第二幕1『二日目、早朝』
屍体にはナイフが突き立てられていた。
間違ってもそれは氷柱などではなく、なんの変哲もないいたって普通のナイフである。垂直に貫かれた状態でわずかに血に濡れ赤く染まっているのも、ナイフ──つまりは刃物の用途を思えば普通だといえるだろうか。
屍体はうつ伏せに横たわっていた。
商い通りの屍体と同様に背中をナイフで貫かれている。異なるのは、顔もまた横たわっていることだろうか。苦痛のためか上向いていた商い通りの屍体とは違い、顔は横を向いている。
屍体はさほど広くない部屋にあった。
壁に寄せられた寝台、横づけにされた机、そこに乗っているぬいぐるみ。机には見知らぬ皿があり、椅子は寝台の傍に転がっている。記憶違いでなければ、寝台などの反対側には棚があったはずだけれど、今はそこにはない。
しなやかな肢体、上質とはいえない衣服。金髪に近い黄色の髪が、瞳の閉じられた死に顔に映えている。それは、そんな女性──すなわち、ハーシーの屍体だった。
とはいえ、それは大きな問題ではなく。
屍体から視線を移す。ハーシーの屍体が横たわる部屋の中央から、部屋の入口──扉の付近へと。
内開きの扉は、その背あるいは表をこちらに向けていた。その面についているのは複数の傷だ。そして扉と反対の壁には、見覚えのある棚が寄せられている。
シャルガフの話によると。
朝になっても部屋から出てこない彼女を心配して、声をかけたものの反応はなく、扉を開こうとすると開くことができなかったのだという。
そのために、彼は訝しんだ。なぜなら、スバルの事情聴取に同行した際に確認していたからだ。
この部屋の扉には、鍵がついていないということを。
その懸念を男ふたりに伝えると彼らは慌ただしく扉を叩き始め、かなり大きな音を出したけれどもハーシーは起きてこない。
どうやっても扉を開くことができず、しかたなく最後の手段をとることになった。いわゆる体当たりである。
そしてシャルガフたちは扉を破った。防壁として使われていた家具──見る限りでは、ハーシーの部屋の棚らしい──は、無理矢理押し退けてから動かしたという。
その果てがこの状況、ということになるのだけれど。
「つまり、あれだな」
状況を黙して確かめ終えると、スバルは静かに口を開いた。
「──どうやら、これは密室殺人ってことらしい」
◆◆◆
その男がエミリアたちの泊まっている宿を訪れたのは、朝早くのことだった。
エミリアたちがちょうど朝食を食べ始めようとしていたときのことだ。
彼女は日課である微精霊との契約の儀式を済ませ、室内へと這入ってきていた。ラムとスバルは、食堂で雑談をしていたという。彼女らと挨拶を交わしながらもエミリアが席に着き、軽く話をしようとした矢先だった。
玄関のほうから、何かが破裂するかのような音が響き渡ったのは。
あるいはそれは、炸裂音と呼べたかもしれない。どう形容するのかはさておいて、実際のそれは扉が開け放たれる音だった。否、蹴破られたという言葉のほうが事実に即しているだろうか。つまりそれは、扉を突き破るようにして宿に這入ってきた人物がそれほど焦っていたということの証明に他ならないのだけれど。
その人物がどういう立場にあるのかは、エミリアたちにはたやすく想像がついた。見覚えのある風体だったからだ。金属製で装飾の少ない、鎧としか表せないようなそれは、衛兵の制服であるはずだった。
「──失礼ですが、ナツキ・スバル様はどちらでしょうか」
すでに起き出していた宿泊客も姿を現し、呆気にとられて見守っている中で。
その男性は、扉を開いたときの轟音からするとかなり急いでいただろうに、全く声を枯らすことなく口を開いた。
「えーっと、俺がナツキ・スバルだけど──」
客たちの合間を縫うようにして、スバルは前に出る。その表情は困惑を帯びているものの、ある種の諦観を孕んでいたようにも思えた。
「──あんたは、シャルガフからの伝令ってことでいいのか?」
口にされた疑問は、このような事態を想定していたことの表れだろうか。事実がどうだろうと、彼はかなり落ち着いていた。混乱をあらわにしている周囲の人々と比較すると、それは顕著である。
「ええ、まあ、伝令──といって差し支えはないでしょう」
「その様子から察するに、だいぶ急展開があったみたいだな」
「はい。急展開という言葉を使ってもいいものかはわかりませんが」
「まあ、想像はつくから訊いてみるけど」
そうしてスバルは、決定的な一言を放つ。
「いったい、誰が死んだんだ?」
「──ハーシーさんです」
爆弾のような発言に色めき立つ宿泊客を放っておいて、スバルはエミリアへと向き直って、
「……らしいから、行こうぜ」
一切の動揺をも垣間見せずに、そう誘ったのだった。
