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餓鬼の拳

作者: 犬口和音

梅雨を抜け夏になった。

蒸すような夜の街を、ジャージ姿の男が一人歩いていた。

周囲には何人もの人間が歩いているが、その群れの中でも男は一人であった。

男の周囲にだけほんのわずかであるが空間が開いている。まるで見えない壁がそこにあるかのようだ。


上下を黒いジャージに包み、足元はスニーカー。いかにも動きやすい格好である。

顏には不精髭が浮いている。髪は寝癖なのかあるいは風に吹かれてそうなったのか乱れているが整えようとした形跡がない。

男の歩みは緩慢なように見えて、それでいて周りの人間よりも早く進んでいく。


栄一門、それが男の名前であった。


普段は知り合いの運送業を手伝っている。だが車の免許は持っていない。

朝から晩までひたすらに、倉庫から物を取り出し、そして片づける。

激しい肉体労働を終えると全身が疲労と充足感に包まれる。その生活が好きだった。

給料は安い、だが食事つきの社員寮のおかげで金を使うことはほとんどなく、貯金も500万円ほどになっていた。

今年で三十四になる。

このままこの仕事を続けることが出来るのはせいぜい十年だろう。

かといって今さらパソコンとやらを覚える気もない。そういった努力をする気があれば、今頃別の生き方をしている。


仕様もない奴だ。

時折そういった感情を込めた視線を感じることがある。

無論、それは自分も感じていることであるし慣れたものだ。

時折、酒の席で説教をされることが煩わしいが、ただその時だけの話だ。


夜、しなびた布団の中で思うことがある。

もっと他の生き方は出来なかったのか。

その度に思い出すことがある。

学生時代、たった一つの空手の試合の事だ。

そのことを思いだすだけで、何か体の内側に力が湧きあがる。

その力をどうやって使えばいいか。

その答えを出すことが出来ずに何度も朝を迎えてきた。



初めて空手着に袖を通したのはまだ小学校に入るよりも先であった

『知人の息子が始めたらしい』

ただそれだけの理由で、父は嫌がる自分を道場に叩きこんだ。

小さな街の道場であったが、小学生低学年・高学年、中高生、一般の部にそれぞれ十名ほどの生徒がいた。


ベソをかきながら始めた事であったが、胴着に自分の汗のにおいが染みつくころには空手の魅力に取りつかれていた。


体格は人並み程度であったが才能があった。

いつだって同年代の区分より一つ上のクラスに混じって稽古をしていた。そうしなければ相手が務まらないからだ。

十歳の時に、十二歳の相手と組み手をして負けたことは無かった。十三歳の相手には体格で押されることがよくあった。十四歳の相手には何をしても勝てる気がしなかった。

この年代の四年の差はとてつもなく大きい、技術はもちろんのこと体格に差がありすぎるのだ。敗北は当然である。

しかし、栄はそれを飲み込むことが出来なかった。

喚き散らしたかった、だが教室は精神を鍛える場でもある。道場主は優しい老人であったが、態度の悪い生徒には容赦なく雷を落としていた。

だから栄はそれをぐっとこらえた、体から湧き出た苦い物を吐き出すことはせず、しかしそのまま飲み込むこともできずにいた。

口の中で何度も何度も咀嚼してようやく、味の無い泥のような感情にすることで飲みこむことが出来た。

それは力になった、屈辱と言う力である。

それを自覚した時、自然とよく笑う様になっていた。

辛い稽古も、苦い敗北も、全て自分の糧にすることが出来ると思ったのだ。

嫌な笑い方だったかもしれない。年長の生徒たちからが組み手を避けるようになっていた。



その笑い方を覚えて五年、栄は全国の舞台に立っていた。

『全国空手道第四十一回学生大会』その雄々しい垂れ幕が自分のために準備された物に見えた。

年齢は十七、高校二年生。自校からの出場は自分だけである。

普段栄を避けている先輩や後輩たちもこの時ばかりは栄の応援のために団結していた。

有り難いとは思わない、アイツらのために何かをしてやろうと思ったことは無い。

だが、勝った姿を見せてやりたいと思う。

周りにばれないように口元を抑えながら、笑った。



