第一幕2『分析』
それではここで、この家の内部構造について振り返ってみよう。
玄関を経由して、まずは広間に入ることができる。向かって正面、その中央には二階への階段。そして階段の両脇からは奥へ進んでいける。
右側には食堂があり、台所と一続きになっている。一般家庭では普通のことなのだろう。もっとも、エミリアの居候先であるロズワール邸は一般家庭とは程遠いのだけれど、それはさておくとして。
そしてここからが、衛兵たちの到着を前に探険したことで得た情報となる。
まずは階段の左側。そちらには洗面所があった。水道の原理について、スバルがやけに興味を示していたけれど、これもさておく。
洗面所が、その部屋に入って左側にあり、奥は浴室であった。中は覗いていないけれど。そして右側には、収納に用いられる空間がある。脳裏に思い描くとわかるように、ちょうど階段の下の空間だから、そのためだろう。
一部屋戻って、広間の階段を上ると廊下に出る。衛兵たちがグリフィスの屍体を運んでいったことから、前方の左半分がおそらく彼の部屋。右半分は、物置だろうか。
廊下は階段の途切れたところから左右へと広がり、壁に突き当たったところで部屋とは反対側に折れる。折れた先は吹き抜けとなっていて、広間を見下ろすことができた。貴族の邸宅と様式が似ているのには、この家の由来が関わっているのかもしれないが、詳しいことはわからない。
吹き抜けの部分を抜けると、廊下は部屋に突き当たったところで折れ、再び左右から合流する。そこに面する部屋は、広間を挟んだ反対側の部屋より幾分か小さく、みっつであった。それら三部屋の窓はすべて塞がれている、というのはあとで聞いた話。向かって左の突き当たりがハーシーの部屋である。
スバル曰く、一階は『Y』、二階は『ロ』の形に近いらしい。例のごとく、なんのことだかよくわからないけれど。
そしてハーシーの部屋の反対、向かって右側──そこが、チェイスの部屋だった。
◆◆◆
「前もって宣言しておきますが、僕に、ハーシーのようにグリフィスさんとの出会いを話すつもりはありませんよ」
スバルたちがハーシーとの事情聴取の模様を話し終えると、チェイスはそう言い放った。否、本人の言葉どおりそれは宣言なのだろう。
「いや、別にそこまで詳しく訊くつもりはないけど……。けっきょくのところ、事情聴取の目的は事件解決だけだから。出会いまでわざわざ遡るのなんて浮気調査の私立探偵くらいじゃないか?」
あ、今のは別に私立探偵を馬鹿にしてるわけじゃないから、とスバルは弁解して、
「ともかくそういうことで、事件当日──つまりは今朝から今日の昼頃までのあんたの行動を聞かせてもらおう、と言いたいところだけど……その前に一応訊いておきたいことがある」
「なんでしょう」
「まずひとつ」
と、人差し指を伸ばして構えつつスバルは訊く。
「どうしてあんたはハーシーとの事情聴取の内容を知りたがったんだ?」
彼女との事情聴取を終えたエミリアたちを廊下で出迎えたチェイスは、彼自身の部屋にエミリアたちを連れてくると最初にそれを聞きたがった。
スバルはなにも言わずに答えていたけれど、内心では彼も疑問を持っていたらしい。
「ハーシーの様子は商い通りにいたときからだいぶ不安定になっていましたからね。事件について尋ねられることで、それが決定的に崩れてしまうのではないかと不安になりまして」
「なるほどな」
気のない返事をするとスバルは、「なら、ふたつめ」と中指を立てる。
「実のところは、知っておきたいことは主にこっちのほうなんだけど。あんたはグリフィスのことをどう思っていたんだ──否、どう思っているんだ?」
「それは、言ったでしょう?」
静かではっきりとしたチェイスの返答は、彼の思いが明確であることを感じさせた。
「グリフィスさんは、僕の恩人です。彼は僕を救ってくれた。それがどれほどの苦痛の中でのことなのかを言うつもりは、前述のとおりありませんが。少なくとも命を捨てても構わないと思うくらいには、感謝の念を抱いています」
「じゃあ、犯人についてはどう思う?」
指を下ろしながら、間髪入れずにスバルは次の問いを発する。
「……それも、言ったと思いますが」
チェイスはそう応じたけれど、その言葉とは裏腹にわずかな間があった。その点では、彼の思考は固まってはいないのかもしれない。
「今はまず、グリフィスさんを供養することを考えたいのです。犯人への行動は二の次、といいますか──」
「そういうことじゃなくて、もっとこうなんていうか、精神的にどう思う?」
「精神的に、ですか」
「今の答えは肉体的っていうか、あくまでどう行動するのかを示しているだけだろう? そうじゃなくて、たとえば犯人のことを憎んでいるか、とかさ」
「憎んで……」
意外という感情をその顔に浮かべて、チェイスは黙考に沈んでいく。憎しみという概念は彼の思考の埒外にあったのだ。