◆◆◆
実際に、ナツキ・スバルが完璧に未来を予測していたとは考えられないけれど。現場に行く、と宣言してからの彼の行動は非常に迅速だった。
とはいっても、準備といえるようなことは、朝食を食べている場合ではなくなった、と宿を仕切る人に伝えたことだけだったけれども。
ともあれ、そうして準備を済ませると、スバルたちはその衛兵──名前は訊いていない──に先導される形でグリフィス宅へと向かった。
そこでシャルガフに出迎えられ、ハーシーの部屋に連れていかれて──そして冒頭の場面、となるわけである。
シャルガフの話を聞き終えると、スバルは黙って室内へと踏み込んだ。屍体に近づいていく。エミリアも続こうとしたけれど、その機先はスバルに制された。「現場保存をしないといけない」ということらしい。
屍体の傍にまで歩みを進め、しゃがみ込むとスバルはその手をとった。そして手首に触れているのは、脈を診るためだろうか。わずかな間そうして静止した後、スバルは首を振った。
そして彼は、そのまま手でハーシーの遺体を触っていく。顎、肩、腕、胴、太腿、脚、指──、と。状況が状況ならシャルガフも彼を制止したのだろうけれど、スバルの様子が真剣そのものだったためか、なにも言わなかった。
身体のあちこちを触り終えると、次にスバルは彼女の瞼に手をかけた。丁寧に目を開かせる。それで満足したのか、眼を閉ざしてからゆっくりと立ち上がり、スバルは振り返って訊く。
「……なあ、今の時間はどのくらいだ?」
「ええっと、……火の刻が三分の二過ぎるか過ぎないか、といったところでしょうか」
「ふむ……」
昨日は火の刻とはなにかを尋ねていたスバルは、一度説明を受けているからかなにも訊き返さずに頷いた。そして、
「ならハーシーが殺されたのは、おおよそ日付が変わる頃、ってところだな」
多少の誤差はあるだろうけど、とあっけなく言ってのける。
「──どうして、そんなことがわかるのですか?」
「ちょっと調べただけだよ。死後硬直とか、角膜の混濁とか。うろ覚えだしきちんと学んだわけでもないから、絶対だとは言えないけど。いわゆる死後変化ってやつからの推測だ。死斑は、見える限りにはないみたいだな」
信じられない、といった面持ちでの問いに、スバルはすらすらと答えた。その調子で、死後硬直の流れやらなにやらについて説明していく。要約すれば、ハーシーの死亡──すなわち殺害は、風の刻に入った頃と見られるらしい。
「まあ、それがわかったくらいでどうなるものでもないんだけどさ。ところで、死因の確認はしてあるのか?」
「ええ、そのナイフが直接の原因と見て間違いないと思われます」
「やっぱそうだよな」
話題はがらりと変わって死因に移る。エミリアたちにも一目瞭然のことを確認した後、スバルは本題に入った。
否──本題に入る前に、再び屈み込むと、背中に突き刺さったナイフに手をかけて、
ゆっくりと、抜く。
「……やっぱり、血流は止まってるみたいだな」
その傷口から、血が噴出するようなことはなかった。ナイフに付着した血が垂れ落ちることもない。とはいえ、
「いや、流石にそれはまずいと思うのですが……」
「だからといって、いつまでもこのままにしておくわけにはいかないからな」
弁解しながらも、スバルは懐から布を取り出した。血に濡れたナイフの刃の、その血を拭わないよう注意して、布でくるんでいく。
「というわけで」
作業を終えて、再度木片を踏み越えつつもスバルは廊下側へ戻ってきた。注視してみると、手袋を身につけている。その手で包んだばかりの布を外すと、
「あんたはこれをどこかに──あのふたりに触れられないように置いておいてほしい。無理なら、持っていてくれると助かるかな。それで、シャルガフには手伝ってほしいことがある」
柄の側が相手に向けられるようにナイフを手渡した。受けとる、スバルたちを先導してきた衛兵は、敬礼すると去っていく。彼を目で追うこともなく、スバルはシャルガフを促してまたもや部屋に這入る。
「とりあえず、彼女をベッドに寝かせよう」
言って、さきほどまでナイフを覆っていた布を背中の傷口に重ねた。寝台を血で汚さないための配慮なのだろう。
提案には賛成しているのか、シャルガフも黙って屍体に近づいた。
「ところで、昨日の夜シャルガフは何をしていたんだ?」
そうスバルが尋ねたのは、しばらくしてふたりの手によってハーシーの遺体が寝台に横たえられたときだ。その顔には布団が、身体側とまとめてかけられている。死斑の出ている部分を見たく、そして見せたくないというのは、ふたりに共通する判断だった。
「……それは、私を疑っているということでしょうか?」
