傘に花咲く夜
傘の花、咲いたの続編になります。
「美味しいビストロがあるんです」
交差点から駅までの10分。
雨の日にいつも鮮やかな傘をさす彼女と、退社してから駅までの時間に挨拶を交わすようになり、少しくらいの世間話をするようになってしばらくたった俺は、その日、初めて彼女を誘ってみた。
「二つ先の駅から15分くらいのところにあるんですが、よければ一緒に行きませんか」
こんな日に限って雨は降っていない。
傘で顔を隠すこともできない。
隣にいる彼女の顔を見るのがこわい。
だから、俺は、なんでもないような振りをしてまっすぐ前を向いたまま話した。
「いいですね、今からですか」
内心のガッツポーズを気取られないようにして、慌てて俺は返事した。
「はい、あ、じゃあちょっと席があるか確認してみます」
スマフォを急いで操作して、店に連絡を入れる。
テーブル席には空きがないが、カウンターなら空いている。
「じゃあ、20分後くらいに二名で席の予約をお願いします」
いつもは路線が違うために駅までしか一緒にいられない彼女と、同じ改札を順にくぐり抜けて同じホームで電車を待つ。
チラリと覗いた彼女は、いつも通りのニコニコした笑顔だった。
「あ、でも私、事務服のままで大丈夫でしょうか」
ふいに彼女が今気がついたとばかりに聞いてきた。
紺色のスカートに同色のベスト。春とはいえまだ冷えるからか、その上に薄いグレーのカーディガンとベージュの薄手のコートを羽織っている彼女。
「そんな気取った店じゃないから大丈夫ですよ」
うん、まあ、紺色のベストがいまいちダサい気がするけれど、それ以外に問題は無さそうな気がする。
初めて彼女と並んで電車に乗った緊張感のまま、二駅なんてあっという間に到着した。
「意外に二駅離れるだけで、住宅街なんですね」
会社のある駅とは違う雰囲気に、彼女は新鮮な驚きを持ったのかキョロキョロと辺りを見回している。
「こっちですよ」
数年前に遭った事故以来、軽く引きずるようになった左脚も今日はなんだか調子がいい。
小さな川沿いの遊歩道を彼女と並んでゆっくりと歩く。
「大分桜も散ってきましたね」
遊歩道沿いの桜並木を見上げた彼女がそう言った。
「そうですね、先週末くらいはここもお花見の人出でにぎわったみたいですよ」
そんな他愛もない会話をしていると、目印にしているコンビニが見えた。
「あのコンビニの角を曲がってすぐなんですよ」
マンションの一階部分のテナント。
観葉植物が並べられ、オレンジの街灯が優しく照らす木製の扉。
周囲にはふんわりと美味しそうな匂いが漂っている。
「わあ、いい匂いがしますねぇ」
「俺のお気に入りの店なんですよ」
木製の扉を引くと、一気に匂いが濃くなる。
よく煮込まれた肉や野菜、香辛料。
厨房の奥からは、何かを焼く音や揚げる音が聞こえる。
「いらっしゃいませ、予約の席はこちらです」
顔馴染みになった店員が、さっとカウンターに彼女と俺を案内する。
「嫌いなものや苦手なものはありますか」
店員に手渡されたメニューを彼女によく見えるように開きながら聞くと、彼女は首を横にふった。
「特に嫌いなものはないです。
あの、よかったらおすすめで選んでください」
彼女のその言葉に、俺はもう一冊のメニューを渡しながら答えた。
「じゃあ、飲み物を選んでください。
ここ、意外と色んなビールが揃っていて美味しいんですよ」
彼女は甘めのベルギービールを選んだ。
俺はいつものオーストリアのビールを選択する。
店員にオーダーを伝える。
パテドカンパーニュ、鴨のリエット、それに季節のテリーヌは菜の花とスモークサーモンということなので、前菜はこの三つで。
メインに鴨のローストと鮮魚のフリットを選ぶ。
「なんか、あまりビストロって行ったことがなかったんですけど意外でした」
「でしょう、俺もここ以外は知らないんですけどね」
オレンジ色の柔らかい照明の下で彼女は微笑んだ。
運ばれてきたビールのグラスを軽く当てて乾杯をする。
最初に運ばれてきたパテドカンパーニュを一口食べて、彼女は破顔した。
「あ、美味しい」
「でしょう、ここの料理、俺の好物ばかりなんです」
鴨のリエットを食べてまた破顔して、季節のテリーヌを食べてさらに彼女はニコニコした。
「ここのテリーヌ、すごく美味しい!」
しっとりした乳白色の生地の中に、鮮やかな菜の花のグリーンとサーモンのピンク。
彼女の持っている傘にも、こんなような配色があったなと俺は思い出す。
先に運ばれた鮮魚のフリットには、緑色のバジルのソースが散りばめられ、別添えのトマトソースを好みで付けて食べる。
カリッと揚がったフリットに歯を立てると、柔らかな白身の魚の香気が口に広がり、鮮やかなバジルの香りも同時に鼻腔を抜けていく。
トマトソースはソースというよりはドレッシングのようで、フレッシュトマトの酸味が揚げ物を爽やかにしている。
「このフリットも美味し過ぎるー」
追加で頼んだドイツビールもあっという間に空になっていく。
そしてもう一つのメイン、鴨のロースト。
しっとりした鴨の身に絡むマスタードソース。
口に入れると、マスタードソースの酸味が広がり、噛みしめると鴨の旨味が口中に押し寄せる。
「うわあ、もうお腹いっぱいになってるのに食べたいが止まらない」
どの皿も、ニコニコして美味しそうに食べる彼女。
もっと食べる姿が見たいなぁ。
「デザートはどうしますか。
ここはムースがとても美味しいんですよ」
「た、食べます」
お腹を押さえながらも、彼女は黒胡麻のムースを選んだ。
食後のコーヒーを飲みながら、彼女が黒胡麻のムースを食べるのを眺める。
「ふわふわで美味しい!なにこれ!
お腹いっぱいなのに食べれちゃう!」
食事を始めてからずっとニコニコしていた彼女。
デザートでさらに目尻が下がってニコニコしている。
楽しいなぁ。
可愛いなぁ。
「今日は俺が突然に誘ったんだから、おごらせてください」
会計で財布を出そうとする彼女を押しとどめる。
「じゃあ、次は私のお気に入りのお店を紹介しますね」
店の扉を開けると、少し雨が降っていた。
「あ、いつのまにか雨降ってきたんですね」
「そこのコンビニで傘を買いましょうか」
少し急いで彼女とコンビニまで歩く。
透明のビニール傘。
二人でビニール傘をさして並んで遊歩道を歩く。
「傘、持ってくれば良かったですね」
傘の好きな彼女にビニール傘。
楽しかった気持ちに、少し水を差された気持ちになった。
今日、誘わなければ傘の好きな彼女がビニール傘なんかをさすこともなかったのにな。
「ふふふ、傘、お揃いです」
彼女が微笑んで傘を見上げる。
隣にいる彼女を見ると、透明のビニール傘に桜の花びらが散りばめられていた。
「おんなじ桜模様の傘ですね」
見上げると、俺のさしているビニール傘にも桜の花びらが散りばめられている。
彼女はニコニコしている。
やっぱりこの人、いいなぁ。
「もっと一緒に色々なところに行きたいです」
思わず言葉が出ていた。
「私も、です」
傘があるけれど、行きよりも近い距離に彼女が並んで歩く。
夜の遊歩道を二つの桜の傘が、寄り添って歩く。