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第七話 天籟の砲座 ~The atonement~

 朝が来た。空気は冷たくしんと静まり返っていた。

 明け方の薄くけぶるような光の中で、ランは東の空を見上げた。重く垂れ込める雲の動きは早い。上空では、強い風が吹いているようだった。

「行こう」

 レプカの背に荷物を積み終えたテオが短く言う。灰色の雲を通して淡く差し込む太陽光に目を細めてから、ランはテオの後を追った。


 上空の雲の動きとは裏腹に、草原を揺らす風はなかった。野生の獣どころか、虫一匹姿を見せない。重く湿った空気はじめじめと生暖かく、異様な静けさの中に街道を行く二人と一頭の足音だけがやけに大きく響く。

「……静かだね」

 沈黙に耐え切れずに口をついて出た言葉さえ静けさを際立たせるようで、ランは小さく身震いした。レプカも落ち着かなげに耳を上下させる。

「嵐の前の静けさだろう。急ごう。少しでも距離を稼いでおきたい。……悪いが、もう少し速く歩けるか」

 レプカの手綱を引くテオが、厳しい表情で前を見据えながら言う。正直なところ体力がもつか不安だったのだが、ランはきっぱりと頷いた。怒れる神々は、皆と違う方向へ向かう二人に気づいている。

