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P300A  作者: 山田 潤
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Admiration(憧憬)

 休みがちな所のため、彼の自宅が帰路途中だった僕が三日と空けずに足を運んだここだった。広大な敷地はぼんやりと覚えていたが、家は日本家屋だったように思う。機能のみを追求したような怜悧な建築物は、見上げる僕に場違いを申し渡してくるように思えた。

 学校のどうでもいい配布物を届けていた程度の恩義で家に招こうとする所の酔狂さに得心は行かなかったが、腐れ事務長とバカ福井にこれっぽっちの期待も抱けない。僕にとって所は最後の砦だったのだ。

 地位や名誉というものは人間とその所有物を大きく見せるものらしい。そういった意味では、僕のこの.尾羽打ち枯らした姿も当然のことと言えよう。課長とのやり取りを思い出した。

「すいません。県立病院の准教授から食事に誘われているんですが、あがらせてもらっていいでしょうか」

 営業成績の芳しくない者は女子社員の業務も手伝うべし。そんな不文律に縛られた僕のタイムカードは、十七時三十分に記録されていても、社を出るのは毎晩二十時過ぎ。黙って帰ればそれこそ翌日の嫌味がエンドレスになりそうな予感に断りを入れたのだった。

「ほう、やっと給料泥棒の汚名を返上する気になったのか。松井から話は聞いている、准教と同級生なんだって? 何でこうも差がついちゃうもんかねえ」

 あんたに言われなくとも、今日は散々それを実感させられたよ。僕が営業成績の左端に来た暁には覚えてやがれ。あんたを追い越して、その剥き出しの頭頂部を灰皿代わりにしてやる――取らぬ狸の皮算用もいいところではあったが、言葉の暴力に耐え続けた僕のこの程度の夢想にバチは当たらないだろう。

「まあ、しっかり食い込んできてくれ」

 そうだ、あの沙悟浄を見返してやらねば。やる気の燃料は復讐心ばかりでもないのだろうが、今の僕にそれ以外の持ち合わせはなかった。

 石には詳しくないが、きっと大理石なのだろう、御大層な門扉に付けられたインターフォンを押して来訪を告げると、開いてるから入ってこい、と所の声が返ってくる。重厚なドアを開けて入った玄関ホールは三階まで吹き抜けになっていた。本当に一般家庭か、ここは……絢爛豪華なシャンデリアをぽかんと見上げる僕を、部屋着の所が出迎えてくれた。半袖のポロシャツの胸にはD&Gのロゴがある。おそらくバミューダパンツも揃いのブランドなのであろう。上下で3980円也のジャージが部屋着な誰かさんとは、えらい違いである。

 進められるまま肌触りの良いスリッパに足を入れ、リビングへと通された。僕より背の高い置時計や明らかに舶来品と思しき調度の数々をキョロキョロと見回す様は、いきなり都心に放り出されたオノボリさん以外の何物でもなかった。

「ビールでいいか? 今持ってくるから寛いでいてくれ。首尾はどうだった?」

「提出する書類に不備がなければ入札業者としての資格は与えられます。そうは言われたけど事実上の門前払いだなあれは。MSSの連中とゴルフ談義に盛り上がってらしたよ」

「MSSか、確かあそこはメーカー直営だったな。数字じゃ勝負にならんかも知れないな」

「入札は出来ても納入は不可能だってことか――ですか?」

「病院じゃないんだ。敬語は止めろよ、ばかばかしい。同級生として招いたんだぞ、仕事の話もナシだ」

「う、うん……そうだな」

 ちっとも〝そうだな〟ではなかったのだが、最後の砦の門を閉ざされても困る。アルコールの回った彼が鷹揚且つ饒舌、ついでに警戒心もかなぐり捨ててくれることを期待するしかない。僕は逸る自分自身に待機命令を下した。

 リビング奥のドアが開いて――所の細君なのだろう――上品なパープルのブラウスを着たショートカットの女性が、ビールとグラスを載せたトレイを運んでくる。僕は立ち上がって二つに体を折った。

「お邪魔しております。この度は先生にお招きにあがり、図々しくも――」

『将を射んと欲すればまず馬を射よ』所の奥方にはこう挨拶をしようと諳んじてきた言葉を殆ど棒読みで伝える。それが終わる前に奥方の声が被さってきた。

「お久しぶり、伊都淵君は全然変わらないわね」

 白い歯を見せ艶然と微笑む女性のくだけた口調に、僕は中腰のまま彼女を見上げた。

「へ?」

 理解が及ばず瞬きを繰り返すだけの僕に、所がにやにや笑いを向けてくる。

「会わせたいといっていたのは女房だよ、岩下梓。覚えているだろう」

 僕の頭の中は一気に二十数年を駆け戻った。忘れっこない、若干個性には欠けるが本来美人というものはそういうものなのだろう。成績は常にクラス一・二位。才媛を地でゆく岩下梓に憧れる輩は山ほどいたのだが、神々しいばかりの美しさに気圧されたのか、中学校の三年間誰一人声を掛ける者がいなかったという伝説の女性だった。当時の所との組み合わせなど、誰が想像したたろう。