一回戦は完勝であった。試合開始二分十一秒に相手をノックアウトした。

相手が倒れた瞬間、しまったと思った。

本当はもっとエンジンを温めたかったのだ。そのためにわざと当たらないような攻撃を繰り返し相手にチャンスを与えた。

そのチャンスに放たれた拳や蹴りを躱し、受けて、カウンターを腹に入れる。

いくら練習で鍛え上げた技であっても、試合になるとうまく使えないことがある。それを確かめるために一通り覚えた技を相手に試したのだ。

その中の一つが予想よりも切れがよく、相手の防御が間に合わずに顎を揺らした

事故のような勝利だった、だが感触は悪くない。

この続きは次の相手に試せばいいと切り替えた。


二回戦は大会最速の試合であった。

相手は栄よりも大きく実力の劣る相手だった。それを本人も自覚していたのだろう。試合開始と共に一気に距離を詰め直突きを放った。

最短距離を通り、直突きが栄の胸を打つ。それだけで試合が決まるわけではない、その次にはローを放ち、蹴り足を戻すと同時に肘を叩きこむ。

それが相手の作戦であった、それで倒れるならよし、倒れぬならひたすらに攻撃を繰り返すしかない。

真っ当にやれば勝てるわけがないと腹をくくったからこそ、その技には迫力があった。

だが、直突きが突いたのは何もない空間だった。先ほどまで栄の胸板が、その奥の心臓があった空間である。

栄が直突きに合わせて僅かに後ろに退いたのだ、その動きに拳が追いつかなかったのだ。

相手の攻撃が放たれ、肘が伸びるまでの間。時間にすれば十分の一秒ほどもない。

然しそのわずかな時間の中、相手の表情から戦意が消失したのを栄は確かに目にしていた。

回避を終えると同時に放った上段蹴りがその脳を揺らすと、相手は僅かに安堵の表情を浮かべながらマットに沈んでいた。

負けて何故そんな顔が出来るのか。栄には理解できなかった。


鮮やかな勝利に、会場が湧いた。

皮一枚の内側にぬるま湯を注がれるような、奇妙な多幸感が栄の全身を支配する。

勝ちたい。

勝ち続けたい。

栄は今まで以上にその気持ちが自身の中で大きくなるのを感じていた。




三回戦。それですべてが終わった。


真っ青なマットに、鮮血が飛び散っていた。

次々にあふれるそれは、栄の物ではない。

顔を抑えてうずくまる対戦相手の物であった。

栄と変わらぬほどの体躯、それでもこの舞台に上がってきたということは栄と同じ程度に才能が有り、そして努力してきたのだろう。

その背中のゼッケンには『三島』と大きく記されている。


抑えた指の間からぼだぼだと血が零れ続けている

目玉が、潰れていた。

騒然とする会場、駆け寄る係員達。

その相手を、栄は見下ろしていた。

嫌な笑みであった。



親指を赤く染めた栄を、幾千の敵意を込めた視線が貫いていた。

お前達には分からないのか。

栄は観客たち一人一人の顔を網膜に叩きつけ、頭の中でそれを親指で押し潰していた。



先に仕掛けてきたのは三島であった。

栄が気が付いたのは打ち合い始めて間もない頃である。

『金的を狙っている』


栄は三島の華麗なコンビネーションの内側から、それを獣の嗅覚で嗅ぎ取った。

金的は当然反則である。しかし試合が続行できるならば失格にはならない。

故意であることさえ見抜かれなければ減点だけで見逃されるのだ。

相手がダメージから回復する前にそのポイントを取り返してしまえばよいだけである。

栄は相手の狙いを看破したが、決して三島を軽蔑することは無かった。

勝ちたいんだな。

栄は心の中で三島に問いかけた。

その声が聞こえたのか、あるいは栄の表情の変化に気が付いたのか。三島の表情に戦慄が走る。

栄の蹴りが相手の内腿に走る。

三島がそれを大げさに避け、バランスを崩した。

自分の狙いが読まれた以上、栄が金的を狙ってくるのは必定である。そう考えた故の行動であった。

しかし、そこまでが栄のねらいであった。ただの中段蹴りで相手の心を制したのである。

三島が次の行動に移る僅かな瞬間の内に、一気に踏み込み間合いを潰す。

拳の間合いに入ってしまえば金的を狙うことは困難だ。

下段突きを当てることは不可能ではないが、そうすれば故意と取られる可能性が高い。


そうした思考が三島の動きを更に遅らせた、その間に既に栄は攻撃を放っている。