おそらく、ハーシーとは別の形で彼の心もまた傷ついていたのだろう。
憎悪の感情を抱けないような状態。視野が狭窄している、とでも称すればいいのか。
「……なるほど」
しばらくして、チェイスは頷いた。
「憎んでいる──というわけではないように思います。諦め、という言葉が近いでしょうか。死んでしまったのならしかたがない、とでもいえばいいのか……。なんのことはなく、僕にとっての恩人は『生きている』グリフィスさんでしかなかった、ということなのでしょうかね?」
「さあ、どうだろうな」
「ですが、エイブリーやハーシーがどう思っているかはわかりませんし。もし彼らが犯人を捕まえたいと言うのなら、できる限りの協力を惜しまないつもりではいます。──こんなところで、よろしいでしょうか?」
「ああ、充分だよ」
──さて、と呟きスバルは姿勢を正す。
「それじゃあ、本題に入ろうか。事件直前までのあんたの行動について」
「それについては正直なところ、僕のほうから改めて言うようなことはあまりありませんね……。大抵のことはハーシーが答えてくれていますから」
「あー、それもそうか」
スバルは、なにかに納得がいった、とでもいうような顔で首肯して語り始めた。
「こういうことを当人の目の前で言ってもいいのかわからないけどさ、この事件はだいぶ奇妙な部類に入ると思うんだよな」
「奇妙、ですか」
「奇妙っていっても、珍奇なものだってわけじゃなくて、世界中ではいくらでも起こっているし、ときどき題材にもされているんだろうけど」
要は通り魔殺人的な感じなんだよ、とスバルは言う。
「実際には異なっているとしても、現時点ではこの事件が呈しているのはそういう様相だ。通りすがりの仮面ライダーならぬ通りすがりの殺人者が、すれ違いざまに切りつける、みたいな」
「ですがそれでは、凶器の氷柱はどうなるのでしょうか」
「そう、そこが問題だ」
またもや繰り出された、意味のわからない『仮面ライダー』という言葉には全く触れないチェイスの疑問。それを受けたスバルは、我が意を得たりといわんばかりの表情を浮かべた。
「通り魔事件と分類して考えてみると、凶器の氷柱は実に不自然だ。エミリアの分析のとおり、あの氷柱をああいうふうに突き立てるのは難しい。すれ違いざまだなんて、論外とすらいえるかもしれないくらいに」
つまりさっきの、この事件が通り魔事件的だっていう考えは間違っている、とスバルは端的に自説を否定する。
「では普通の事件かっていうと、それも違う。というかそもそも普通という概念の定義を問えばあっという間に論争が勃発してしまうから、正確なことは言えないけどさ。そのことを加味しても、これは普通の事件じゃないだろう」
普通といってもいろいろあるわけだけどさ、とスバルは苦笑した。
「たとえば密室は、本格推理とか本格ミステリとか呼ばれる業界ではありふれているけど、現実ではそう頻繁に起こることじゃない。容疑者全員に完璧なアリバイがある、なんていうのも、刑事ドラマなんかだとよくある設定だし、これは現実にもあるかもしれないけど、実際にアリバイトリックを仕込むような犯人はそう多くはいないだろう」
密室、ミステリ、アリバイ、ドラマ、トリック、と。わけのわからない言葉を多用されてエミリアたちが戸惑っているうちに、「ともかく」とスバルは話題を戻す。
「この事件は、そういう事件でもない。
少なくとも正統派な密室じゃなくて、アリバイが成立するような状況の容疑者もいないからだ。別の『普通』という観点から考えると、たとえば『カッとなってやった、後悔は云々』ってやつがある。当然、これは全く違う。その場合は凶器が鈍器っていうのが定番だしな」
怒りに我を忘れて、ということだろうか。
「したがって、だいぶこの事件は特殊だ。とはいえ、ある種の密室だとも考えられなくもない。いわゆる衆人環視の密室ってやつの、派生とでもいえばいいのか。まあこの話は、あまりにも脱線しすぎるから割愛しよう。──そういうわけで、問題なのは」
関係者が一箇所に集まっていたことだと、スバルは断言した。
「証言者がひとつの場所に密集していたために、多様な視点からの証言を得られない。おまけに事件が起きたのは移動中──それも徒歩で移動しているときだ。これが馬車だとか、そういう乗り物だったならともかく、徒歩じゃあ会話はあまり捗らないだろう。たぶん。よって、被害者の様子が事件直前になにかしら変わっていても気づきにくい」
「つまりそれが、僕に証言できることはほとんどハーシーに言われてしまっている、ということに繋がってくる……というわけですか」
「要はそういうことだ」
頷くスバルが長々と語り続けていたのは、そういう意図の下だったらしい。けれど、それを理解したくらいでは事態は動かないのではないだろうか。