 足を速めながら、ランは胸元の水晶を握りしめた。

 時間がない。もうすぐ彼らに気づかれる。ランがどこへ向かい、何を届けようとしているのか。

 ――気づかれる前に、辿り着けるだろうか。

 祈るように空を見上げれば、灰色の雲がちぎれるように西へ流されていた。


 昼食は歩きながら食べた。丈の低い草しか生えていない草原は見晴らしが良かったが、逆に見張られている気がして落ち着かなかった。

 太陽が天頂を過ぎる頃、ランは遅れそうになってレプカの背につかまった。そうしなければ同じペースで歩けないほど、疲労が限界に達していた。

「ラン、大丈夫か?」

 先頭を行っていたテオが、振り向いて訊ねる。答えようとして、ランは目を見開いた。

 ランの表情の変化に気づいたテオも、視線を街道の先へと向ける。

 そこに、『何か』がいた。それは透明な存在だったが、それのいる場所だけ向こうの景色が歪んで見えることで、そこに何かが存在していることがわかる。

 魔力分布をサーチする必要すらない。敵意と共にぶつかってくる強烈なまでの魔力は、間違いなくそれが風の神であることを示していた。

「風の……」

 後退りながら、ランは呟く。

 ――逃げるのか?――

 思考に浮かび上がった言葉は、風の神からの問い掛けだ。言葉に変わる前の思考そのものを伝える方法は、神々に特有の情報伝達手段だった。

 ――為すべきことはわかっているはずだ、人の子よ――

 自分の中で言葉に変わる思考に、ランは首を横に振ってまた一歩後退った。

「私、今はまだ行けない」

 震えそうな声を抑えて答えると、冷たい怒りが吹き付けるように伝わってくる。

 ――許されると思うのか。我らを統べるものに全ての滅びを願ったお前が。許されると思うのか。数えきれぬほどの我が同胞を消滅へと追いやったお前が――

 少し遅れてやって来た沸き上がるような怒りの思考は、隣のテオまで伝わったようだった。

「ラン、あれは何だ」

 テオが低く身構えながら問う。

 ――我は風の神。だが、狂える神ではない――

 揺らめく空気の塊は少しずつ密度を増しながら応えた。風の神の向こうに見える景色が、より強く歪んでいく。

 ――そなたは我らを統べるものと契約を交わした。契約は成されねばならぬ――

「わかっています」

 刺すような敵意に怯えながら、なんとか声を絞り出した。

 ――では、なぜ約束を守ろうとしない? なぜユリンへと向かう? 我らの力の及ばぬ場所へ――

 ランは目を伏せる。風の神に通じる言い訳など持っていなかった。

「……ユリンへ、届けなければならないものがあるのです」

 ――我らはユリンへは手を出せぬ――

 風の神の思考に、再び強い怒気が宿る。

 ――ユリンまで行かせると思うか!――

 怒気と殺気が膨れあがり、同時に揺らめいていた風が一気に放出される。

「下がれ!」

 様子を窺っていたテオが、異変に気づいてランを突き飛ばした。呆然と見上げる視線の先で、テオが張った結界を風が切り裂く。

「我が魔力を糧と為し、大地よ鳴動せよ!」

 飛び退きながら剣を抜いたテオが魔術を発動させる。魔力をまといながら鋭く隆起する大地に追撃されて、揺らめく空気は空へ浮かび上がった。

 ――退け、人の子よ。その娘は我らとの契約の元にある――

 テオは答えず、低く呪文を唱える。

 ――……そなたをも敵とみなすぞ。良いのか――

「好きにしろ」

 言葉と同時に、テオの剣が稲妻を纏う。

「……ラン」

 風の神から視線は外さないまま、テオは小声で呼びかけた。

「合図をしたらリョクに乗ってユリンまで走れ」

「……でも」

「奴が狙っているのはお前だろう。俺のことは心配しなくて良い」

 テオは落ち着いた口調で畳み掛ける。

「……テオ、だけど……」

 ランはペンダントを握り締めて逡巡した。

「お前を守りながらでは戦えない。いいから行け」

 獲物を狙う肉食獣のように、テオが身体を低くして剣を構える。

「……今だ」

 声と、踏み出すのとが同時だった。

 ランははじかれた様にレプカに飛び乗った。レプカが走り出したのが、驚いたためなのかテオに命じられたためなのかすらわからない。レプカの背につかまっているだけで精一杯だった。振り返って見る余裕などなく、テオと風の神の様子も全くわからないまま、ランはレプカにしがみついていた。


 どれほどそうやって走っただろうか。ふいに思考が「止まれ」と命じた。従わずにはいられない不思議な強制力に、レプカの足がゆっくりと止まる。

 ――ユリンへは行かせぬ――

 レプカの背から降りて振り仰いだ上空には、風の神がいた。揺らめく空気は先ほどよりも希薄で、時折風の神を戒めるように電気的な火花が散る。力が弱まったせいか、揺らめく空気の中心に、神の存在の核となる魔力がうっすらと透けて見えていた。

「……テオは……?」

 風の神は答えず、ゆっくりと周囲の空気を取り込み始める。

 ――これで終わりだ――

 目に見えるほどの強力な魔力を宿した風が渦巻くのが見えた。ランは咄嗟に目を閉じて、レプカの首筋に顔を埋める。

 泣き叫ぶようにも聞こえる、強い風の音がした。

 けれど、いつまで待っても予測していた衝撃は来なかった。ランはゆっくりと顔を上げて、もう一度天を振り仰ぐ。ユリンの方角からさっき神がいた場所まで光の筋が延びているのが見えて、ランはようやく状況を理解した。

 気付かぬ内に、ユリンの――天籟てんらいの砲座の射程内に入っていたのだ。

 正確に風の神の核となる魔力を打ち抜いた光の筋は、瓦解した風の神の魔力と共にゆっくりと空へ溶けていった。

「テオ……迎えに行かなきゃ……」

 視界を歪ませる涙を拭って、ランはもう一度レプカの背によじ登る。レプカは素直に反転し、速足で来た道筋を辿り始めた。


 テオは思ったより近くにいた。負傷した肩口を押さえ、レンガの道に仰向けになって瞳を閉じていた。

 ランはレプカが完全に止まる前にその背から飛び降り、傍らに膝をつく。

「テオ」

 呼びかけると、テオはうっすらと目を開いてランを見た。

「待って、今、治すから」

 傷口に手を当てて念じる。ランの呪文に応える神々は少なく、傷がふさがるスピードも遅い。

「……無事……だったのか……」

 ぼんやりとした無声音でテオが呟く。

「……風の音がした」

「ユリンの砲座が……風の神を滅ぼしたの。その音だよ」

 呪文の合間に答えると、テオは息を吐きながら小さく頷いた。

「……天籟の砲座……なるほどな……。まあ、無事で……何よりだ……」

 テオは言いながら、眠るように意識を手放す。

 泣きたいような気持ちでテオを見下ろしていたランは、軽快なエンジン音に目を上げた。ユリンからの迎えの車が、こちらへ近づいてくるのが見える。車はランの目の前で止まり、中から作業着を着た男が二人降りてきた。

 二人の男はテオを手早く担架に乗せ、後部の寝台へ運び込んだ。車には簡単な救急施設も整っていて、簡易寝台に寝かされたテオはすぐに手当を施される。


 手当が一通り終わった後、ユリンへ向かって出発した車の中で、ランは静かに寝息を立てるテオの胸に耳を当てた。脈打つ音がちゃんと聞こえて、生きているのだと確認できる。そっと鼻面を寄せてきたレプカに、ランはようやく微笑んだ。

