‘影’との出会い
ニックの生まれ育った村は羊の毛織物で栄えていて、人口は数百人しかいない。田舎と呼ぶのにふさわしい村である。そんな村にも一つだけ学校があった。決して立派とも大きいとも言えないが子供達を見守る教室と教師は充分足りていた。ニックはその学校の生徒だった。祖母を失った次の朝もニックは何事も無かったかのように学校の準備をして、すっかり錆び付いてしまったドアノブに手を掛け足踏みと同じテンポでドアを押し開き、そして家を出た。一連の動きは普段と変わらなかった、変わったことと言えば祖母がいつも入れていたコーヒーが、今朝はやけに苦かった事くらいだろう。
学校に行き、ただ座って時が経つのを待ち、夜には祖母のことを思い出し泣き喚く、そんな日々が続いたある日のことである。ニックがいつも通り教室に入ると、数人の男子がこっちを見た瞬間に「うわぁ来たぞ」「こっちにくる、逃げろー」などと面白がりながらそう言い残して教室を出て行った。ニックは特に気にしたようすもなく、自分の席に座ろうとした。しかし机が目に入った瞬間ニックの時間は止まった。
『や く び ょ う が み』
机には大きくこう書かれてあった。最初意味が分からなかった。脳につながる神経が絡まって理解するのに時間がかかった。そして理解した瞬間にニックの体は一気に熱くなった。体が燃えているようだった。
そうして理解している間に、先程教室をでていった数人の男子が戻ってきた。そしてニックを見つけると
「学校に来るなよ、皆が病気になったらどうすんだ」
充分だった。僕から俺を引き出すにはその言葉だけで充分だった。俺が暴走しないようにとつながっていた理性の糸は、たった今ぷつんと切れた。俺は奴らを殺すことに決めた。その殺意に気づいたのか奴らは一目散に逃げ出した。俺はそいつらをすぐに体育館裏で追い詰めた。俺はけんかには自信があった。死ぬまで殴りつけてやろうと思った。しかしそれはけんかを止めに来た先生たちに阻まれた。そいつらは先生と一緒にどこかに行ってしまった。俺は一人ぽつんとそこに立っていた。なんだか寂しい気持ちになった。だが、それ以上に憎かった。俺をからかったあいつらも、けんかを止めた先生たちも、俺を捨てていった両親も、死んでいった祖母も、とにかく全てが憎かった。この花も木も草も全てが俺を馬鹿にしている。きっとどいつもこいつも俺を笑ってやがるんだ、ああ憎い憎い憎い。
とその時、体育館からなにやら声が聞こえた。
ニックはすぐにおかしいと思った。今は朝礼の時間で運動場に全校生徒が集まっているはずだからだ。ニックは声の主が知りたくなり体育館の中を覗いた。
そこには人はいなかった。ただ例の‘影’が体育館のちょうど真ん中辺りにぽつんと立っていた。
なんとも不気味であった。
ニックは、自分は疲れているのだろう、と思い‘影’の存在を無視して体育館を出ようとした、その時であった。
「ニクイ、ニクイ、カカカ」
体育館には‘影’とニックしかいなかったので、声の正体はすぐわかった。その声は先に体育館を響かせて、その後ニックの鼓膜を震わせたように思われた。ニックはもう一度‘影’を見た。この時すでにニックは不思議とその存在を認めていた。そして機嫌を伺うような声色で‘影’に問いかけた。
「お前も憎いのか?」
「ニクイ、ニクイ、カカカ」
「そうか。俺とおんなじだな。お前は一体誰が憎いんだ?」
「ニクイ、ニクイ、カカカ」
「なんだよお前、それしか言えねえのかよ。ちゃんと喋れよ」
「ニクイ、ニクイ、カカカ」
ニックはここで諦めた。だがこの時のニックは‘影’への不快感よりも、自分の憎しみを理解してくれる存在ができたことに対して嬉しさを覚えた。たとえ、その相手が人間の醜さの塊でできていたとしても。
ふと、体育館の入口に近づいてくる足音が聞こえてきた。担任の先生とさっき俺をからかった奴らだった。そしてそいつらの一人が申し訳なさそうに
「ニックの気持ちも分からずに厄病神だなんて言って悪かった。ごめん」
「ニック、こいつらも反省しているようだし先生の前で仲直りしてくれないかな」
いつの間にか影が消えていた。確かに奴らは反省しているようだった。だが、俺の心は煮えたぎっていた。ふざけるな、誰が許すものか、俺はまだそいつらに憎しみのレッテルを貼り付けたままだった。しかし僕は小鳥のような儚く優しい声で
「いいよ。僕も急に追いかけたりしてごめん。仲直りしよう」
いつも僕は正解を出した。いつも俺は間違っていた。だから今回は僕が答えた。ニックにとって、ただそれだけのことであった。先生は満足そうだった。その子達は嬉しそうだった。これが正解、これでいい。
ニックが去ったあと、体育館に‘影’が現れた。そいつは嬉しそうに何度もこう言った。
「ウソツキ、ウソツキ、ケケケ」