序幕2『衛兵』
王都ルグニカの下層においては、ちょっとした犯罪、いわゆる軽犯罪と呼ばれるものは日常茶飯事である。
毎日のように通りで起こる盗難騒ぎ、頻繁に発生する乱闘、夜毎に街に現れる酔っ払いなど、挙げていけばきりがない。
多くの衛兵にとっては、それは慣れ親しんだ日常に過ぎなかったという。
犯罪が行われるということは誰かが傷つくということである。
しかし大抵の事件は──特に恐喝は、衛兵には知らされることが少ない。現状として、王都下層で発生する多くの事件のうち衛兵の手によって解決出来ているものはあまりないという事実があるが、解決しようにも、知らないものには関われないのだ。
暴行や苦痛に対する恐怖を思えば、それも仕方ないのかもしれない。通報に対する報復を恐れる気持ちを、考慮しない訳にはいかないからだ。それでも、苦しむ誰かを十分に助けられていないという現状を気に病む者は多い。
彼もまたそんな衛兵の一人なのだ、と──
のちに彼──シャルガフという衛兵は、そうエミリアたちに語った。
◆◆◆
殺人事件。
その報を聞いたシャルガフが考えたのは、信じられない、ということだったそうだ。
というのも、王都ルグニカにおいて殺人とは稀有なものだからである。
前述のとおり、いわゆる軽犯罪と呼ばれるものは多くある。それは確かなことだ。が、話が殺人、すなわち重犯罪にまで及ぶと、そういうことにはならない。
そうはいっても、殺人自体は行われている。遺憾ではあるが、そのことは衛兵の側も把握していた。ただし、それを直に目にしているのは一部の衛兵だけだ。
つまり、路地裏でのできごと──犯罪だけでなく単純な口論などを含め──を担当している衛兵である。
要は場所が問題なのだ。
今まで衛兵たちが認識してきた殺人は路地裏でのそれが主である。よって、殺人事件と呼ばれうるものを経験しているのは、そちらを担う衛兵だけであった。
対して、この度殺人があったというのは商い通り。
──路地裏どころではなく、表のど真ん中である。
そして、その報を受けたシャルガフは当然、表の担当者の一員であり。もちろん、裏路地での殺人を知らない。
というわけで、信じられない、とシャルガフは考えたのだが。
その知らせを運んできたのが信用のおける部下だということもあり、疑いの余地はなかった。
ともあれ、殺人事件である。
未経験の事態であるため手探りの対応となってしまうが、まずシャルガフは尋ねた。
なぜ、それが殺人だと判断されたのか。
「それは簡単なことらしいです」
部下が応じる。先刻連絡されたばかりだという彼の口調に、しかし迷いはなく、事実を的確に把握していると推察された。
「遺体は背中を刺されて亡くなっていた。故に他殺、というわけだそうで」
「なるほど、確かに明解ですね」
頷ける話だった。普通は背中を自分で刺すことはできず、事故で刃物が背中に刺さるということも考えにくい。自殺と事故は考慮から外れ、残るのは他殺である。
「現場にそれほどの混乱はないようです。屍体を目撃したことの衝撃で卒倒した人は数人いるようですが、大きな問題にはなっていません。近隣の人々が遠巻きにしていることが抑止となっているのでしょうか、遺体に近づいたり触れたりする者もいないそうです」
続いて事実を確認する。どうやら危急性はないようだ、とシャルガフは判断した。けれども、いつまでもそれが持続するわけではないだろう。
「では、私は現場に向かいます。時間が経ったら連絡しますので、対話鏡の用意を。応援もあとで幾人か呼ぶかと思われます」
「わかりました」
業務連絡に敬礼で応じられる。対話鏡を持っていることを確かめ、シャルガフは部屋を出た。
そんな経緯で、衛兵は詰所を離れて現場へと向かったのだという。
◆◆◆
シャルガフの歩みに合わせて、彼の前方にいる人物が道を空けてくれていた。
それは賜物だった。
着任以来忠実に衛兵としての職務を果たしてきたシャルガフへの、信頼と親愛。
