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P300A  作者: 山田 潤
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Booby Trap(ブービートラップ)

 しかし人は変われば変わるものである。僕の記憶にある中学時代の所は決して目立つ存在ではなかった。何せ週に三日登校したら担任が驚いていたくらいだったのだから。誰も明言はしなかったが、自閉症なのではないかとの噂もあったくらいなのだ。

 それが今や上司たる教授は傀儡扱い、病院内での政治力までものにしてしまっているという。そんな彼の自信に満ちた物言いに僕は畏怖すら覚えていた。

 中学の三年間皆勤賞だった僕は、所家への連絡係を仰せつかった幸運を、数十年を経た今大いに実感していた。昼間感じた両親への小さな不平は、調子良くも健康な体に産んでくれた感謝へと姿を変えていた。

「また検査を頼んだの? これで何人目?」

 リビングに戻った梓が呆れたように言った。どこで聞いていたのだろう? こちらからキッチンの物音は聞こえなかったのに――そうは思ったが、酔いと有頂天は些細な疑問など瞬時に忘れさせる。

「へえ、そんなに数が必要なんだ」

「石田君も深尾君にもよ。伊都淵君の知らない高校や大学の同級生も含めたら二十人は下らないんじゃないかしら。家に招いた人全員に頼んでいるんだもの」

 石田や深尾は僕より早く成長し妖艶さを身に着けた梓に謁見出来ていたのか――腹立ち紛れに架空裁判の検事側証人リストから、その名前を削除してやった。それはともかく二十分の検査で大きな取引をモノに出来るなら、躊躇する理由などない。疎遠になっていた石田達だったが、命に別状をきたすほどの異変を伴う検査なら風の便りぐらいには聞いたはず。で、あるなら脳波の検査など怖るに足りず。それにもし僕の脳に重病の余兆でも発見されれば、この親切な所が教えてくれるだろう。無料検診ぐらいに考えておけばいい。何より僕の正面に座る梓の笑顔が、全ての不安を優しく包み込んでくれる――と、その時は思っていた。

「いつ行けばいいんだ?」

「放射線科に予約を入れないとな、二~三日後ってとこかな。決まったら知らせる」

「わかった。それで、えっと……」

「入札の件だろう? 任せておけ」

 言いにくそうに交換条件の確認を申し出る僕の意図を所は容易に読み取った。頭のいい人間との会話は、これだから助かる。

「またいらしてね」

 社交辞令と分かってはいても、こんな美人にそう言われればのぼせ上がってしまうのは男の性だ。玄関まで見送りに出てくれた梓の表情に、ほんの少しだけ翳が射したように思えた。

「社交辞令じゃないの、私……」

 僕は固唾を呑んで次の句を待つ。

「ううん、何でもない。おやすみなさい」

 脳内で、恩人となるはずである所の細君を呼び捨てにし続ける後ろめたさは残ったが、この時、梓は何を言おうとしたのだろう? 後ろ髪を惹かれつつ所邸を跡にした僕の思考は、それに埋め尽くされていた。


 数日後、検査の準備が出来たとの連絡をもらって、僕は所の勤める病院へと出向いた。約束の時間に外来受付まで迎えにきてくれた所は、僕を放射線科へ脳波検査へと連れ回した。脳波を調べる間は、本でも読んで寛いでいろ。ただし絶対に眠るなよと、手渡されたのはなんと学術書だった。閉じようとする瞼の圧力に必死に抵抗したが、数分は夢の中だったかも知れない。険しい顔をして脳波計を眺めていた所には気づかれなかったようだ。

「よしっ! これだ」

 所の声が僕に惰眠からの覚醒を促す。

「えっ、どれ?」

「お前の脳波だよ、CTとMRIは後で見るが、俺の要求を満たしてくれるのは、どうやらお前の脳細胞のようだ」

 少年のような笑顔を浮かべる所に、僕は自分の脳味噌が一次審査を通過したことを知った。

「これがか?」

 僕は自分の額に指を当てる。学業において傑出した成績を残せた分野は何もない。その脳味噌を有難がる所が不思議ではあったが、期待に応えられるイコール営業成績アップといった図式の完成に近づいたように思え、僕にも笑みがこぼれた。

