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第八話 フィウスタシア ~The contract~

 それから何度も、ランは『彼女』のいる研究室へと足を運ぼうとした。実際に辿り着けた回数はそう多くはなかった。ランは研究者の一人として比較的自由に塔の内部を歩くことが許されていたけれど、それでも最高機密区域へ入り込むのは容易なことではなかったのだ。

 外で戦争が行われていることは知っていた。フィウスタシアがそこで気象兵器として使われていることも。けれど戦況はランには知らされなかったし、フィウスタシアとも戦争の話はしなかった。戦争に関連した話題が出るたびに、フィウスタシアがつらそうな表情で口をつぐんでしまったからだ。

 一般的に、神は人と長く深く関わるほど人間に近い精神活動を示すようになると言われている。フィウスタシアは随分長い間人間と深く関わってきた神であるらしく、ランが驚くほど人間的な反応を見せることが多かった。

 ランはフィウスタシアを通じて、研究塔の外に広がる世界を知った。

 どこまでも広がる空のこと、水平線の見え方、実験施設でしかなかった楽園の住民たちが、実際にどのような生活を営んでいるかということ。楽園以外での機械化の進んだ生活のことも、たくさんの神々がそこで使役されているということも。


 研究塔がテロリストの襲撃を受けたのは、ランとフィウスタシアが出会った数ヶ月後のことだった。

 彼らの主張が何であったのか、ランはよく知らない。長引く戦争への不満が、兵器の開発や『反逆者』の追跡を受け持っている研究塔へ向けられたものだったのかもしれない。ともかく、彼らが解放を叫んだ『人体実験の犠牲者』の中に、ランのような研究者たちは含まれていなかった。状況もよく把握出来ないうちに比較的広い研究室に集められ、覆面の男たちに銃を突きつけられて床に座った。魔術を使えないように、研究者たちの周囲には結界が張られた。集められた研究者の数は百人ほどだったろうか。ランに命令する立場の者も、研究塔で何が行われているかほとんど知らされていない者も、全く区別されずに集められていた。

 怯えながら部屋に入ったとき、ユアローグの犬め、と憎々しげに呟かれた、その言葉の調子だけをやけに明瞭に覚えている。

 最初に反撃したのは誰だったか、今となっては知る術もない。とにかく誰かが結界を崩して、テロリストの一人を風の魔術で攻撃した。攻撃された一人が絶命して、近くにいたもう一人が恐慌状態に陥った。銃を乱射する乾いた音、怒号と悲鳴。発砲されてしまった銃は人々の行動を止める力を失い、誰もが出口に向かって殺到する。押しつぶされそうになりながら、ランも走った。判断力など全く働いていなかったと思う。皆が走ったから走った。血の匂いに気づいたのは部屋を出た後だった。前を走る誰かの、脇腹から流れるおびただしい量の血に。前を走っていたのは、兄妹同然に育ってきたセイという青年だった。皆が好き勝手な方向へ走っていく中、ランは必死でセイの背中を追いかけた。一人になるのが怖かった。

 セイは廊下の突き当たりで立ち止まり、懐からIDカードを取り出して扉を開いた。セイに引っ張り込まれるようにして入った先は、フィウスタシアもいるはずの最高機密区域だった。

「セイ……怪我……」

 閉じた扉に寄りかかり、ずるずると座り込んでしまったセイの顔を覗き込む。浅い呼吸を繰り返しながら、セイは茫洋と曇った瞳でランを見つめた。

「今……治療を……」

「だめだ」

 セイは言って、ランの腕をつかんだ。加減など考えられなかったのだろう、指が強く食い込んで、ランは思わず息を詰めた。

「ラン、フィウスタシアを解放するんだ。今すぐに。……僕が……契約者が死ねば彼女は自由になれる。もし……その前にあれの制御が破られたら……あいつらに使われたら……」

 曇っていた瞳に、不意に強い光が宿った。セイは言った。

「行ってくれ、ラン」

 その時、扉の向こうで誰かの声がした。血の跡だ、とか、この向こうだ、とか、そんなようなことを言っていた。

 とっさに考えたのは、見つかったら殺されるということだった。思わず立ち上がりかけたランの腕から、セイが手を離す。

「行くんだ」

 セイの言葉が引き金を引いた。ランは踵を返し、その場から逃げ出した。

 そう、逃げ出したのだ。セイがそうしろと言ったからではなく、怖かったから逃げた。セイを見捨てて逃げたのだ。


 ――私はいつも、逃げてばかりだ。

 ランはそう思って、きつく眉根を寄せる。あの時も、さっきテオに逃げろと言われたときも。

 背後で聞こえた扉が破壊される音にも、振り返って見ることは出来なかった。何かが何かにぶつかる音、セイのうめき声。何も聞きたくない。考えたくなかった。それでも思考は、ランの勇気のなさを責め始める。見捨てて逃げるなんて卑怯で臆病な裏切り者だ。治癒呪文の一つもかけてやらず、一緒に逃げようともせず怪我人を置いていくなんて。敵に見つかれば、無事に済むはずがないことくらいわかっているのに。

