外伝:鴻野日芽、その1
『環境』というものがある。
しばしばこれは一つの考え方と捉えられるのである。大抵は想像に合致する友達の見つけられない学生だったり、都合のいい客の見つからない営業マンだったり、思うように事が運ばぬ場合に言い訳の一つとして用いられるのである。
それは「環境が悪い」として、自らの負うべき責任から逃れるために使われるのである。
もし仮に、彼らがその程度の思考に満足しているのであれば、心理学的には、単純な発想の転換にて、「自分は今の環境で十分恵まれているんだ!」と世界を再認識するだけで諸々の問題が解決すると云われているわけだ。
しかして、第三者の目で見て「環境が悪い」とされているのであれば、事はそう単純ではない。
ただし、其の第三者に評価されることすらない者も、時にはいる。
鴻野日芽。両親は彼女を愛し、資産も誰もがうらやむほどで、彼女は家族に関してたいそう恵まれた環境に生まれた。
つまるところ、彼女はスタートとしては恵まれていたわけだ。はじめは、である。
彼女が生まれてからすぐ。まず、母親は入院生活を送ることになった。
元々彼女の母親は、日芽を身籠り、出産するまでずっと、病にて循環器をはじめとして体の機能が鈍っているという状態であった。病名こそ娘には伝えなかったが、しかしその病は夫、つまり日芽の父と結婚するに至る理由でもあった。
日芽の父親は、結婚する以前より妻となる彼女とある特殊な関係にあった。その後、通院がちの彼女を十分養え、使用人を雇うこともできるだけの資産を保有する彼は結婚。そうして彼らの覚悟の上で日芽は生まれたのであった。
しかし、以降日芽の『環境』はただ悪化の道をたどる。
日芽が小学校に入る頃には既に、両親は事故死していた。奇跡的に回復した母と、父、日芽本人の三人同時に交通事故に巻き込まれたのだった。幼い日芽を迫る鉄塊から守るべく身を挺した父、そして彼女の事故の物理的衝撃を代わりに受けた母、二人とも同時に亡くしたのだ。
その後、事故の瞬間に限って日芽の家族から離れていた使用人は日芽の保護者となり、小学校に入学した後も、両親を亡くした悲しみに耐えられぬ彼女は、近所に住んでいたという関係にあった泉雫月以外に友人と呼べる人間関係は得られなかったのだった。
かつ、当時から彼女はすべての動物に苦手がなかった。偶然出会ったカミツキガメの仔と一緒に育ち、入院中であれ母の類稀なる優しさにあてられてか、どんな動物にも愛すら感じていたのだ。
しかし、小学校入学後、当然周りは精神的に未熟で社会性の不十分な小学一年生。ゴキブリにすら慈愛をもって接する彼女はいじめの対象になる。
彼女にとって、それらの『愛』を捨て、皆に交じってカエルを怖がり虫を己が都合で殺すのは、亡き母の教えを否定し、残忍な行いに他ならなかったのだ。
そもそも彼女にとってそれは『正しい考え』であった。正しい世界に生きる自分がどうして悪者になるのか。彼女には持ち物をゴミ箱に投げ、向かって石を投げ、触れることすら不浄と扱うなどと云う思考は理解できぬものであった。
その『環境』は、日芽を自分こそおかしい人間であると錯覚させ、そうして育った彼女は自分の正義など間違っていると信じるようになった。
その日芽に手を差し伸べてくれる人間は泉雫月だけ。虫を駆除することに異議を申す日芽は教師陣からも腫れ物扱いされ、しかし捻じれた世界に鴻野宅の使用人すらまともに事情を把握することはできていなかったのだろう。
彼女の『環境』とは。
今更になって鴻野日芽が過去を嘆いたりはしない。ただ、『スタート』が恵まれていたばかりに、時に優しき心は醜い現実に耐えきれず、優しき現実は彼女を温かに抱擁するのである。
彼女にとっての『環境』は、果たして恵まれていなかったのだろうか。
『第三者』とは、決して自分に当てはめて自分勝手な評価を下す者のことではない。あくまで絶対的な評価をもたらす者なのである。イデアとかけ離れた世界にさような存在はあり得ないのだが、して彼女は不幸だった?
答えなぞ誰も設置しない。
結局と云えば、鴻野日芽のみぞ知るところなのである。
鴻野日芽は今日も、窓辺に留まったハシボソカラスを休ませ、アスファルトをのける小さな花に水をやり、歪な甲羅の捨てギリシャリクガメを抱いて寝て、雑種野良猫の毛を繕い、まばら模様のローズヘアタランチュラを温め、誕生日の使用人にサプライズでケーキを作り、その彼よりも古い仲のカミツキガメと心を語り合う。