「いや、そうじゃねえよ。これからあのふたりに事情聴取をもう一度行うからな。示し合わせて偽証する、って可能性がある以上、確認しておかないといけない」
慎重に発せられた問いを、簡潔にスバルは否定する。
「偽証、ですか……」
「可能性は否定できない。昨日の状況ならともかく、現状だと。この事件と昨日の事件に関わりがないとは考えにくいだろう?」
「確かに、それはそうなのでしょうけれど……」
「まあ、あくまでも可能性の話なんだけどな。どちらにせよ、昨夜なにが起きたのかを推測するためにはシャルガフの証言も必要になる」
「そういうことでしたら、構いませんが──」
どこの話をすればいいのでしょう、とシャルガフは首を傾げた。
「訊きたいのは、衛兵がどんな警備体制をとっていたのか、ってことだ。まずは外部犯の可能性がどの程度かを判断する必要があるからな」
「警備というと、グリフィスさんの遺体のことですよね?」
「だけじゃなく、この家全体のことも、だな。それを含めて、昨夜ここがどういう状態にあったのかを知りたい」
「わかりました。──とはいえ、ここで話すわけにもいきません。場所を移しましょうか」
提案を受けて、スバルたちは廊下へと移動する。しかしながら部屋の扉は閉められず、ハーシーの遺体を放置することもできないので、そこで話を続けることになった。
話し合いが終わったら増援を要請しよう、とだけ決定づけておいて、シャルガフは話し始める。
「一応、昨日夜の時点でここにいたのは、私を含めて三人の衛兵です。といっても徹夜は厳しいですので、ひとりずつ交代で休むようにしていました。配置としては、グリフィスさんの部屋──その中にひとり、そして広間にひとり。休むひとりの行動には個人差もあったでしょうけれど、流石にここで仮眠をとることはできないので、基本的には詰め所に戻っていたでしょうね」
「交替はどのくらいの時間差で行ったんだ?」
「ご存じのように、ここから衛兵詰め所はだいぶ遠いですからね。ナツキさんが例の食堂に向かってから屍体発見の間に三回ほど交替した、というくらいでしょう。とはいえ、夜闇が深くなる頃までは三人の体制でしたけれど」
「ちなみに、どの時間帯に誰が休んでいたかは覚えているか?」
「ええ……まず、ナツキさんたちを呼びに行った衛兵がいたと思いますが、彼が休んだのが最初でした。次に休んだのが私で、おおむね日付が変わる頃。つまりちょうど、犯行が行われたと推定される時間私はいなかったことになりますね」
「で、残りのひとりがその後休んだ、というわけか」
「はい。あとは、見回りもときどき行いました。計六回程度でしょうか。これもほぼ等間隔だったと思います」
「なるほど……じゃあ次は、屍体発見時の話を詳しく訊かせてくれ」
そう切り出しつつスバルが目を向けたのは、ハーシーの部屋と廊下とを隔てていた扉と、それを塞いでいた棚だ。
「異変に最初に気づいた……というか、最初にそれを異変だと認識したのは誰だった?」
「チェイスさんでしたね。朝食の時間ということで呼びにいって、ですから。私も同行していますので、確かです」
「でも返事はなかった、と」
「ええ。ですので引き返してエイブリーさんを呼び、扉の前に戻りました」
「そして扉をこじ開けた」
「鍵がついていない以上、つっかい棒のような何かがあるということは明白でしたからね。それがハーシーさんに倒れ込むのではないか、という危惧もありましたが」
この部屋は、広いといえるかどうか微妙な部類なので、納得できる危惧である。
「そんな危惧もあったためか、扉が開くとともになだれ込む、ということはありませんでした。とはいえ倒れているハーシーさんは目に入ったので、ふたりをとどめて私が中に入ったのです」
「……そのとき、他のふたりは部屋に入ったか?」
「いえ──それはありませんよ」
「なら大丈夫か……まあ、一応ではあったけど。続けてくれ」
「続ける、と言われましても……屍体だということを確認した時点で部屋を出て、エミリアさんの滞在している宿に伝令を遣わせてから、現場保全に努めていましたからね。これ以降は知ってのとおりです」
「諒解だ。あとはふたりの話を伺うとするか……と言いたいところだが」
言葉を切ると、再びスバルは部屋にちらりと目を向けて、
「事情聴取が終わってから検証したいことがあるんだよ。悪いけど、あの伝令の衛兵に伝言を頼んでくれないか」
「彼は伝令が専門だというわけではないですけれど……まあ、わかりました。では、何を伝えればいいのでしょう」
「伝言っていうか、正確には仲介……いや、伝言でいいのか。まあともかく、ちょっとひとっ走り行ってもらいたいんだ」
必要なものもいろいろあるからな──と意味深に呟いて、スバルはその伝言の内容を話したのだった。