幕間『捜査の始まり』
それは、お世辞にも豪華であるとはいえない建物だった。
周囲の建築物と同じような二階建てであり、目視した限りでは木造。一応清潔にされているようには見えるけれど、壁が日に焼けて変色しているためかみすぼらしさは拭えない。
もっとも、周りの家も似たような調子になっていることを鑑みると、この建物が格別質素だ、というわけではないのだろう。この辺りの土地柄である、といえるかもしれない。
この辺り──すなわち、貧民街の。
「ここが、俺たち──つまりグリフィスと、俺を含めて今ここにいる三人が住んでいる家だ。……いや、正確には住んでいた家、だけどな」
エミリアたちを先導していたエイブリーは、そこで立ち止まり振り返ると、どこか寂しげにそう言った。
改めて見てみれば、彼の服装は屍体が身につけていたものと同様に、清潔というよりは小汚いという言葉が似合うようなものだ。もちろんハーシーやチェイスのものも同じくそうであり、おそらくは彼らの生活の影響を色濃く受けているのだろう。
「ふむ……ここがそうなのか」
一方で、エミリアの隣に立っているスバルは呟く。
探偵──そう名乗った少年は、初めての場所を訪れた子供のように視線を彷徨わせていた。否、実際に彼がこの地域に足を踏み入れるのは初めてのことなのだろう。彼はまだ、この王都ルグニカに到着したばかりだというから。
ただし、貧民街に入るのが初めてだという点では、エミリアも彼と同様だった。彼女の場合は、王都を訪問してもこの辺りに足を運ぶことがないというだけだけれど。
「まあとにかく、さっき話し合ったとおり──事情聴取は、ここで行うってことでいいんだよな?」
「……ああ」
確認のために放たれたスバルの問い。それに渋い表情で答えるエイブリーの傍らでは、ハーシーとチェイスが黙って首を縦に振っていた。
「なら、ここで突っ立ったまま、っていうのもなんだし……上がらせてもらっても構わないか?」
「別に構わねぇよ」
今度はぶっきらぼうに、エイブリーは答える。その声音からは、この家は彼らにとってのある種の聖地である、ということを読み取ることができた。
聖地、つまりは穢されるべきでないもの。彼らとグリフィス──屍体の、思い出の地。ここは、そういう場所なのかもしれない。
もっとも、だからといって犯人を突き止めないという選択肢は、彼らにはないのだろう。
「まあシャルガフが戻ってくるまでの間ではあるけども、しばらくはのんびりさせてもらうとするか」
そもそもの話。
どうしてエミリアたちがここを訪れたのか、という話をするには、しばらく時間を遡る必要がある。
◆◆◆
「さて、そうなるとまずは事情聴取ってやつをしないといけない」
凍りついた空気を振り払うかのように、少年──ナツキ・スバルはそう言った。
その原因は彼自身の気どった名乗りにあるのだけれど、スバルはそれには気づいていないようで、
「その前に一応確認しておきたいんだけど……本当に、俺がこの事件の捜査に加わってもいいのか?」
「はい、もちろんです。さきほども申し上げたとおり、私にはこのような事件の経験が全くありませんからね。犯罪の専門家であるというあなたが──探偵が、捜査に参加していただけると幸いです」
あれだけ口を挟んでいながら今更そんなことを言うのだろうか、という意見も出た。けれどスバルの言うことには、「ただ口を挟むのと、直接的に捜査に関わるのでは全く違う」、ということらしい。
そういった機微は、よくわからない。
「けど──『探偵』っていったって、俺なんかはまだ見習いみたいなものだぜ? 年齢からもわかるだろう。おまけに、最近はほとんど家から離れていなかったから碌に事件に関与していないしさ」
「……それは、なんだかわかるような気がしますね」
確かに、スバルの手には傷ひとつない。普通、なにかしらの仕事をしているのならば擦り傷くらいは負うだろうから、彼がなにも仕事をしていないというのは本当だろう。
それが、家を離れていないということをも示すのかはわからないけれども。
ちなみに、手に傷がないという点ではエミリアもスバルと同じである。
