奇妙な和解
ニックは門を通り抜けて一番街を歩いていた。周りには人影がなく微生物すらいないかのように思われるほど静かだった。その静けさはどこか沈鬱で、濁った沼の中に街全体が沈んでしまったように見えるほどだった。
そんな中でも奥の方にわずかな光と音を感じ取ることができた。恐らくそれを発しているのはこの街の中で最も大きい通りだろう、とニックは察した。少なくとも山を降りてくる時に見た景色では、この一番街と垂直に交わった通りは街の中でも大規模な方だった。
ニックは門を見たときに生じた寒気や、それによって思い出された事について思案しながら歩いていた。
「何故だろう」
ニックは不意に立ち止まってこう言った。心の中の言葉がついうっかり外に漏れてしまったような突飛さだった。
「何故俺は両親を探すんだ、何故俺は‘影’探すんだ、何故俺は村を出たんだ、何故20歳になるまで待つことが出来なかったんだ、そして…何故…今になって俺はこんな疑問を抱くんだろう……」
この疑問の一つはニック自身がよく理解していたはずだが、何故か言葉となって口から出てきた。それは村を出た理由である。
「俺を村の外に導いたのは村人への嫌悪と婆ちゃんの言ってた引力から逃れるためだ。そして村に住み着く‘影’に対して妙にうんざりしいていたのもある。村人たちの下僕みたいに見えてきたからかな…。とにかく俺はその感情に正直に従っただけだ。僕の存在が無かったらもっと早く外へ…そうだ…村人は皆、僕みたいな人たちばかりなんだ。僕のように嘘つきで臆病で、同調意識だけは強い偽善者みたいな奴ばかりだったんだ。だから僕は好かれ彼らの仲間に入れてもらった。俺はそんな僕の事が大嫌いだ。もしかしたら俺を村の外に導いたのは俺自身かもしれないな……」
ニックは自分の考察を確かめるように次々に喋った。その様は傍から見たらほとんど気違いのようだった。
「どうした?ニック」
ニックは暫くの間使っていなかった敏感な耳に届いたこの聞き覚えのある声に驚き、瞬時に振り向いた。その声の正体は友人だった人であった。ニックは少しの間彼に対してまるで未知の生物でも見たかのような驚愕の視線を向けていたが、やがてつい最近から彼に向けるようになったニヒリスト独特の厭世的な表情に変わっていった。といっても無論ニックはニヒリストではなかったが。とにかくこの頃のニックは彼の前に立つと無関心で無表情で無感動になり、全てのものに対しての興味が消えてしまったかのような状態になるのであった。ニックはわざとそういった状態を彼に見せつけていた。それが挑発なのか探索なのか、あるいはただ単純に感情を見せつけているだけなのかはニック自身にも分かりかねたが、少なくとも好意から来るものではないということだけは確実だった。
「大丈夫かニック?なにか呟いてたみたいだけど…、俺で良かったら話を聞かせてくれないか?」
相変わらず良い奴だな、とニックは思った。その感情の裏側には嫌悪のこもった皮肉が息を潜めていた。彼はどこまでもニックに対して親身になって、話をしたり聞いたりした。常にニックの味方をしてニックの肩を持った。あの不意に漏らした呟きと、今も彼に寄り添っている‘影’さえ無かったら彼と良い友達になれただろうな、とニックは思った。だが逆説的に考えるのならばその二つが無ければニックと彼が知り合うことはもちろん、喋ることすら皆無だったであろう。友達になるなど考えもしないはずだ。謂わばこの二つは彼らの唯一の共通点であり繋がりなのだ。彼も村で不利な状況に立たされている人間で、それにニックと話すときは‘影’を付き添わさせなければならない。つまり根本的な理由は違えどニックも彼も村から迫害を受け、そして‘影’が必要なのである。
彼の親身な言葉から生じた見識や感情はニックの脳細胞に侵食していった。そしてそこから「自分が孤独である」という事を改めて認識させられた。ニックの境遇は電車の切符を渡されたのにも関わらず電車に乗れないようなものだった。だからニックは駅を変えるために村を出たのだ。そして同じく電車に乗れずにいた彼もまた駅を変えようとして村を出たのだろう。だから彼が次に何を言うのかニックには予期することができた。
ニックは彼を一瞥すると体の向きを変えて大通りに向かおうとした。するとその瞬間を待っていたかのように彼は敢然とした口調でこう言った。
「俺も連れてってくれ!」
いつにもなく強い口調で大きな声だった。ニックは少し怖気づいた。というのはその言葉には畏敬と憤然たる覚悟が入り混じっていて、その異種の感情の交錯のせいか不快で奇妙な音程を通りじゅうに響かせたからだった。ニックは立ち止まって動揺を押し殺し平然とした調子で
「いいよ」
とだけ言った。ニックが歩き出すと彼もその足踏みに合わせるように歩き出した。だがニックは内心迷っていた。ニックが予期したのは彼の意思であって村の意思ではないからだ。彼の言葉を聞いて彼が村に掌握されているというイメージがふつふつと浮かび上がった。この事がニックの決定を迷わせ、彼に対する疑惑と不信を呼び起こしたのだ。
「俺はいつまでも村から出られないのか」
ニックはついそれを口に出した。ニックは後ろを振り返った。彼の耳に届いたか届いていないかは判然しかねたが、とにかく彼は素知らぬ顔をしてそっぽを向いていた。
ニックは奇妙な安堵感に包まれたが、それも束の間のことだった。その空間を裂いたのは紛れもなく彼だった。
「そうだよ」
ニックはもう一度振り向いた。彼はにやにやしてニックが振り向くのを待っていた。彼はニックの目から視線を外さなかった。まるで視線によってニックを食い殺そうとしているかのようであった。ニックは視線を逸らして向き直りまた歩き始めた。後ろから聞こえる彼のコツコツという足音と「そうだよ」という言葉がニックの耳の奥底に張り付いて離れようとしなかった。
友人だった人の横にはもう‘影’は見えなかった。