くうてん!
ストーリーは、ごま油とおんなじで、地道に絞り出すほか道はない。by とある料理小説家
これは、たぶんちょいと昔の出来事であろう。人伝えに聞いた話である。
――ズル、ズル、ズル、ズル……
自称、美食家のトムさんがラーメンをすすっているときのできごとであった。
――ズル、ズル、ズル、ズル……
――ズル、ズル、ズル、ズル……
トムさんは、あたりに漂う不穏な雰囲気についに気がついた。
トムさんの繁盛店のラーメン屋さんにいた、トムさん以外の人間がたまりかねてトムさんを一斉ににらみつけていたのだ!
『すする』というのは、トムさんの場合にはとんでもない迷惑行為であった。つまり、トムさんの『すする』に伴って発せられる。虫酸が走るような音声について言っているのであるのだが……
『すする』というのは、ラーメンをおいしく食べるという見地からも褒められた食べ方ではなかった。というのは、彼の場合には、強度の猫舌体質であるので『すする』ことができるまで、ラーメンがさめるのを待ってしまうからだ。冷めるまで待って『すする』こと、それは、お店的にも一人のお客のためにみせの回転が悪くなってしまうので、商売的にも喜ばれない食べ方であった。
しかし、トムさんは、回りの客に睨まれても、店主に出禁を言い渡されてもこの食べ方を、やめることができなかった。どんなときにも、自分の猫舌が快適に感じられるまで十分にラーメンが冷めるのをまって、それから、ラーメンを食するのであった。だから、アツアツのラーメンが出されたような場合には、それがさめるまで三十分でも、一時間でも待った。
ということで、ラーメン屋の名店の職人肌の主人の中には、そういうトムさんの様子を恐ろしい形相で見ているものもいた。当然のことである。
『あいつが今度きても、絶対に入れるなよ!』
『あいつは、俺が心血注いでこしらえたうちの傑作ラーメンをわざとマズくして食っている』
実際、トムさんは、いくつかのラーメン屋で、出入り禁止になっていた。さらにトムさんの名前は、悪い意味で街に広まっていった。
そんなトムさんのところに、一人の男が訪ねてきた。彼は、ある種の食べもの屋をやっているという男であった。
男はトムさんおところに訪ねてくると、
『うちはつぶれそうなたべもの屋なのですけど、ご意見を聞かせていただけないものか?』
基本的にはというか、根は善人であるトムさんは、後日、お腹が空いたときにその男の店を訪ねてみることにした。繁盛しないというのは、よほど汚い店だからであろう。トムさんは、行く前に予想してみた。
トムさんが訪ねてみると、その店は食いもの屋というにしては、ひとけがなく、すみから、すみまで掃除が行き届いており、食べ物の臭いさえも全くしないので驚いた。
――店が小綺麗で、衛生的なのは良い!
――しかし、店の中に宝石店のように、何のにおいもして来ないというのはどういう訳だ?
――驚いた! しかし、これは、衛生的を超えて、無菌状態というものではないか?
――そして、店にあったメニューに載っていた食べ物は?
トムさんは、メニューをみた。
メニューには、値段もなく、
『おまかせ』とだけであった。
このように、トムさんの訪問は、最初から、不穏な空気であったのだが、この三時間ほどあとに、トムさんは店主と大喧嘩して店を飛び出てきた。
――俺もたいてい行儀がわるいのだけど、あいつのことだけは、絶対に許せない!
――あいつは食べ物屋なのに、どれだけ人を待たせたのか?
トムさんは、待たされて、待たされて、そのあげくに出てきたものは、とても考えられないものだった。
――とんでもない目に遭っちまったなぁ! あの店には、金輪際よらないぞ!
