違和感
ニックは依然として困惑していた。そしてそれを開示し認識し解決に導くことは容易ではなかった。なぜなら何が彼を困惑させているのかという事すら彼には判然としていなかったからだ。ニックは恐らくその困惑の根源であろうというものを取り入れた日の放課後、祖母にその事を伝えた。
「なあ、婆ちゃん」
「なんだい、ニック」
「20歳になったら何かあるのか?」
祖母は眉に少し皺を寄せていつもの調子で「そうさねえ」と呟いたが、どことなく傲然とした嫌悪のようなものを漂わせたように見えた。だがそれも一瞬現れただけですぐに普段通りの虫も殺さぬような温厚な表情に戻った。
「誰が言ったんだい?」
「学校の先生だよ。でもその先生は学校を辞めさせられて今は村にいない。理由が知りたいんだけど誰に聞いても教えてくれないんだ。婆ちゃんなら…何か知ってるだろ?…つまり…その事を言って解任されたんだと思うんだ、先生は。婆ちゃん教えてくれよ、20歳になったら何があるんだ?俺だけが違うってどういう事なんだ…?」
祖母はニックの話の途中まではメトロノームを体現したかのような相槌をうっていたが「俺だけが違う」という言葉がその振り子を止めさせた。
「……違うって…?」
祖母は蠅の羽の音のような声をなんとか絞り出してそう言った。祖母は重苦しい疑念に圧迫され息をするのも苦になっていた。だが祖母はその疑念こそが最も重要で譲歩されるべき感情だということを知っていたので静かにその苦痛に耐えた。厳密には祖母を苦しめていた疑念というのは最初に現れた重要で譲歩すべきである第一の疑念ではなく、その疑念に対しての祖母にとっては忌まわしい第二の疑念であった。そのどちらの疑念もニックに移動するとたちまち困惑の根源になりうる存在であった。ニックはそんな祖母の葛藤も露知らず少し首を傾げてそれから話しだした。
「ん、俺にもよくわからない。村人と商人は仲間だからお互い信用するべきだって。で、俺は違うってさ。俺も村人だから当然その仲間の一人だろ。じゃあ先生は何が言いたかったんだろう…?」
「違うってどういう事だい!」
「だから今言った通りだよ。…婆ちゃん?どうした?」
祖母は激昂して今すぐにでも発狂しそうな様子だった。陽光の反射の為か目はぎらぎらと光っていた。目の中で小さな炎が燃えさかっているようにも見えた。
「誰が言ったって!?」
「だから…先生だよ。…何も聞いてなかったのかよ、婆ちゃん」
ニックは呆れた様子で祖母を見ながらそう言った。祖母は相変わらず遠くの方を見ていて、ニックとは視線が合わなかった。祖母は憤怒のために肩を揺らし一時は呼吸をすることすら放棄していたが、やがてすうっと息を大きく吸うと次第に落ち着いてきたように見えた。先程と比べるとあまりにも落ち着きすぎていて、寧ろ沈鬱な面持ちにすら見えるほどだった。
「先生じゃないよ」と祖母は独り言のように話し始めた。
「それを言ったのは…というよりその意思は先生のじゃないんだよ、ニック。その人は…謂わば代表者だよ。彼らの代表者として言っただけさ」
「彼らって誰だよ」
ニックのこの問いに祖母は答えようとせず、そのまま寝床に入った。
「婆ちゃん!」
「20歳になったらわかるよ」
祖母は布団を全身に巻きつけてニックの反対側を向き、横になりながら少し強めの語調でそう言った。
「婆ちゃんもそれかよ、もううんざりだ。どうして皆教えてくれないんだ。第一…」
「ニック」と祖母は起き上がりながらニックの言葉を遮った。
「20歳になったら教えるというのは、20歳になるまでは教えてはいけない、という規則のもとに成り立っているんだよ。人は規則によって縛られてはいるもののそれ自体が土台になってくれているのを忘れちゃいけないんだ。この土台を無視したり壊したりすると人は必ず不幸になる。時には土台が狭すぎて一部の人しか乗せないこともあるだろうけどね…そこらへんは私にも何が正しいのかさっぱりわからないよ…」
ニックは祖母の中途半端な論弁に強迫観念じみたものを感じ取り嫌気がさしたが、それでも祖母の厳かで傲然とした静かな威厳がニックを黙らせた。ニックは立ち上がって暫く思案していたが、やがて観念したように自らも寝床に入り
「婆ちゃん、おやすみ」
とだけ言うと深い眠りについた。祖母からの返事はなかった。