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学校教育を思い出したりした

作者:神崎 創
 しばらく文章を書くことから離れていたので、リハビリのつもりで書きます。
 よく、若い人たちが「学校なんてつまらない」とか、授業の内容を指して「こんなことが何の役に立つんだ」みたいな文句を言ったりしますよね。若い人、というと範囲が漠然としてしまいますので、小学生から高校生くらいまで、としておきましょうか。
 すると、どこからともなく現れた、意識高い系な大人が説教めいた感じで言うわけです。平和に学校へ通えることは幸せなことなんだ、とか、学べるうちに学んでおかないと大人になってから苦労するぞ、など、云々。
 真面目に学校行って勉強しろよ。
 そう言いたくなる気持ちもわからなくはないですが、しかし私は、学校や勉強を嫌がる若い人たちの気持ちも十分に理解できるつもりです。
 今でこそ不登校とか引きこもりとか取りざたされるようになりましたけれども、しかし「学校や勉強は嫌い」という心情、これって時代を問わず多くの若い人たちが抱いてきた共通の思いなんじゃないでしょうかね。少なくとも、私も中学生や高校生の頃はそう思ったりした記憶があります。
 まあ、大人たちだって、若い人たちのことを言えたものか、どうか。会社に行きたくない、あるいは仕事したくない、って一度は思ったことがあるんじゃないでしょうか。
 それはともかく、自分の意志とは無関係に「やれ」と言われると、誰しもやりたくないものです。
 私が個人的に考えるのは、日本においては教育ないし学校制度、授業内容というものの重要性が、若い人たちによく理解されていないのではないか、ということです。もう少し噛み砕きますと、なぜそれを学ぶのかその理由がわからないから授業や学校が嫌になり、勉強が苦痛になるように思います。どうして学校に通って授業を受けるのか、そのことがよくわかっていれば子供といえどそうそう嫌悪したりしないのではないでしょうかね。人の考えや思いはそれぞれですから、百人の若い人が百人そうであるとは言えませんけれども。
 学ぶ理由が要る、ということを述べましたけれども、もう一つ考えられることは「目的意識」です。
 つまり、何かを達成するために学校に通って勉強する、という方向性のことですね。
 これは小学生とか中学生では少し難しいかもしれません。ランクの高い中学や高校に合格するため、というような目的意識は持てるでしょうが、自発的というか能動的な動機というのはやや薄い。
 しかしながら、高校生くらいになって自我がはっきりすると、目的観を明確にしている人もたくさん出てくる。テレビなどでたまに観ますけれども、目的に到達すべく一生懸命に学んだり何かに専念している高校生の姿です。プロのスポーツ選手を目指して練習に励む、とかいうのはよくありますけれども、それ以外にも、例えば調理師を目指して調理の勉強をするとか、国家資格を取得するために勉強している、など。
 目的=目指すべき方向性がはっきりすれば、人間というのは意外とまっすぐに突き進む生き物なんじゃないでしょうか。そんな気がします。
 以前からよく言われていることですが、どうも日本の教育というのは知識詰め込みに偏重するきらいがあり、これがもうずっと長い間変わっていない。しかも、結果的にその達成度をテストや成績評価で比較してしまうから、みんなますます嫌になる。
 これも私の勝手な意見ですが、小学校の三年生くらいまでは、最低限の言葉の読み書きと計算を教えるくらいにしておいて、あとは学ぶことの重要性をじっくり理解させるような何かをしていけばそれでいいんじゃないかと思います。多角形の内角だの植物の胞子がどうとか京浜工業地帯がどうとか、そういうものを一概に子供達の柔らかい脳みそに叩きこむ必要があるとはどう考えても思えません。あえて付け足すなら、本を読んだり絵を描いたり音楽を聴いたり自然の観察をしたり、子供たち一人一人が関心をもったことをじっくりやらせてあげることが大切なんじゃないかという気がしますね。そうすればおのずと「これがやりたい」という目的意識の芽みたいなものが生えてくるし、そうなると自然と学校に行きたいと思うようになる。学校でそれがないから、家に帰ってネットとかゲームとか、そういう方向にばかり関心がいってしまう。もちろん、子供の関心の方向性を一緒に探してあげるのはある部分では親の役割であることは否定できません。しかし、こればっかりは親だけでは限界がある。親以外の大人や友達に囲まれているなかで触発を受け興味をもつことのほうが大きいのではないでしょうか。だから、子供は親のしらないうちに(良くも悪くも)色んなことを覚えて帰ってくるのです。私などもそうでした。親から教わったことよりも、友達との関係のなかで知ったことのほうがたくさんありました。
 以上のようなことを言うと「すべて学校に押し付けるのか」と読み取られそうですが、そうは言っていない。親と学校と、両方が必要。学校ではだめで、親でなければ教えられないこともある。そのあたりの機微を考えずに、教育の責任を親だ学校だとどちらかに立て分けてしまおうとする議論ではダメです。はっきり言いますが。
 学校へ通ったり勉強をしたりする理由を理解し学ぶ目的を意識できるように仕向けてあげることが、我々大人の子供に対する義務であり責任なんじゃないかと思うのです。
 ちなみに、義務教育時代に学校で教わったことについて、大人になってから役立ったなと感じる瞬間は何度かありましたね。
 例えば二次方程式。
 仕事で人数に応じて椅子を用意しなければならなくなり、確か三人掛けと四人掛けを幾つ出したらいいか、というような場面でふと思い出して二次方程式を解いた記憶があります。問題集によくある典型的なそれですけれども。
 あとは、今こうして文章を書いたりすることについてもそうです。もしも当時から小説を書いていたならば、もっと国語とか現国の授業を真剣に受けたのかな、なんて考えることもあります。
 例を挙げればキリがないのですが、理科だったり社会、特に地理とか歴史とかは私の仕事ではやっぱり知識としてあったほうが役に立ちます。そして最近では英語の重要性を頓に感じることも多かったりします。
 そうなると、ふと思うわけですね。
 ああ、もっと学んでおけば良かったのかな、と。
 もしこの稿が若い世代の方の目に触れる機会があるなら、申し上げたい。あなたが学校の授業で学んでいることのすべてとは言わないが、そのうちのいくつかはいずれ活用する機会がやってくる。決して無駄ではありませんよ、と。
 ともあれ、学ぶ重要性さえ理解できれば、人は何歳になろうと学ぶ気になれるのです。

 文章リハビリにお付き合いくださりありがとうございました。

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