そうした言葉で括ることもできるだろうけれど、つまりそれは礼である。
普段この通りは腕を伸ばすのにも苦労するような混雑であるため、シャルガフの側もまたその配慮に感謝していた。つまり相互に利益があるのだ。
が、それはさておき。
「ようやく、到着ですね」
視界に飛び込んでくる人だかり。その中心にあるだろう屍体を想像しながら、シャルガフは静かに声をあげた。
「──少し、通していただいても構いませんか?」
その声に応じて道を空けてくれる人々に礼の言葉を述べつつ、シャルガフは足を動かしていく。
そこにはひとりの男が倒れていた。
静かに深く息を吸って、シャルガフはその男の方へと近づいき、ゆっくりと彼の首筋近くに屈みこんだ。そうして脈を取る。
亡くなっているのは、確かだった。
「……さて、と」
一応の確認を済ませ、次の仕事に移る。
まずは屍体を検分する必要があった。
とはいえ、シャルガフには人の身体についての知識があまりない。そのうえ屍体のこととなると、ほとんど、といえるほどに知らない。
よって、とりあえずは身元の確認だろうか。
身分、身元、名前、住処、と。表し方はいろいろあるものの、つまりは『この屍体が誰のものなのか』ということ。
それが判らなければ、この事件の犯人を捜すことは難しい。事情や動機がわからず、容疑者もいないからだ。
供養をする場合にも、親族などがわからなければ若干のやりにくさがあるだろう。
「屍体を直接凝視するという行為には、言葉にしがたい恐怖感のようなものがあるのですが」
独りごちて、屍体の冥福を祈りながらそれと向き合う。
まず初めに目に入るのは、その珍しい髪色だろうか。夜闇や鴉の濡れ羽のような深い黒色の、短く刈られた髪だ。
体つきはがっちりとしていて、鍛えあげられた筋肉がそれを覆っている。同様に鍛えられた腕や足は平均よりも幾分か太く、それを見るものには頼もしさか恐怖のどちらかを与えるだろう。
衛兵という身分のシャルガフとしては、特に前者に当てはまるよう鍛錬をしていきたいと思えるような、見事な鍛え具合である。ただ、そこに若干の傷痕が残されているのが気になるところだった。
服装はお世辞にも小綺麗だとは言えず、どちらかと言えば小汚いという言葉が似合う。
角ばった顔立ちは整っていると同時に厳つい。野蛮であるとも、野性的で力強いともとることができるだろう。
その瞳の色は紅い。まるで血のような、真紅ないし深紅とでも呼べるような色だ。そのうえで、深い憎悪や憤怒を宿しているようにも、悲哀を抱いているようにも感じられる。
総じて、ありふれた容貌ではない男だ。
ルグニカでは黒髪は珍しく、黒髪紅眼となるとなおさらで、ほとんどいないと言っても過言ではない。彼のような人が通りにいれば、多くの好奇の視線を浴びせられただろうと思う。
彼を普通の人間として見るのなら、わかることはそれくらいだろうか。
しかしながら、今の彼の身分は屍体である。
腕や足はいまだに、わずかな痙攣を残している。その手は虚空に向けられ、何かを握ろうとでもしているかのようだ。
その身に纏う衣服の一部は、雨に降られたかのように血に濡れた状態。
彼の特徴の一つである紅い眼は、見開かれている。それが恐怖のためか、それとも苦痛のためなのかはわからないが。
そして、その反られた背にはそれが突き立てられている。彼の身体を刺し貫くことで血に濡れたそれが。通りの中央に残された屍体という異常性の、そのうえでもなお異彩を放つそれが、突き立てられている。
「最初に目にしたときから気になってはいたものではありますが……」
見るからに異質で、温暖な気候のルグニカでは見られないもの。彼の記憶や知識が正しければ、よほど寒冷な地域でなければ見ることができなかったはずのもの。
そんなものが、そこにあった。
すなわち、
その屍体の背中には氷柱が突き立てられていた。




