変わりゆく世界と自分
ニックの村は谷底平野にあった。だから街に出るためには一つ山岳を乗り越えなければならなかった。ニックは三時間ほどかけて頂上まで登りきった。膝に手をつきながらニックは村の方に目を向けた。村は夕明かりに照らされ、それでいて民家の独立した光を点々と持ち合わせていた。その点々とした光は自らの存在を誇示し認めさせようとしているように見えたが、それらはあまりにも弱々しかった。村を取り巻くその頼りない光たちはなんともわびしく情緒深いものを見る人々に与えた。ニックは鍋底の焦げた錆みたいだな、と思った。ニックはふと祖母が自分に話していたことを思い出した。
その時二人はニックが泣き叫んだあの草原で横に並んで仰向きになり空を見上げていた。
「おばあちゃん、星がきれいだね」
「そうさねニック、本当にこの村の星はいつ見ても美しいよ」
祖母は村について喋る時、星と羊の事しか喋らなかった。偶然それしか喋らないというよりは寧ろ意図した避け方のように見えた。
「おばあちゃん、美しいって何なの?」
祖母はこの問いに目を見開いて驚きと戸惑いの色を、皺と垂れ下がった肉でできた線が判然つかないような年老いた顔に浮かべた。そしてその表情のまましばらく思考を巡らせていたようだったが、やがて「そうさねえ」と暗闇に呟き、それから体を重たそうに起こしニックの方を向いた。ニックもこの動きに同調して起き上がり祖母の方を向いた。
「ニック、美しいというのはねえ、引力のことだよ」
「引力?」
「それも重力のように崇高で人間にとって快適な引力では無いのさ、恐ろしい引力だよ、精神と肉体を分離させる力さ、心を惹かれるといえば聞こえはいいがね、本当に恐ろしい力だよ、ただこの力の本当に恐ろしい所はそれだけでは無いんだよ、何かわかるかいニック?」
「わかんないよ、大体おばあちゃんが今どういう話をしているのかもわかんないもん」
ニックは欠伸をしながらそう言った。祖母は笑って「そうさねえ」と言いニックの頭をポンポンと軽く叩いた。
「快楽だよ、気持ちの良い清々しい快楽ではなくて…そうさねえ麻薬みたいなもんかねえ、その麻薬は多くの醜い物体を引き寄せたり、時には物体を醜くするのさ、そして自らの美を深めて神秘あるものに変形させる、他から見たら…そうそれこそ崇高なものに見えるだろうがね、道化の塊にしか過ぎないのさ、世間から醜いと蔑まれる連中は美の存在を高めてしかも自分への見返りは求めない、それが当然だと思っているのか…それともその事に気づいていないだけなのか…そのへんは分からないけどね、もし前者なら醜い存在は自己犠牲の美しい感性を持っていることになる…だとしたら醜い存在が美しいのか美しい存在が醜いのか分からなくなってくるよ、ねえそう思わないかいニック?」
「おばあちゃん、もう帰ろうよ」
ニックは夢の中に落ちかけているまどろんだ目を右手で擦りながらそう言った。祖母はまた「そうさねえ」とだけ言うと立ち上がってニックの手を握り家路に着いた…
ニックは今なら祖母の言っていたことが分かるような気がした。この頼りない光は美しくそれでいて鍋底の錆のようなのだ。そしてこの村に住む人々はただ醜いばかりである。ニックはそれらを最初は醜いとは思ってなかった。道化の美しさを本物だと信じ込んでいた。‘影’の出現によってその引力からニックは引き剥がされたのだ。
「美しい存在と醜い存在それらが大して変わり映えのないものだとするのなら俺は正直な方を選ぶ、だが正直が醜い存在ならこの世界は全て醜いのだろうか?そんなことは無いはずだ…、今はわからない、ただとにかく俺は安らぎが欲しいだけだ」
ニックは、なら俺は‘影’を手に入れるためだけに村を出たのか?と自分に問いかけたが、その問いが愚問であることはニック自身が知悉していた。
ニックは両親に会うため山岳の下りを一歩ずつ踏みしめ街に降りていった。