鳩尾への肘打ちが三島の肺腑を貫いた。両の足裏マットから離れ後方へと倒れこむ。

一本。そう思った栄の表情が固まった。

三島は背中からマットに着地するとそのまま後転し、三回転。勢いを殺すとそのまま膝立ちになる。

技あり。審判が叫んだ声がやけに遠くに響いていた。

攻撃の瞬間、三島は自ら後方に飛んでいた。相手が何を仕掛けてくるかを理解するよりも早く飛び退いたのだ。

無論、ダメージはある。普通の相手なら崩れ落ちたまま起き上がれないほどのダメージだ。それだけの手ごたえがあったからこそ栄は勝利を確信したのだ。

然し三島は立ち上がる。表情に苦悶が浮かんでいるが、手足が縮んで構えが乱れるということもない。

だが、栄の有利は変わらない。相手がダメージから立ち直るよりも早く追撃を加えるべく距離を詰める。


ぱん。


気抜けするような軽い音が栄の耳に響いた。

次の瞬間目前に青い壁が迫りくる。その壁を押し返すべく両腕に渾身の力を込める。


マットに頬が僅かに触れ、『技あり』という声が響いた。

先ほど見下ろしたはずの相手が、今度はこちらを見下ろしていた。

何が起こったか理解できなかった。何度記憶を再生してみても、自分が何をされたかが分からない。

残っているのは左のこめかみに残った衝撃。

中央に居たはずの自分が今は場外に近い付近まで運ばれている。

右上段回し蹴り。

恐らくはその一撃で自分の身体は叩き飛ばされたのだ。

距離を詰め、拳の間合いに入った。相手の下半身が視覚から外れる様な距離だ。

その距離で三島は正確に自分のこめかみを蹴り抜いたのだ。

上半身にブレを生じることなく、相手の頭の位置まで蹴りを放つ。

恐ろしいほどの柔軟性とバランス感覚。そして胆力。

それは悔しいが栄の持たない才能であった。


稽古した通りの動きを、試合場で実践する。

例えダメージを受けていても、それを出来るのが三島と言う男だった。


ぞくりと、栄の中で嗜虐的な感情が鎌首を上げた。

『この男を倒す』

そうすることで、自分が今持っていない何かを手に入れることが出来ると直感したのだ。



三島もまた同じことを考えていたのかもしれない。

栄と同じ、嫌な笑い方をしているのだ。


再び始まった打ち合いは今までの試合と比べ物にならないほどに苛烈であった。

それは拳が速いとか、蹴りが強いとかそういったことだけではない。

そのそれぞれが明確に相手を破壊すべく研ぎ澄まされていた。

十に一つは相手の急所へと容赦なく放たれている。

それは近くにいる審判にも気づかれないようなさりげなさでコンビネーションに紛れていた。

それをお互いだけがよく分かっていた。

次に相手が何を出すのか、楽しみでたまらない。

次の瞬間相手が自分の予想を覆し、この体をマットに沈めるのではないかと恐怖する。

だが、俺だってそうだ。

お前が思った通りの俺ではない。

それ以上だ。それ以上にお前に勝ちたいと思っている。

だからさっきまでの試合で使わないようなえげつない技を遠慮なく使えるんだ。

お前だってそうしてくれている。

それが、嬉しい。


二人とも笑っていた。

それは、嫌な笑い方だったが。しかし、子供のように無邪気でもあった。

溢れる物を押し殺すために、顔に力を入れればそうなってしまっているだけで。

溢れだそうとしている物が何なのか、お互いにはわからない。

だが、こらえている間全身を走るムズ痒い感覚にずっと浸っていたいのだ。


しかし、その瞬間は唐突に訪れた。


ずぐり。

栄の指に、今までに感じた事の無い不愉快な感触が走った。

それは正拳突きであった。

正拳の握りからわざと外していた親指で相手の目を突いたのだ。

親指の根元まで、三島の顔面に突き刺さっていた。


突如訪れた静寂。

体の中で何かが切れてしまったのか、身動きが取れない。

ぐう、と三島が呻きながら後退したことで親指が外気に触れる。

温かな物が、急激に冷めて行った。





『悪質な反則行為による失格』

それが、栄に下された判決であった。



道場は破門になった。

師匠は栄を殴りはしなかった。叱りもしなかった。

ただ一言だけ

『やはり、か』

と呟いた。諦めの感情が溢れていた。


