第3話 太陽が沈む頃
七海は仕事に行こうと、いつものようにアパートの扉を開けて飛び出しました。
「きゃー遅刻するー!」朝起きるのが苦手な七海は毎日この調子です。
犬の散歩をしているおじさんが「やれやれ、毎日まったく元気なお嬢さんだ。なあ、テツ」と自分の愛犬に言って微笑みました。愛犬のテツはそんなおじさんの顔を見上げて「いつも笑ったことのないご主人さまが笑っている」とうれしくなって尻尾を振るのでした。
おじさんとテツが毎朝見ていることにも気づくはずもなく、バス停へと走り出しました。アパートの後ろの空き地の横を通りすぎようとしたとき、なにか空を飛んでいる音がして七海は空を見上げました。「なんでしょう?こんなところを飛んでいるのを見るのは初めてだわ」と、遠ざかっていくセスナ機を見ていました。
(ほらほら七海遅刻するわよ。と言う私の声が聞こえたかしら?)はっと我にかえった七海は息をはずませながらバス停へとまた走り出しました。
仕事していてもセスナ機のことが七海の頭から離れませんでした。お昼休みになると《空を飛ぶって何て素敵なことなんでしょう》と、ビルのすき間から見える空を憧れるように見ていました。ビルの谷間から海や緑輝く山々の上まで行って地上の様子を見ていることを考えただけで、楽しい気持ちになるのでした。七海にとってランチタイムは12時間遅れのシンデレラタイムでした。自由な時間は始業のチャイムと共に夢のように過ぎ去ってしまうのですから。
太陽が沈みかける頃、アパートへと帰ります。待っている家族もいないし、なぜここにいるのかもわからない。本当に夕方は嫌いだなと思いながら、沈んでゆく夕陽を見るのでした。
バスを降り、空き地の前を通ると「にゃーんにゃーん」と鳴き声が聞こえます。どこかのお家のねこかしらと思いながら通りすぎました。
(ふふふ、しばらくすればわかりますよ七海)
誰かの声が聞こえたような気がするけど、空耳かしら?今日は空ばかり見ていたせいだわと呟きながら七海は元気なく歩いていきました。
その日の夜「にゃーん」の声の持ち主が、七海のところへ来ることをまだ思いもつかなかったのです。
この続きは、太陽がすっかり沈んだ頃にお話しすることにしましょう。