 目を閉じて、ずっと思い出さないように目を逸らしていた事を考える。


 あの日。ユリンへ向かって飛び立つ半年ほど前のことだ。

 ランは真夜中に目が覚めて部屋を出た。誰かに呼ばれたように思ったけれど、もしかしたら呼んだのは自分だったのかもしれない。寂しいと思ったのだ。それが思考を伝える、神々に特有の呼びかけだったのか、自分自身の寂しいという感情だったのか、今のランには判断がつかない。

 暗い廊下を非常灯の光を頼りに進んだ。居住区画から出る扉のIDカードセンサーのうちの一つが、壊れたまま放置されていることを知っていたので、その扉へ回って手動で居住区を出た。警備員室の前をカウンターに隠れながら通り抜けて、普段は立ち入りを禁じられている特殊研究区域へ向かった。警報にも引っかかることなく、研究者であるランも滅多に立ち入ることのない、研究塔の最奥まで辿り着くことが出来た。

 廊下を照らす非常灯の、淡い緑色の光。聞こえるのは低くうなる空調のモーター音。足音を立てないように靴を脱いだ足には、ひやりとしたリノリウムの感覚。いつもと変わらない研究塔の廊下なのに、まるで海底の洞窟に迷い込んだような気分だった。

 海底の洞窟の奥底で出会うとしたら、その相手は何だろう。人魚姫が自分を人間にして下さいと頼みにいった魔女だろうか。願いを叶える代わりに、重い代償を要求した。

 その時ランが出会った相手も、ある意味では魔女だったのかもしれない。


 最高機密区域の扉が開いていた。そして、そこで誰かが泣いていた。何故かそうするのが当然のことのように思えて、ランは迷うことなく研究室へ足を踏み入れた。

 無機質な研究室の床にはチューブやコードが走り回っていて、壁際に円筒形の水槽が六つ、等間隔に置かれていた。水槽は腰ほどの高さまである装置の上に載っていて、天井に届くほどの高さがある。

 その水槽の中の一つに、『彼女』はいた。両手で顔を覆って泣いていた。

 水の入っていない水槽の中に浮かぶ彼女の周囲を、銀色の長い髪がたゆたっている。人の姿はしていたけれど、彼女が神であることはすぐにわかった。独特の気配と強い魔力が、神でなくては有り得ないものだったからだ。白い布で造られたように見える衣装も擬態によるものなのだろう、所々構造が奇妙で、縫い目も見あたらない。

「なぜ泣くの?」

 声をかけると、『彼女』は顔を上げてランを見た。薄青い瞳が不思議そうに見開かれる。涙は出ていなかった。

「ここにいなくてはならないから」

 わずかな角度や表情の違いで、少女のようにも大人の女性のようにも見える彼女は、金属質の残響を伴う澄んだ声でそう言った。

「どうしてここにいなくてはならないの?」

『彼女』が思考ではなく、声で語りかけてきたことに驚きながら、ランは再び訊ねる。

「ここにいろと言われたの」

 その言葉で、『彼女』が誰かと契約を交わし、それに従っているということがわかった。神々は自らの力では約束を破れない。

「ここにいたくないの?」

 ランがそう訊ねると、不思議と人間じみた仕草で『彼女』は頷いた。

「さびしいから。……ここには、私のことを好きでいてくれる人はいない」

 彼女が話すたびに、水槽のガラスに幾何学模様の光が走る。波立つように現れる紫色の光は、回路の上を走り抜けながら青、緑、黄色と色を変え赤に達して、現れたときと同じように薄れていく。複雑で強力な魔力封じの結界だ。

 それでも、目を閉じれば感じることが出来た。強い強い、風の力。

 最近、風の神々が研究塔へ攻撃を仕掛けるという事件が増えていたことを思い出す。そして、彼らが呼ぶ誰かの名前を。

 風を統べるもの。彼女が、そうなのだ。

 確信は驚きへと変わり、ランは思わず彼女に触れようと手を伸ばした。

「私、あなたの名前を知ってるよ」

 触れ合うことを阻む水槽のガラスに手をついて呟いたランに、彼女は不思議そうに瞬いた。

「……フィウスタシア」

 かすれた声で呼びかけると、彼女は微かに微笑んだ。

 研究塔に捕らわれた二人は、そんなふうにして『友達』になった。

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