周りの人間も離れて行った。

元々友人と呼べるような相手はいなかったが、露骨に避けられるようになった。

かといって、栄を嫌い苛めてやろうと思うような怖いもの知らずも居なかった。

ただ剥きだしの包丁がそこに吊るされているかのように、栄に近づこうとしないのだ。


両親は栄を慰めた。

『試合の中の事故だったから仕方ない』

自分たちに言い聞かせるように何度もそう言って、転校の手続きを素早く進めた。

わざとそうしたのだと言ってしまえば両親がどんな顔をするのか、何度も試そうとしたが、結局は胸の内に秘めたままだ。



そして、空手を辞めた。

勉強をして、何とか大学に入ったが結局は卒業することなく中退した。


理由は酒と女、そして博打だった。

今思えば正気でないことを平気でやっていた。

周りの人間もそんな人間ばかりだった。

皆で、何かから逃げるために金を使った。


馬鹿だった。

もし、この人ごみの中にあの時の俺達を見つければ迷うことなく殴りかかるだろう。

殴り殺してやりたい。

親指を、その左目に突き入れてやりたい。



親はそんな俺に言われるがまま金を送っていた。

老後の蓄えも削っていた。

間抜けだと嗤っていた。

今でもそう思う、何でこんな人間を見捨てることが出来なかったのか。

今のおれには五百万円という蓄えがある。十年以上かけて貯めた金だ。

それでもまだ少しだけ足りない。あと二年か三年、この生活を続けてようやく届く金額である。

長かったが、辛いと思ったことは無かった。どうせほかにすることなど無かったのだから。

大げさに言えば、今生きているたった一つの理由である。

その金を返した後のことはあまり考えていない。






街中を抜け、しばらく歩くと風に緑の匂いが混じってくる。刈入れたばかりの芝生の甘い匂いだ。

『石山公園』


近くに街灯の無い中、月明かりだけでその文字を確認すると車止めを跨ぎ中に入る。


公園の中にはポツリポツリと街灯が設置されていたがその灯りはいかにも頼りなく薄暗い。

その所為か近くに人の気配は一切なく、虫の声が空間を支配していた。


「よう」


真横から声をかけられ足を止める。

目を凝らすと、ベンチに一人男が座っていることが分かった。

栄と同じく、上下黒のジャージ姿であった。違いといえば胸元に白いロゴマークが入っていることくらいである。


男はその格好で夜の空間にまじりあっていた。男の吐き出す呼吸一つ一つがこの暗闇の一部である。

周囲には目を配っていたつもりであったが、呼びかけられなければそのまま通り過ぎてしまうところであった。



「来たんだな」

男がベンチから腰を上げながらそういった。



「そりゃ、来るさ」

男に体を向け、栄が言った。



「優先するような約束の一つもないのかよ。その年でよ」

呆れたように笑いながら、男が言った。

暗闇で、その表情は見えない。

だが、栄には相手がどんな顔で笑っているかが掌で触れたようにわかる。


「お前こそ、一体いつからそこに居たんだ?暇なのはお互い様だろう」

相手と、同じように笑いながら栄が言う。


「お互い様、か」

「お互い様、だろ?」


月明かりに照らされ、男の姿が明らかになった。

栄と背丈は変わらないが、一回り程肉の厚みがある。

筋肉だけではないが脂肪だけではない、そのどちらも同じような割合で栄に塗りつけたような体格だ。


左目に、眼帯を付けていた。


「もう十七年ぶりになるか」

「早いもんだな」


そうして、栄は三島と向き合った。あの時と同じように。

周囲には誰もいない。

不愉快な観客や、審判も、師も、級友も、家族も、二人きりである。

もし始めれば――――

自然と、相手との間合いを測る。

あれ以来稽古らしい稽古などしてはいない。

体は動かしているが、それ以上のことは無い。

十七年間使わなかったスイッチを入れようとするだけで、体の中の何かが弾けるように痛む。

錆びついたエンジンを動かそうとしているようなものだ。だが、その痛みにこそ―――――


「やめとけよ、そんなつもりじゃねぇ」

静かに、三島がそういった。

その言葉に心の底から安堵し、そして無性に悲しくなった。



ああ、分かっている。ここであの日の続きをしたとして、何かが帰ってくるわけでもない。

