞘を召喚すると、常夜は明らかに不機嫌そうな声音で文句を言う。常夜に模造品と呼ばれたその刀は一目で普通の刀ではないことがわかる。その刀は刀身から柄まですべてが黒に染まっていた。黒くないところといえば、刀身の真ん中鎬の部分を走る白い線ぐらいだ。
常夜が自分で言っていたようにこの刀は常夜の模造品なのだが、常夜はたとえ自分の模造品でも自分以外の武器を勇士が使っていることが気に食わないのだ。……家を出る前に常夜が鍛錬以外のことをするように言った理由の九割はこれであったりする。
「……ま、これがまともに振れるようになったんだ。そのうちお前を使っても周りが切れないように力加減できるようになってくるだろ。それにお前じゃないと違和感があるしな」
『そ、そうか?いや、そうじゃろう、そうじゃろう!何せ儂は模造品ではなく、本物じゃからの!』
勇士は少しばかり拗ねてしまった常夜の機嫌を取ってから刀を構えて素振りを開始する。刀をまっすぐ振り上げて振り下ろすだけの単純で退屈なものだが、これの積み重ねが一撃の鋭さや重さに係わってくるとなると疎かにすることはできない。
「1、2、3、4、―――――」
刀はブレることなく真っ直ぐに振り下ろされ、また元の位置まで持ち上げられる。洗練された動きは無駄を感じさせない。
最初は型を確認するようにゆっくりと素振りをし、段々と早くしながら一撃の鋭さと重さを重視したものに変える。速さが増しても素振りの型が乱れた様子はなく、勇士の顔は真剣なのもだがそこからは余裕を感じ取ることができる。
「―――――997、998、999、1000。こんなところか、さて、次だ」
素振りを千回行ったところで止め、十分に体が温まったことを確認し、腰を落として刀身を鞘に納める。
左手で鞘を持ち、右手は刀の柄から少し離した位置に構え、目を閉じる。
「………シッ!!」
次の瞬間、勇士はカッと目を見開くと同時に凄まじい闘気を放ちながら目にもとまらぬ速さで抜刀する。
夜明け前の夜闇を白い閃光が切り裂き、闘気に驚いた鳥が慌てて飛び立つ時にはすでに刀身は鞘に納まっており、元の態勢に戻っていた。
「……まあ、及第点だな」
勇士が先ほど行ったことは速度が異常ではあったが所謂居合と呼ばれるものである。勇士はこう言っているが、この世界の居合の達人では到底たどり着けないほどの速度と完成度を誇っているのだが、勇士の比較対象といえばどうしても昔の自分になってしまうのでその表情はやや不満そうだ。
そこから徐々に実戦形式に近くしていく。振り下ろしからの素早い切り上げ、腰を捻る勢いを利用した切り払い。まるで川の流れのように淀みなくそれらを組み合わせ、さらに蹴りなどの体術も混ぜていく。
勇士の技の数々はその光景を見たものが演武を舞っているのように思えるほど完成されていた。
「……ふぅ………やばい……」
『……このぶんであれば儂を鍛錬に使ってもよいのではないか?結果はあまり変わらんと思うぞ?』
数十分後、ようやく勇士が鍛錬を止めて辺りを見渡すと、周りにあった木を数本切断され倒れていた。他の木は倒れてはいないものの、どれも大小の違いはあっても傷ついており、無傷のものは存在しなかった。
勇士は鍛錬に集中するあまり周りが見えなくなっていたようで、自分でしでかしたこととはいえ、その惨状を見て僅かに汗が滲んでいる額に手を当てて溜息を吐く。
「これ、どうするんだよ……」
勇士がそう言いながら頭を悩ませていると――――
――――突然、静かな夜明け前の山に轟音が響いた。