「念の為に聞くんだが、変な病気なんかないよな?」

「お前の脳にか? ああ、健康そのものだよ。どうだ、今夜も家へ来ないか? 例の数字を渡せると思うんだ」

 行くさ、行かいでか。思い切り首を振る僕の頭から幾つかの電極が外れ落ち、所は顔をしかめた。


 玄関への出迎えが梓だったのは嬉しかったが、ガレージに所のボルボがないのが気になった。今回の訪問の主たる目的は豪華なディナーでも梓との胸弾む会話でもない。例の数字を一刻も早く手に入れたかった僕は、所の所在を訊ねる。

「夕方に一度戻って、伊都淵君に渡せって封筒を置いていったわ。急な手術が入って助手についたみたいなの。折角来てくれたんだし上がって行かない? うちは子供が居ないから、ひとりでは家の広さが余計に寂しく感じてしまうの。話し相手が私では不満かしら」

 数字の入手が確実なら、梓と二人きりで話せるひと時に不満などあろうはずがない。僕はぶるんぶるんと首を横に振った。手術ってどのくらい時間がかかるものなんだろう? リビングに通された僕がそんな疑問を抱いたのは、心のどこかに〝あってはならぬ展開〟を期待していたのかも知れない。

 お父さんは決して変な気持ちではないんだ。お前達を養ってゆくためのコネクションを深めるために、その人の奥様の退屈を紛らわせてあげるだけで――そんな言い訳を一瞬浮かんだ妻と娘達の顔に、ぐいと押し付けて消し去る。

「お腹は空いてない? 創太郎が戻らない時は私も夕飯はとらないの。でもビールとお摘みぐらいなら用意出来るわ」

「どうぞ、お構いなく」

 梓がくすりと笑った。

「石田君達は昔のように岩下って呼ぶわ。話し方も昔のままよ、伊都淵君もそうなさいな」

「僕は、その……ほら、仕事でお世話になる訳だし」

「なんだか、寂しい」

 そう言って目を伏せる梓に、僕の胸は否応なく高鳴る。

「伊都淵君、昔は僕なんて言わなかった。クラスのリーダーシップをとっていたあなたは、俺についてこいって感じでセクハラ教師も弾劾してくれてたじゃない。男らしく頼もしかったあなたが私は大好きだったのよ」

 同窓会などで『俺は昔、君が好きだった』などという明らかにラブアフェア狙いの台詞を口にする連中は少なくない。しかし、それはすべからく男の所業である。そんなタブーがこぼれ出る梓の唇に僕の視線は釘付けになっていた。二人目の娘を産んだ後、腰周りとショーツの面積が肥大していった妻の方が梓よりみっつ若かったのだが、その妻と目の前の梓には例えるなら秋刀魚がメインディッシュの和食と、高級ホテルのフルコースディナーほどの開きがある。

「こ、こんな立派な家に住んで、調度品も凄く高そうだ。何不自由ない暮らしってのは、こうゆうのを言うんだろうね。所は立派なお医者さんだし、僕とはえだいぢがいだで」

 唾液の分泌が滞り、語尾に余計な濁点が増える。料理が金額差だけだったら、即座に道徳心を捨て去っていただろう。しかし所への恩義と家族への責任まで放り投げる蛮勇は奮えない。

「彼が必要としているのは、優秀な助手としての私。妻でも女でもないの」

 口腔の乾きを潤すべく梓が注いだビールをあおる。いつもより苦く感じられるのは、後ろめたさがそうさせているのだろうか。

「……お願い」そう囁いて梓は僕の首に腕を巻きつけてきた。彼女の胸の膨らみを二の腕に感じ、僕の股間は怒張する……はずだったが、そうはならない。それほど飲んでもいないのになと、股間に視線を落とした僕の顔をグイと捻じ曲げ、梓が唇を重ねてきた。しかし挿し入れられた舌の感触を堪能する間もなく僕の意識は遠のいていった。

 この時、いや、僕が陥穽に嵌ったことに気づくのには、もう数時間経ってからのことだ。正しくブービートラップ(バカが引っかかる罠)であった。


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