そんなことは言われるまでもなく分かっている。

だがどこかで、そうしなければ前に進めないという気持ちもある。

分からないまま、ここに来た。

この男なら、自分の知らない答えを持っているのではないかとそう思った。


「……驚いたよ。大会の後、すぐにお前が転校したと知った。空手も、止めたんだろ?」

「……ああ」

三島が懐から取り出した煙草を一本差し出す、それを受け取り手前のライターで火をつける。


「二度と会うことは無い、って思ってたんだがな。この前たまたま人伝にお前がこの近くで働いていることを聞いてな」

煙草をくわえたまま上着を何度もたたく三島を見かねて、ライターに火をつけて差し出した。

三島は咥えた煙草をライターに近づけた。俺の右こぶしに、三島の左目が近づいている。


「――――ふぅ、まぁなんだ。こういう縁ってものは無視できない人間でな。呼び出させてもらったよ」

きっと、他に何か言おうとしていたことがあるのだろう。だがそれは煙草の煙に包まれて飲み込まれた。

何を飲み込んだのかは三島本人にしかわからない。

あるいは三島自身も分からないのかもしれない。分からないから、ここに立っているのかもしれない。



「……一個だけよ、どうしても言いたいことがあってな」

「……なんだ」


全身を嫌な汗がつつむ。

片目を奪われた。

そのことが三島の人生をどう狂わせたのか、それを聞かされるのかもしれないからだ。

今まで何度も考えた事だ。

今目の前に立っている男はそれを気にしている風でもないが、しかしこの17年間に何もなかったことの証左にはならない。


空手は、辞めたのだろう。

片目を失えば、それだけ弱くなる。

距離感と視野を奪われることが格闘技においてどれだけ致命的なことなのか。

恐怖心が技を鈍らせるだろう。反応が遅れれば、頭部に痛烈な打撃を受ける可能性も増える

その責任は、俺にある。

最初に仕掛けたのが三島であっても、俺は目玉も金玉も潰されずにここに立っている。

もしここで三島が俺の右親指を切り落とそうとしたのなら、俺はそれに従うつもりでいた。

それで何か一つ、決着がつくのであれば安いものだ。



沈黙が長引く。

三島が次の言葉を発しようとしない。

それを促そうとすることもできない。

怖いからだ。

この沈黙から逃げ出したいと思った。

だが、逃げ出せば同じことだ。

逃げ出すくらいなら初めからここに来なければよかった。

奥場を噛みしめ、掌の肉が裂けるほどに拳を握りしめその恐怖に耐えた。

いっそこのまま三島に殴ってもらえればどんなに楽か。

この長い沈黙が、三島の復讐なのか。

そうかもしれない。俺なら恐らくそうするからだ。


ああ、寒い。

顏から血が抜けて、手足がしびれる。

一体俺の血はどこに行ってしまったのか。

夏の公園で、凍死体になろうとしている男がいる。

気が付かないだけで俺は三島に腹を裂かれ、血を流して地面に倒れているんじゃないだろうか。

ああ、寒い。

どこかに行きたい。

暑い場所へ。

ここじゃないところへ――――



「……すまなかった。十七年間。お前にそれを伝えたかった」


静寂を破ったのは、三島の優しげな、そしてとても悲痛な声だった。

そこに恨みや怒りなどは一切なく、ただただ俺に対しての謝意が込められていた。


「何故……何故、お前が謝るんだ……?」

精一杯絞り出した声は蚊の羽音にかき消されるような小さな声だった。

喉に、異物が詰まっている。

飲み込めもしなければ、吐き出せもしない、苦い塊だ。


「俺がお前の目玉を潰したのに!なぜお前が俺に謝るっ!!?」




喉に何かが詰まったまま、それでも精一杯に叫んだ。

ただそれだけで喉が焼けるように痛んだ。

それ以上、一言だって言葉を紡ぐことが出来なくなった。

先ほど感じた痛みと同じだ。

俺は、十七年ぶりに自分の声で叫んだのだ。

錆びがボロボロと剥がれ落ちて、その塊が喉を裂いたのだ。

喉だけではない、ただ一言の咆哮が全身を引き裂いていく。

今まで自分を繋ぎとめて何かが軒並み剥がれ落ちて行った。

全身が熱い。

痛みを伴う熱さだ。

知らない熱さではない。知らない痛みではない。