「では、 けっきょく僕はなにを答えればいいのでしょうか? 理由がわかったところで、僕の証言とハーシーのそれが同じだということは変わらないでしょう」
チェイスが懸念を口にするのに対して、スバルは肩を竦めた。
「まあ、それもそうなんだよな……というわけで、チェイスにはハーシーの証言に間違ったところがないかを確認してもらう形になる。幸いにも、事情聴取の様子は最初に話していることだし」
「間違ったところ、ですか……。特になかったように思いますが」
「じゃあ、ひとつずつ確かめていこう。──まず、えーっと、火の刻から水の刻に切り替わる頃……でいいんだよな? そのときあんたらは、昼食をとっていた。その食堂の名前が──」
と、スバルはハーシーが言っていた食堂の名前を告げて、
「──っていうところだった。間違いないな?」
「ええ」
チェイスは簡潔に首肯する。
「それで、食事にかかった時間が一時間くらい、と」
「はい、まあ……おそらくは」
「そして昼食を終えると、帰路についた」
「そうです」
「グリフィスが死んでいるのに気づいたのは、どういう状況だった?」
「…………」
わずかに言葉を詰まらせると、深呼吸をしてからチェイスは語り始めた。
「食堂を出ると僕たちは、この家へと向かって歩き出しました。先頭はグリフィスさん、その隣にエイブリーが並び、ハーシーと僕が後ろからついていくという形です。そうしてしばらく歩いていて、なんとなく視線を横に向けました。……あるいは、少しまばたきをしたのかもしれません。とにかく、一瞬意識をグリフィスさんのいる方向から逸らしたとき──その一瞬で、氷柱はそこに突き立てられていました」
本人やスバルの言葉どおり、内容はほとんどハーシーのものと同様である。細かな表現の違いはあるけれど、それだけでしかない。
「それを目にした途端に、ハーシーが……悲鳴をあげたかどうかは曖昧ですけれど、ふらふらっと、こう、倒れそうになりまして。彼女を慌ただしく支えながら、野次馬が集まってくるといけないので、少し後ろへと下がりました」
そこで言葉を切ると、チェイスは目を伏せた。続く声の調子も幾分か沈んでいる。
「……今思えば、あのときの行動が正しかったとはいえないでしょう。ハーシーが気絶していたとはいえ、グリフィスさんの屍体の傍を離れるべきではなかったはずです。結果論でしかないのかもしれませんが。そのせいで、衛兵さんやエミリアさんにも迷惑をかけてしまったわけですし」
「別に、迷惑などとは思っていませんよ……当然の職務でしたから」
「また、ハーシーの意識もすぐに覚醒しましたから。そこでグリフィスさんの身内だと名乗り出るのではなく、これからのことを考えるなんていう名目で話し合っていたのが、一番の間違いだったのでしょう」
ともあれ、とチェイスは意識を切り換えるように呟くと、
「その後衛兵さんが到着し、エミリアさんが名乗り出て、探偵さんが割りこんで──という流れになっていったわけです」
「なるほど。……本当に、ハーシーの話とほとんど変わらないな。せいぜい、彼女が気を失っている間の話を聞けたくらいか」
「ええ、まあ」
「ふむ……じゃあ、最後にひとつ」
互いに苦笑を交わし、呼びかけにチェイスが頷くのを見てとると、スバルは改めて問うた。
「今日、グリフィスの様子におかしいところはなかったか?」
ハーシーに放たれたものと寸分違わない問い。それを受けるチェイスの対応は、しかしながら──あるいは当然というべきか、ハーシーのものとは異なっていて、
「そうですね……そういえば」
わずかに考える素振りを見せはしたものの、
「足を捻挫していたような気もします」
わりとあっさりとチェイスは言った。
「理由について訊いてはいませんが、いつもより歩きがぎこちなかったと思います。屍体を見てもわかるかと思われますが、彼はかなり身体を鍛えていましたからね。普段の動作がきびきびとしていたぶん、余計に目立っていましたよ。若干、前傾姿勢になってもいたような……。ですが、それがなにか?」
「いや、たいしたことじゃないよ。なにか参考になることでもあったらラッキーって程度の話だ」
会話に区切りを入れると、スバルは立ち上がった。これで事情聴取は終わり、ということだろう。彼に倣ってエミリアも席を立つ。
「というわけで、これにてお暇させてもらうよ」
「諒解しました。──健闘を祈ります」
「俺に任せておけ──なんて確約はできないけど、できることは可能な限りやらせてもらうよ」
短く言葉をかけ合って、スバルは振り返ると扉へ歩いていく。椅子は──小さめのものを借りて持ち運んでいるのだけれど──シャルガフが、また持ってくれるようだ。その気遣いに甘えながら、スバルは扉を引いた。
廊下に出る。向かうのは、すぐ隣にある部屋──すなわちエイブリーの部屋である。