「ともかく」
仕切り直すように口を開くと、スバルはエイブリーたち──被害者の知り合いのほうを向いた。
「話が逸れたけど、まずは事情聴取ってやつを行う必要があるんだよ。あるんだけど、どうする?」
「……どうする、ってのはどういうことだよ」
他の二人と顔を見合わせた後、おそらくは代表してエイブリーが問い返す。
見た目では彼がもっとも年長に見えるので、そのためだろうか。
「つまり、場所のことだな。なんでか、今はこんな観衆のど真ん中みたいなところで話しているけど、流石に事情聴取をそんな中やるわけにはいかないだろう。だから、どうする? ってわけさ」
「一応、衛兵の詰め所を利用することはできると思いますけれど」
スバルが訊き、シャルガフがそれに言い足す。しかしエイブリーは首を振り、拒否した。
「悪いが、それは無理だ。俺たちは貧民街に住んでいるんだよ。あそこで生活する以上は、意思の有無に関わらずなにかしらあくどいことをせずにはいられないからな。まあつまり、俺たちには後ろ暗いところがあるってわけだ──特にグリフィスにはな」
肩を竦めると、エイブリーは続ける。
「だから衛兵の詰め所に行くなんてことは無理だぜ。あんたはそこまで細かく罪を追及しない──というか、……なんて言えばいいのかわからねぇけど、とにかく、あんたなら信用できるような気がする。でも、衛兵詰め所は無理だ」
「……なら、どうするんだ? 衛兵詰め所がダメとなると、たとえばそこらへんの料理店、とか──」
「だから、俺らの家しかねぇよな」
スバルの疑問を遮って、エイブリーは迷いなく言い切った。
「それがいいだろうさ。そうすれば、あんたらもグリフィスのひととなりってやつを理解しやすいだろうし──遺体を弔ってやることだって、できる」
「あんたがそれでいいっていうのなら、それで構わないけど。でも、あとの二人はどうなんだ?」
「──僕は構わないよ」
先に返答したのは、チェイス──なにも言うことなく話し合いを見守っていた、青髪の青年だった。
「僕にはグリフィスさんに対する恩があるから、屍体を供養できるのならばそれでいい。少なくとも僕は、犯人を見つける必要があるとは思わない。あくまでも僕は、だけれどね」
穏やかに微笑を湛えたチェイスがそう言い終えると、自然と視線は残るハーシーへと向かう。
それに堪えかねてか顔を背けながらも、
「……それで、グリフィスさんを殺したやつを見つけられるなら」
はっきりと、殺意のような憎悪のようなものに染められた声で、彼女は断言した。
「話が決まったようですので、私はいったん詰め所に連絡をとろうと思います。遺体を供養するのなら、運ぶための応援を呼ぶ必要がありますしね」
唐突に口を開きながら、シャルガフが袖口から手鏡を取り出す。おそらく対話鏡だろう。手に持てる大きさのものは貴重だけれど、衛兵ならば備品があってもおかしくない。
「でも、衛兵がいないのに事情聴取をするってのはだいぶまずいんじゃないか?」
「ええ、ですからナツキさんにはさっそく協力をお願いすることになりますね」
「いや、流石に俺だけで事情聴取するつもりはないぜ? あんたが到着するまで見張ってる、ってくらいだ」
「わかりました。では、できるかぎり着けるようにしましょう。それまではよろしくお願いします」
「諒解したよ」
そうして段取りが決定されていった。
シャルガフによればここから衛兵詰め所までは水の刻の十二等分ほどの距離であり、エイブリーの話では、彼らの家もここから同じくらいのところにあるらしい。ただし、彼らの家と衛兵詰め所はほとんど反対といえる方向にあるので、それらの間の移動にはその二倍ほどかかるとのこと。
「つまり、今からおよそ一時間後に集合ってわけだな」
シャルガフとの会話を経ると、まとめるような口調で、しかしわけのわからないことをスバルが言った。
『一時間』とはなんだろう、とこの場の誰もが思っただろうけれど、その前に彼は口を開いて、
「ところで──」
エミリアに問いかけてくる。
「──君はこれから、どうするんだ?」
「……私は」
沈黙する。