「確か大学を出た後は、看護師になったとか聞いていたんだけど……」

 一度だけ顔を出した同窓会での記憶を口にすると梓は明るい声で言った。

「ピンポーン! 覚えていてくれたのね、嬉しいわ。私の勤務していた大学病院に研修医で来た創太郎と再開したって訳、運命的でしょう」

 女性というものは、なんでもかんでも運命と結びつけるのが好きな動物だそうである。中学生だった頃の僕にその知識はなかったのだが、何とかして学校以外で彼女を見る機会はないものかと、自転車で梓の自宅周辺を走り回ったものだった。あれだけ通って一度も拝顔出来なかったのだから、僕と梓の運命は太陽の昇る水平線と沈む地平線ぐらいかけ離れていたのだろう。

「こいつは看護師にしておくには勿体ないぐらい医学に造詣が深い。結婚しても子供が出来るまではと病院に引き止められたんだが、優秀な研究助手として手元に置いておきたかったんだ」

 憧れの梓を〝こいつ〟呼ばわり出来る幸運に気づいてないかのように所は平然と語った。建物にも豪華な調度にも、感心こそすれ羨望を抱かなった僕に、不毛な嫉妬心が沸き起こる。

「えへへ、だから料理はあまり得意じゃないの。口に合わなかったらごめんね」

 美人で看護師として優秀で、その上料理まで上手だったら僕の嫉妬心は発毛してしまっただろう。あくまでもこれは比喩である。梓の謙遜は、ほどなくして証明されるのだが、嫉妬心に毛は生えてこなかったのだから。

 そして、その時間が到来する。テーブルに並んだ料理は玄関ホールで見上げたシャンデリアのように豪奢だった。置時計同様、一般家庭の夕食に並ぶようなものではない。一般庶民の僕は、いちいち『これは何?』と確かめながら料理を口に運んだ。テレビで見ることはあっても、北京ダックを食したのは生まれて初めてのことだった。なんとしても学生時代のネットワークを復活させ、欠席裁判において所の有罪を立証する。その検事役に僕はうってつけだったはずだ。

「今期の機器納入はお前の会社が一手に引き受けろ」

 アルコールと豪華な食事、さらには美貌の人妻が三位一体となって作り出す空間に酔いしれ、待機中だった僕の営業マン魂は、来訪の目的をすっかり忘れ去っていた。当たり障りのない話題ではあっても高嶺の花の一言一句がリビングを竜宮城へと変容させていたのだ。梓が席を立った今、僕の意識は竜宮城から所邸のリビングへと引き戻された。それに伴いクリスタル製のビアグラス内側に貼り付いていた泡がゆるゆると底に落ちてゆく。

「え?」

「入札だよ、売れないと困るんだろう」

「そ、それはそうだけど、また何で? それに〝准″ってくらいだから、教授の意向とかもあるんじゃないのか? 事務長さんも居られるし、お前の一存で決められるものでもないんだろう」

「小出さんか、あの爺さんは手先が器用なだけの手術職人だよ。俺が論文を書いてやっているからこそ今の地位にある。尤も俺が引き上げられた理由もそこにあるんだがな」

 教授の名前は小出というのか、酔いの回ったパペッツの回路に、みみずがのたくったような文字で書き込む。一時間も経てば判読不可となっていたことだろう。

「入札とはいえ、KYみたいな弱小がMSSに太刀打ち出来るはずもなかろう。例え、お前のところが出した数字が適正だったとしても、事務長権限で一括納入の利点を主張。そして全てがMSSに、ということは過去に何度もあった」

 一気に良いが醒め、沙悟浄の頭でタバコを揉み消す光景が遠のいて行く。顎の落ちる僕に構わず、所は続けた。

「だから俺が助けてやろうと言うんだ。ただし条件がある」

「ええと、交際費は出ない僕だから……」

 金品や賄賂の要求に対応出来る僕なら、会社であんな目には合ってない。あの置時計は幾らするのだろう? 先行投資の名目で娘達の学資保険を解約したら妻は怒り狂うだろうか。僕の懊悩を所の笑いを含んだ声がバッサリと切って落とす。

「バカ、そんなんじゃないよ。お前の脳波とCT、それにMRIをとらせて欲しい。研究の検証にはどうしてもn(数)が必要となる。病院関係者や医学生の偏った脳味噌では不十分なんだ」

「たったそれだけ?」

「ああ、準備を含めて約二十分。事務長に呼ばれたとでも言えば、会社は抜けられるだろう」

「それは勿論。でもこんな脳みそが、お前の研究に役に立つのか?」

「確証はないが、かなり高い確立で、お前は俺の探していた脳の持ち主だと思う」

「ふうん、これ以上悪くなることがないなら僕は構わない」

「そうか、ありがとう、恩に着る。では仕事の話に戻ろう。入札である以上、誰もが納得する形で落札してもらわねばならん。全ての数字を明かしてやるよ。お前はそれを会社に呑ませるだけ。万が一、MSSや他所の業者の数字がお前の会社を上回っても、今度は俺が一括納入の利を事務長に解いてやる」

 どの学業に於いても平均点以上は取れなかった僕の脳味噌に、こんな使い途があったのか……この夢のような出来事が、願望が高じて見せられた幻覚でないことを僕は切に願っていた。


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