Anxiety(不安)
「これは一体……」
地下のラボに戻った所が目にしたのは、介護ベッドに固縛された梓の姿だった。ドアの閉じる音、所が発する声に気づいて梓は首を目一杯捻る。
「創太郎なの?」
ベッドに歩み寄った所は皮製バンドの拘束を解きながら訊ねる。
「あいつは君に何をしたんだ」
「ごめんなさい、何も覚えていないの。気がついたら伊都淵君は消え、私がここに……」
何が起こったんだ、伊都淵は梓の意識を操作したとでもいうのか。そんな安物のSF小説みたいなことが起こり得るはずはない。だがそうとでも考えなければこの状況は説明出来ない。所の表情の中で困惑が揺れ動いていた。失態に気づいた梓は、所が戻る前になんとか拘束だけでも解こうともがいたのだろう。鬱血した手首をさすりながら心配そうに訊ねる。
「どうすればいい? 彼が警察へ駆け込んだりでもしたら、私達は破滅よ」
所はふむ、と言って腕を組み、考え込む表情になった。そして徐ろに口を開く。
「そうはすまい。あいつの経済状況は逼迫している。俺の誘いに疑いもせず、のこのこやってきたくらいだからな。おそらく入札のためにKYに戻るのではないだろうか。脳の開発、門外漢にとってこれほど荒唐無稽な話はない。それを警察に持ち込んで信じさせることと、どちらを優先すべきか。今のあいつなら、その程度の判断を間違うはずはない。ついでに自宅へ戻ってくれるといいんだがな。そうなればヤツの戻るべき場所がここしかないことに気づくはずだ」
「どうゆう意味?」
「いずれわかる。それに増殖したニューロンが死滅した時、あいつはもとのボンクラに戻ることを知らない。そして我々にも、その反動が実験動物と同じであるかどうかはわからない。貴重なサンプルだ、車にでも轢かれたら困る。もう一度例の調査員に頼んでみよう」
「彼の脳はどう変化したの?」
「動物実験のレポートは読んだだろう。知覚も認識力も格段の進歩を遂げたのは間違いない。しかし時定数を最大にしても測定不能な脳波などは見たことがない。俺の想像を完全に上回ってしまっている。それがどれほどのものかを知るには、あいつを捕まえて検証を続けるしかない」
「大丈夫? 私、何だか嫌な予感がするわ。だって――」
「予感? そんな根拠のないものに惑わされるんじゃない。全ての事象は原因があって然るべき結果につながる。膨大な情報処理能力を得た伊都淵が、君に催眠術をかけることなど雑作もなかったはずだ。合理的に考えればそれしかない。君もそう思うだろう」
梓の言い分を一蹴したのは、所自身、同じ不安を感じていたからに他ならない。しかしそれを認めれば梓と同じく恐怖に囚われることになる。彼がピプノセラピー(催眠療法)を口にしたのは、それが理由だった。硬い表情のままの梓を解きほぐすよう、所が口調を緩める。
「心配は要らんよ、今はまだ伊都淵の進化がどれほどのものか把握出来てないから、そう感じるのだろう。人は未知なるものを恐れるというからな。検証さえ済めば全ては俺達の掌の内。君の不安も早晩取り除かれるさ」
しかし、もし梓の不安が正鵠を射ていたとしたら……最善を願い最悪に備える。自身の処世訓に則って綿密な計画を立てる必要がある。所は電話を手に取った。