目覚め
ニックはその日をきっかけに毎日‘影’を見るようになった。そしてそのほとんどがニックの唯一の友達である人間の傍にいた。‘影’は彼の足元にぴったりと寄り添いながら笑ったり無表情になったりしていた。‘影’が現れる少し前から彼はよくニックに喋りかけていた。ニックには友達と呼べる存在が今まで一人もおらず自分から話しかけることもしなかったので、いきなり話しかけてきた彼を不審に思い、最初は疑惑や畏怖の目を向けていたが次第に心を許し、最近ではニック自身から声をかけるようになっていた。そんな時‘影’が現れたのだ。
ある日ニックは小石を蹴りながら一人で帰っていた。彼は後ろからニックの背中を叩きながら「よっ」と話しかけた。ニックが振り向くと彼と‘影’が仲良く立っていた。彼は優しい笑顔を‘影’は好奇心に満ちた、まるで貴族が奴隷の見物に来たとでも言うような笑顔を浮かべていた。彼らはニックの横に来てニックと歩調を合わせた。
「黙って一人で帰るなって。俺ら親友じゃん」
彼は顔に微笑を浮かべながらそう言う。僕はちらと彼の方を見てまた前に向き直る。‘影’はケタケタ笑う。
「あの事件のことだけどさ。あいつらマジで酷いよな。お前は全然悪く無いよ」
僕は斜め下を食い入るように見つめながら彼の話を聞き流していた。‘影’はさっきにも増して笑っている。ニックは妙な気持ちに浸っていた。この世界が真空状態になり音も景色も何もかもがぼやけて、まるで夢の中を歩いているようなそんな気分だ。だが少しして、いや違う、とニックは思った。この世界は紛れもなく現実だ、俺は起きていてこの二本の足でしっかりと歩いているじゃないか、寝ているのは僕だけだ。僕の世界を夢にしたのは彼らだ。彼らとは,僕を馬鹿にした奴ら、先生、祖母、そして両親だ。
ニックがそんな思いに沈んでいる間も彼はニックに絶え間なく話しかけていた。だが彼は返答のない会話に疲れたのかニックに話しかけることを途中から放棄してブツブツと独り言をニックに聞こえないような声量で地面に向かって吐いていた。ニックは先程の思考から既に抜け出していたので、彼の呟きに意識を集中させ何を言っているのか聞き出そうとした。彼はしきりに同じことを繰り返し呟いていた。
「何で俺がやらなくちゃいけないんだ…。俺だってこいつとなんか喋りたくもねぇよ、目を合わせるのだって嫌なのに…何で俺が…大人たちはいつも身勝手だ、実際にやる人間の苦労も知らないでさ」
‘影’は中途半端な歪んだ笑いを見せた。笑って良いのか悪いのかが自分の中で判断できずに、その感情がそのまま露出してしまったように思われた。一方ニックはただ黙って真っ直ぐに彼を見ていた。彼は地面を見ながらもニックの目線に気づき、まるで髪を無理やり引っ張られたかのような勢いで顔を上げ、まず正面を向きそれから後悔と焦りを携えた表情をニックに向けた。ニックは小さく、それでいて寛大な微笑を浮かべていた。それは憎悪の微笑であり勝利の微笑であり目覚めの微笑であった。彼は恐怖と悔恨に追い詰められその場から走り去っていった。だがニック自身も困惑していた。ニックは彼の言ったことを少し考え直してみたが、わかるのは彼がニックを友人と認めておらず、さらには嫌悪のような感情を持ち合わせているということだけであった。それゆえにニックはあの微笑の意味が自分でも理解できなかった。
「俺が…いや僕があの微笑を浮かべたのはどうしてだろう?でもとにかく僕はあの微笑によって目覚めたんだ」
そう言い放つのと同時にニックは周りを見渡した。人っ子ひとりいなかった。ニックはこの景色を見て、まるでこの場所だけ世界から切り取って自分ごと絵画になったようだ、と思った。そして、この景色はいつもと変わらない日常的な光景だ、とも思った。そうこの光景はニックが今まで見てきたものだった。祖母が死んだとき、自分の感情が認められなかったとき、唯一の友人をなくしたときだけではなかった。この世界から隔離されている感覚はニックの日常だったのだ。ニックは今までこの世界を意識せず、ましてやこの世界は実は夢で起きれば両親も祖母も常に傍にいて自分を愛し学校では多くの友人に囲まれている、そんな笑顔と幸福が満ちあふれた世界が目の前に広がるだろう、などという妄想までしていた。彼はたった今、微笑と三度目の孤独により目覚め初めて現実を見たのだ。そしてその時もっと多くの‘影’を見たいという欲望が芽生えた。
その感情が芽生えたのと同時に‘影’は不気味な笑い声をたてた。この不快な不協和音に包まれる世界が自分の世界だ、とニックはそう思った。