 ――違う。

 走りながら、ランは呟いた。

 違う。セイが行けと言ったのだ。二人とも捕まって殺されるより、一人でも逃げなきゃいけなかったから。だから走っているんだ。私は悪くない。何にも悪いことなんてしていない。兵器の開発も反逆者の追跡も、命じられたからしていただけ。断る権利なんて無かった。逆らえば殴られた。逆らい続けて、こいつは用済みだと判断されれば処分された。他にどうしようもなかった。だから私は悪くない。悪いのはあの人たちだ。自由に振舞えるくせに。ずっと外にいて、あの空を飛ぶことすらできるくせに。ユアローグからの解放を叫びながら、本当にユアローグに支配されている私たちのことは助けようとしない。大切なもの一つ無く、外に出ることも許されず、切り取られた空の広さに憧れながら、望みもしない研究を強要される私たちのことは助けてくれない。

 視界がにじんだ。許せないと思った。ランやセイを今まで研究塔に閉じこめて好き勝手に利用してきた人々も、外からやって来てセイを傷つけた人々も、決して自分のものにならない空も、何もかも。

 音のよく響く廊下に、自分のものではない足音が聞こえ始める。遠慮のない、重そうな大人たちの足音が、確実にこちらへ近づいている。

 もつれる足でようやく辿り着いたフィウスタシアのいる研究室の扉は閉まっていた。

「開けて! 開けて!」

 扉を叩きながら叫んだ。足音がすぐそこの曲がり角へ迫っている。この扉のロックだけならば、魔力封じの結界の中にいるフィウスタシアにも開くことが出来るはずなのに、なかなか開いてくれないのがもどかしい。

「開けて!」

 叫んでもう一度扉を叩こうとしたとき、スライド式の扉が小さな空気音と共に開いた。勢いを殺し損ね、つんのめるように部屋へ転がり込んだ。転んだ弾みにすりむいた膝が引きつれるように痛んだが、ランはすぐに立ち上がってフィウスタシアの水槽へ駆け寄り、すがりつくようにガラスに両手をついた。

 フィウスタシアはうつむいていた顔を上げ、ランに向かって静かに微笑んだ。それすらもランの神経を逆なでする。こんなときに笑顔なんて、見たくなかった。その笑顔を消したくて、ランは口を開く。

「あなたを解放しに来たの」

 思っていたよりは冷静な声が出た。

「だから、あの人たちを殺して」

「あの人たち……?」

 フィウスタシアが不思議そうに聞き返す。

「そう。ここにいた人たちも、外の人たちもみんな。空も消して。いらないから」

 フィウスタシアの表情が泣き出しそうに歪む。ガラスに映ったランの顔も、醜く引きつっていた。

「それが、新しい契約?」

 頷いた。復讐出来るなら何でもいいと、その時は本気で考えていた。新しく契約を交わすことは解放にはならないのに、それすら忘れてしまっていた。

「代償は?」

「何でもいい」

 一呼吸置いて、フィウスタシアは手を伸ばした。ランの両手に重ねるように、そっとガラスに触れる。

「この世界が、嫌いなの?」

 ガラス越しに見えるフィウスタシアの薄青い瞳は、ランの心の奥底まで見通せるような気がした。お前は臆病な裏切り者だと、抑えつけたはずの思考が訴えた。

 違う。

 ランは思った。

 私は悪くない。悪いのは『あの人たち』だ。みんないなくなってしまえばいい。手に入らない空を見せつけられるのだって、もううんざりだ。

 だから、答えた。

「大嫌い」

 フィウスタシアは静かに頷いて、新たな契約を構築し始めた。水槽に描かれた回路の上を、魔力光がアーク放電を伴いながら駆け抜ける。高負荷に耐えきれなくなったガラスがきしみ、その表面に細かなひびが走る。

「代償は、あなたを構成する物質のすべて。それでも?」

「何でもいい! さっきも言った!」

 ランは涙混じりの声で叫んだ。水槽のガラスが砕け散って、頬をかすめた。次いで、冷たい風が。

 風が通りすぎた後、とっさに閉じていた瞳を開けると、フィウスタシアの姿は消えていた。ランは呆然と水槽の前に膝をついて座り込んだ。

 風の神々が人に対して抱いていた憎しみを止めるものはなくなった。

 人間を憎んでいた神々は、その瞬間から新たな契約に従って動き始めたのだ。


 車の振動に落ち着かなげに首を振るレプカの首筋を撫でる。人間より少し高めの体温が心地良い。

 テオは眠っている。ちゃんと、生きて。泣きたいほど幸せで、このまま全てを手放してしまいたくなった。ユリンへ届けなければならない胸元の水晶が、酷く重く感じられる。

 大切なものは塔の外にしかないのだと思っていた。でも違った。大切だと思えるものはどこにでもある。

 ランの絶望に共振したフィウスタシアは、今も人々を殺し、空を消してしまおうとしている。自分はそれを止めなくてはならない。

 フィウスタシアを止めるには、もう一度神界にいる彼女と会って新たな契約を交わさなくてはならなくて、そのためには今ある契約の代償を先に払わなければならないけれど。そしてフィウスタシアに自らの意志で従った、怒れる神々を完全に押し止めることはどうしたってできないけれど。自らが犯した過ちを正すことすらできないほど、自分は無力だけれど。

 それでも、手放すのではなく守りたいと、そう、ランは思った。

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