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P300A  作者: 山田 潤
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Arousal(覚醒)

「嚥下しないつもりか?」

 何故わかるんだ? きつく結んだはずの口が痴呆のようにぽかんと開く。

「脳波計が繋がってることを忘れるな。そういうこともあるだろうと思って、お前が眠っているうちに投薬は完了している。薬効があらわれるのに約四十分。そろそろのはずだ」

 えっ、もう飲まされちゃったの? そんな殺生な……きっと僕の期待値を表わす脳波はガクンと下がったことだろう。ついでに眉尻も下がったようだ。

「ははは、いちいち判りやすい反応を示してくれる。お前なら脳波計などなくとも表情を見ているだけで十分だったな。ついでにもうひとつがっかりさせてやろう。さっきの時間稼ぎの目的は会社か家族が行方を探してくれることを期待したんだろう? お前を見つけ出した興信所の調査員が、学会のお供に五日ほどお前を借りると伝えてくれている。奥さんはどうぞ、どうぞ、と言われたそうだ」

 あのバカ……うだつの上がらない営業マンに医師のお供が勤まる訳がないだろう。僕は不貞未遂を棚上げして呑気な妻を責めた。

「五日だって? 今日は何日だ? 入札の説明会はどうなる? あの約束もバックれるつもりだったのか」

「この前、お前と一緒に居た青年が行くさ。まあ見てろ、お前が覚醒すれば数字なんてものは何の意味も成さなくなる。理論通りに行けばの話だがな」

「理論通りに行かなかったら僕はどうなるんだ、死ぬのか?」

「失敗例は皆無だと言ったろう。さあ、お喋りは終わりだ。楽しかったぞ。こいつはお前のためを思ってのことだ、悪く思うな。梓」

 梓は僕の口にマウスピースを押し込もうとする。僕は歯を食いしばって抵抗しようとした。しかし梓に腋をくすぐられた途端、あひゃひゃひゃとだらしなく笑って口が開いてしまった。続いて梓は、僕の頭を皮製のベルトでベッドに固定した。睨みつける僕を見返す彼女の瞳は、子供をあやす母親のように穏やかだった。


 〝激痛″ そんな言葉で表現し切れないほどの痛みだった。万力で頭を挟まれ、ぎりぎりと締め上げられて破裂する寸前だとでもいえばわかってもらえるだろうか。マウスピースと拘束バンドなしでは舌を噛み切っていたかも知れない。だが元はといえばこいつ等のせいなのだ。感謝などするものか。

 苦悶の海に溺れかける僕に、所の声が届いた。

「身体に関わる情報は全てシナプス伝達で脳内情報に置き換えられる。誘発脳波の値が尋常ではない。自然脳波を越えるレベルで発生しているんだ。微弱な痛みも増幅されているはずだ。生存本能に頼って無意識に行われていた操作を意識下に置け。アドレナリンの分泌も痛覚の遮断も、今のお前なら制御出来るはずだ」

 他人事だと思って好き勝手言ってくれる。僕の脳味噌のどれがそのカタカナ名称の部品で、どうやって回路の遮断をすればいいんだ。なんとかの分泌コントロールも聞かされてはいないぞ。これか? 違うな――これほどの痛みによく気を失ったりしないもんだ。そんな思考が幾つも並行して頭の中を流れて行った。

「肉体、感覚、全ての指揮権はお前の脳にある。それを認識しろ」

 分かったってば――これか? 一気に苦悶の海は消え、ヤシの木が一本だけ生えた小島にうちあげられたイメージが湧いた。ふう、痛みは去ったぞ。あの回路を覚えておかないと――その司令が迅速に伝わり、回路には正確なアドレスが割り当てられた。

 僕はどうしちゃったんだろう? 感覚が研ぎ澄まされるというのは、こんな状態を言うのだろうか。全ての思考がクリアで規則性を保ち、雑駁な情報が奔流の如く迸っているというのにのに、感情には小波ひとつ立っていない。

「痛みは治まったか?」

 問い掛ける所の顔が、痛みを堪えていた涙で滲む。

「ああ、ひどい目にあわせてくれたもんだ」

「感覚に変化はある? 今まで見えなかったものが見えるとか、聞こえなかった周波数域に聴覚が反応するとか」

 梓に目線を振った。この部屋で同じ苦しみを味わった実験動物の怨念が見えるとでも言って欲しいのか。幼き憧憬を弄ばれた僕の怒りは、携えたクリップボードにペンを走らせる梓へと向かった。

 ぐわっ、と獣のような声を発して梓がしゃがみこむ。おめでたい僕は怒りを忘れて梓を案じるが視界からはみ出した彼女の姿は見えない。

「どうした? 大丈夫か?」

「ええ、今何か大きな圧力が、私の頭の中に……」

「それは自責の念ってヤツだろう。僕のじゃないよ、他の実験動物君達のだろうな」

 助け起こした所によりかかったまま、梓は僕をきっと睨みつける。ゴルゴダの丘で磔にされたメサイア同様、未だ身動きひとつ出来ない僕だったが、案外気の利いた嫌味を言えるものだ。今のところ命に別状はない。拘束が苦にならなく思えてきたのは、彼等に一矢報いることができたせいなのか。よし、もういっちょ。僕は調子に乗っていた。

「悪魔に魂を売り渡した罪深き子羊が二頭見えます」

「俺に言わせれば悪魔はお前だよ、徐波、速波共にデタラメでアーティファクトも雑多だ。こんな波形は動物の脳波には見られなかった。お前は今何を考えているんだ」

「僕をひどい目に合わせた二人を誰にいいつけてやればいいかと考えてる」

「……余裕を見せてくれるじゃないか」

 所の言葉の端々に戸惑いと狼狽が感じられた。彼の目からは先ほどまでの冷淡な光が消え、視線は彷徨いがちになっている。精神的な立ち位置はイーブンにまで押し戻せたようだ。

「次はどうする? 俺がどう変化してればお前は満足なんだ?」

「とうとう〝オレ〟になったか。言っておくが被験者と観察者の立場は何も変わってはいないぞ。身動きの出来ないお前だ。筋弛緩剤を静注すれば一巻の終わりなんだからな」

 所の台詞は物騒ではあったが、臆する必要などないと、どこからか声が聞こえた。拘束などなきが如し、だが今はまだその時ではない。所に病院で出会った時に雇ったナノサイズの僕らーズ、彼等のそれぞれに人格と知性、そして適正なポストが与えられたような感覚だった。彼等のアドバイスに従っていれば間違いないとの確信が生まれていた。

 所の指摘通り、変化した一人称に合わせて彼等の呼称もオイラーズへと昇格させておこう。オレラーズは少々語呂が悪い。


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