トムさんは、このようなことをつぶやきながら、家路についた。実に、不愉快であった。
* *
案の定、その店は潰れてしまった。そして、トムさんは、そんな店のことはすぐに忘れてしまった。
やがて、トムさんは、さらにいくつか歳をとっていった。しかし、彼は、ラーメンを『すする』のをやめなかった。ただ、年をとるとまわりの目をいくらかは、気にするようになり、まわりの人といがみあうの は、本来は好まなかったので、彼は次第に、ラーメン屋さんに入るのを控え、冷やし中華をやっている店に入るようになっていた。さすがに、冷やし中華は、冷めるのを待ちながらどんぶりとにらめっこする必要はなかった。
冷やし中華だと、出されるとすぐにトムさんは、食べ始めることができたのだのだ。
――冷やし中華というのは、本当に、俺のために作られたような食い物だ。これとざるそばは、俺にとって絶対に外せない食べ物だ。
そんなころ、ひとりの若者に出会った。その若者というのは、この上なく、美味い冷やし中華を出してくれる店の主人であった。
トムさんは、その店の冷やし中華がこの上なくお気に入りになっていた。
ところで、トムさん、その店主と仲良くなりたくとも、仲良くなれない、というか、おそれ多くて、口も利けない。変なにらみ合いの期間の真っ只中にいた。
そんな頃だ。トムさんが、お気に入りの店のカウンターの定位置に腰掛けて、冷やし中華が出来るのを待っていたときのことであった。
トムさんは、厨房の奥に、なにやら見覚えのあるものを発見した。トムさんは、それにとても心を惹かれたのだった。
――あれは、なんだか俺の心をとても引きつけるものがあるぞ
――確かに、どこかで見たことがある。果たして、どこで見かけたものかどうにもはっきりしない! あれは、とても重要なものに違いないのだが、あれが何なのかどうにも、わからないぞ! あ〜〜、いらいらしてきたぞ!
「お客様、ひょっとしたら、厨房の奥の大皿に盛られたものを御覧になられていませんでしたか? 私の勘違いでしたらお許し下さい」
「いや、実際そうなんだよ。私は、あの皿に盛られたものが先ほどから気になってしようがないのだが、その一方で、あれがなんだか皆目見当がつかないで困っているんだ」
「あれは、私の父親が人生をかけて取り組んでいた料理なんですよ」
「なんだって、料理だって? そうか、それで俺は、気にかかってしようがなかったのだ」
「あの料理のために、オヤジは、大きな借金を作って死んで行きました。それで、僕は父の遺志を継ぐ形で、こうやって小さな店を始めたと言うわけです。ところで、お客さん、あれを食べたのですか。あれは、非常に変わった料理なので、実際に食べたという人がほとんどいないんですよ」
主人の問いかけに、トムさんは答えることができなかった。ただ、皿の上に乗って厨房の奥に置かれている料理を見つめて、自分の考えに没頭していたのである。
――そう言えば、皿うどんの麺、ベビースター・ラーメンの麺などによく似ているのだ。ただまっすぐなところが、ポッキーである。ラーメンの乾麺としてみた場合でも堂々の太さといえるだろう。
すると、店の主人はトムさんに思いがけないことを話し始めた。
「じつは、私はあの場に偶然居合わせました。料理でありながら、料理の気配を完全に消し去ってしまうこと。オヤジは、そのことに腐心していたのであれが用意できるまで、いつも以上に時間がかかり、そのことであなたは怒ってしまいました」
「面目ない」
それは、トムさんの素直な気持ちであった。
「あのとき、あなたに食べていただけなかったこの料理、食べていただけませんか? オヤジは、それを強く望んでいました」
トムさんは、細目のポッキーに見える乾燥麺を口に入れかみ砕くと、時間をかけてゆっくりと味わった。
「旨い! あなたの冷やし中華には、このおいしさが見事に生かされ、受け継がれていますね。あなたの冷やし中華の中に、おとうさんは、今も生きていらっしゃる」
「極端な潔癖症のうちのオヤジは、極端な猫舌の客として、世間のラーメン屋からひどく嫌われていたあなたのことを人伝に聞き、あなたのことを自分に身近な存在として考えいたのです」
――あのラーメンは、主人が『猫舌体質』の俺の噂を聞きつけて、作ってくれたものに違いなかったのだ。
トムさんは、すべての事情が一気にのみこめた気がした。
* *
そう言えば、ラーメン屋のオヤジは、本当に悲しい顔をして、同じコトバを何度も、何度も、そして、何度も繰り返していた。
――くうてん!
――そいばってん、くうてん!
――くうてん! よかけん!
……
……
――スコシデヨカケン……
すがりつくその手を、振り切っていったときの、あの日の情景が、主人の真剣なる顔がトムさんの脳裏に鮮やかに蘇った。
了