わずかに迷って、少しの間考え込んでから、ゆっくりと、搾り出すように、
「できるなら協力したい、かな」
魔術が得意なひとはいないんでしょう? と問うて。
「なら、ちょっとは関わっちゃった私が、協力しないといけないと思うから」
傍から見ても迷いながらだとはっきりわかる言葉だったけれど、それでもスバルは嬉しそうに笑った。
「それは助かるよ。なんせ俺は、魔術のことなんか全然知らないからな」
「ではしばらくの間、エミリアさんには魔術の専門家として協力していただくことになりますか」
「だろうと思う。まあ、君にその気があるのなら、だけどさ。もしそうだったら──」
そしてスバルはその手を差し伸べた。
「──よろしくな」
「うん、よろしく、スバル」
エミリアも、その手を握り返す。
こうして、エミリアたちは貧民街を訪れることとなった。
◇◇◇
そして。
◇◇◇
道中にさしたるできごとはなかった。
強いて言うのならば、途中でスバルがなにもないところで転んだこと──本人は「眩暈がして」と言っていた──だとか。
あるいはスバルが、よくわからない方向に視線を向けて棒立ちになっていたこと──本人は「いや、これはモフリストとしての宿命であり……」などと呟いていた──だとか。
そんなことがあったかもしれないけれど、些細なことである。そう思いたい。
別に、周囲の薄暗さが相まって表情を見られずに、本当に彼を信用していいのかを思い悩む人などいなかった。
閑話休題。
室内に入っても、その家は外観と大きく異なる様相を呈してはいない。その見た目と同じく、綺麗だというわけではなければ汚いというわけでもなかった。
入るとまず目につくのは──扉だけである。おそらくは居間と玄関とを隔てるものだろう。沓脱ぎもあるにはあるが、多くの家々と同じようにあまり目立たない。
曲がりなりにも貴族であるロズワールの屋敷と比較してはいけないかもしれないから、特に派手な装飾品がない、ということだけを述べておく。
家主たちが靴を履き替えて入っていき、エミリアたちも彼らに倣う。エイブリーが扉を開くのに続いて中に入ると、推測どおりそこは居間だった。
否、居間というよりは広間というべきだろうか。向かって中央に二階へと続く階段があり、両側には奥への扉がある。階段の一段目辺りの上方には、大きなシャンデリアが吊られていた。
そのまま、エイブリーはすたすたと扉──向かって右側のものへと歩いていき、その中に入っていく。
食堂、と呼ぶべき部屋である。その名に違わず、空間の真ん中には食卓があるけれど、そこまで大きくはない。手前の下座と反対側の上座に一席ずつ、その間に二席ずつが配置されている。
「まあ、あの衛兵が応援を連れてくるまではここでのんびりしといてくれ。──俺はグリフィスの遺品の整理をしてくるから」
「あ、ならアタシも」
立ち止まって言うや否や、振り返るとエイブリーは歩き去っていった。賛同を示して、ハーシーも彼を追う。
「…………」
「──では、僕も手伝いをするので、失礼します。ごゆっくりどうぞ」
困惑して黙り込むスバルを尻目に、礼儀正しく一礼したチェイスもまた、部屋を去った。階段を上っていく足音がかすかに聞こえていたものの、それもやがて雲散霧消する。
そしてふたりだけになった。
「…………」
「…………」
「……行っちゃったね」
あたりに落ちた沈黙を破るかのようにパックが呟き、エミリアの肩に乗る。それをスバルは驚いたように見つめ──その瞳がパックを見て輝いているのは、気のせいだろうか。
そうして、シャルガフが戻ってくるまでの、スバル曰く『三十分』が過ぎていく。
スバルにパックを紹介して、魔術やら精霊やらについての基礎知識の話をしたり、軽く探検をしたりしているうちに、それは消費されていた。
そして、シャルガフ──衛兵が、仲間を連れてやってくる。
事情聴取が、始まる。
備考として。
・陽日は午前、冥日は午後にあたります。
・風の刻は陽日零時から六時、火の刻は陽日六時から十二時、水の刻は冥日零時から六時、地の刻は冥日六時から十二時を意味します。
これらは原作で提示されている情報です。