自分の弱さと向き合った時にだけ与えられる炎だ。

その炎を、十七年ぶりに浴びたのだ。


炎は涙になった。

炎は叫びになった。

炎が全身を振るわせた、

次の瞬間には三島に掴みかかっていたかもしれない。

何が何だかわからない。

自分が今どこにいるのか、そんな簡単なことが分からない。

ただ一つわかるのは、今俺は三島という男と向き合っているのだ。

三島を通して、一七年間置き去りにした俺自身に向き合っているのだ。



「俺は!お前に勝つために!お前の目玉を潰したんだぞっ!??そんな俺にお前がっ!!」

『一体なにを謝るのか』、そう叫ぶよりも早く、静かに。三島が言った。


「……俺な。お前に勝ちたかったんだよ。だから、すまなかった」



ただ、それだけの言葉だった、

だがそれ以上は何もなかった。

いったいなにを謝っているのか。

最初に金的を狙ったことだろうか。

その後も何度も急所を狙ってきたことだろうか。

だがそれはお互い様であり、承知の上だったはずだ。

言葉を交わしたわけではないが、それは絶対にそうだったはずだ。


なら、三島が謝る理由など――――


「まさか……」

突如雷撃に撃たれたような衝撃が全身を包んだ。


「……ああ、そのまさかだ」

それを、三島が肯定した。



だが、あり得ない。

そんなことはあるはずがない。

だが、分かる。今ならわかる。

あの時、あの場所で、俺も一瞬思い浮かべた事だったからだ。


『この男に勝つためにはどうすればいいのか』


『反則をしても、勝てればいい』


『手段を選ぶ必要はない』


『なら、勝つためになら』




「……わざと、反則を受け止めたのか?」


「…………」



沈黙が、答であった。

言葉が何も見つからなかった。


目の前の男は、ただ高校生の大会で、一つの試合に勝つために片目を差し出したのだと言っているのだ。

そんなバカなこと、一体だれが信じるものか。

俺以外の誰が信じてやれるというのか。



「……何で、そんなバカなことを」

「俺にもわからん。……馬鹿、だったんだろうな」


そういう他ないだろう、きっと三島だって初めからそう思っていたわけではない。

あの戦いのなかで、何か魔力じみたものに憑りつかれていたのだ。

目の前の相手に勝つために何かをささげても良いと思い、それが空手家の命ともいえる左目であったのだ。


「……ああ、くそ、なんだそりゃ」

「すまん」

「いや、そうじゃねぇ、そうじゃねぇんだ……」

「全く、なんなんだろうな、俺たちは」


馬鹿だ。

大馬鹿野郎だ。

だが畜生、今ならわかる。

俺はあの時、こいつに惚れたんだ。

何をしてでも勝ちたい。

何をささげても負けたくない。

誰にも理解してもらえなかったその感情を、初めて誰かと分かち合えたからだ。

目玉を潰してでも勝とうとした俺と、目玉を潰されても勝とうとしたお前。

多分、一手かみ合わせがずれていたらそれは逆になっていたはずなのだ。


仕様もない奴だこいつは。

俺と、同じなのだ。

よく似た笑い方をする男だったのだ。


「……お前、金持ってるか?」

「財布には二千円が入ってる、カードもな」

「十分だ、この辺りは安いだけの店がいくらでもある」

「飲むか?」

「ああ、飲もう」



一体どちらがどちらの台詞を言ったのか分からない。

だがどちらがどちらでも構わなかった。



蒸すような夜の街を、ジャージ姿の男が二人歩いていた。

周囲には何人もの人間が歩いているが、その群れの中でも男たちは二人きりであった。

男達の周囲にだけほんのわずかであるが空間が開いている。まるで見えない壁がそこにあるかのようだ。

然し時折その壁が柔らかく歪み、それに引き寄せられるかのように人の群れと混じる瞬間があった。



二人で並んで歩いた。

歩く速度が同じだった。

よく似た笑い方をしていた。




嫌な笑い方では無かった。


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[一言] 読み終わった後に何とも言えないいい感じが残る作品でした。 良いです。
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