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P300A  作者: 山田 潤
39/40

Ravine(深淵へ)

 所邸到着時刻は午前十時四十四分、玄関前に立つ所は疲弊しきった顔で俺達を出迎えた。

「そちらの女性は?」

「同僚だよ、送ってもらったんだ」

 日高依子に存在を隠すよう、俺は目配せをする。

「そうか……待っていた。頼む」

 彼女が去るのを確かめずに踵を返す所の脳裏から日高依子の存在は消されたのだろう。彼を追って俺達は地下ラボへと向かった。

「変化はないんだな?」

「ああ、お前の言った通りだった。バイタルは安定しているが、何度呼びかけても反応はない。脳波もこの通りだ」

 所は俺が出掛ける前となんら変化のない脳波計を指した。冷房が効いているせいだけではない。主人の半分を失った地下ラボは悪意の磁場に侵されているように思えた。機器の上げる電子音や無機質な壁が、俺から勇気を奪い取ろうと迫ってくるような錯覚に陥る。無数のセンサとチューブに繋がれた梓はぴくりとも動かない。俺は彼女の顔を覗き込んだ。

《戻ったよ、何かわかったことはあるかい?≫

《ありがとう。あくまでも感覚的なものだけど、私の意識は脳の左半球に押し込められて、脳梁が分断されているように感じるわ。分析力や潜在的認知力は機能しているの》

《これが見えるかい?》

 梓の右目を掌で覆って、左目の前で手を振ってみる。

《右視野が狭いみたい》

 彼女の推察は正しかった。

《どうすれば君を助けられる?》

《わからない。意識が押し込められたプロセスは激しい痛みのなかで認識出来ていないの》

《情報処理能力はどうだ? 以前と比べて活発になっているようかな?》

《ううん、P300Aは残留していないみたい。グルタミン酸に駆逐されてしまったのでないかしら? 適応出来たあなたは稀有な例なんでしょうね》

《何せ、サル並みの新大脳皮質だからな》

《ごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃないの》

《俺も嫌味で言ったつもりはない。進化は人類に万遍無く訪れるのを待つべきだってことを言いたかったんだよ》

《もうひとつの意識を感じる。これは――創太郎のじゃない、誰か居るの?》

《彼女は俺の友人だ。生まれながらにこの力を手にしていたらしい。君を救い出す力になれるかも知れないと言ってついてきてくれたんだ》

 俺と所が並んで立つ反対側から日高依子が身を乗り出し、梓に向かって会釈をした。目線さえ動かさない梓だった。所は依然として日高依子の存在に気づいてないように振舞っている。

《あなたが危険だと思ったらそこで引き返してね。その可愛らしいお嬢さんにも無理はさせないで》

 俺は日高依子に意識を振った。

《聞いたかい?》

《はい》

 彼女が息を呑むのが感じられた。すべきことは確定していてもその手段は杳として知れず、とりあえず飛び込んでみてそれから考えようという無鉄砲極まりない作戦だったのだから無理もない。

「所、俺は感覚で彼女の意識を探る。お前は脳波計に張り付いて変化があったら知らせて欲しい。俺が反応しなければ背中を張り倒すなり何なりして合図してくれ」

「わかった。大丈夫か」

「正直言って大丈夫じゃない。怯えきっているオイラーズが、どれほどの力になってくれるか見当もつかんよ」

 俺は極力深刻にならないよう笑顔で答えた。が、所は悲痛な面持ちで目線を落とす。

《頼むぞ》

 オイラーズを隅に追いやり、妙に張り切り始めた僕らーズに招集をかける。《おうよ》と、乱暴な返事が返ってきた。こいつ等は何でこうも柄が悪いのだろう。

《入るよ、自律神経から調べて行こう≫

《お願い》

 何故だか新婚旅行で幸と行ったハワイを思い出した。気の小さな俺は初めて行った外国で、ベッドメイクに来たメイドのジョークにさえ怒られているような気分になったものだ。多くの日本人旅行者の居るハワイですらそうだった。これからお邪魔するのは、前人未踏、まるっきり未知の世界。同胞どころか、ひとっこひとりいないところへ飛び込んで行くのだ。その心細さたるやなかった。

《あたしも居ます》

 日高依子のメッセージが届く、俺は梓から顔を上げて小さく頷いた。

「入る」

 所がこくりと首を縦に振ったのを確認して、一気に梓の精神に飛び込んだ。萎縮したオイラーズは予想通り使い物にならず、蛮勇のみに存在意義を示すかのように僕らーズが、ずいずいと歩を進めてゆく。ナビどころか地図の一枚もないのに、彼等は何の躊躇いも見せない。なるほど、彼等には彼等に適した役目があるということか。

《入ったよ、分かるかい?》

《ええ、随分あなたが近づいた気がするわ》

《呼び続けてくれ、君の居る場所へ向かう》

 物理的に行進している訳ではないので、そこがぬかるんでいようが舗装路だろうが、その速度に変化はないが、イメージとしては闇夜のジャングルを進むような気分だった。上下左右、どちらへ進んでいるのかさえさっぱりわからない。

《こっちよ》

 僕らーズの行進は止まない。どうかすると司令官たる俺すら置いてきぼりにされかける。ほどなくして彼等が足を止めた。行き止まりを主張しているようだ。怯えた様子で周囲を見回し意識の洞穴から這い出てきたオイラーズが合流して調査に当たる。自律神経に異常があるようだと言った。彼等の提案に従い雁字搦めになっていた副交感神経の拘束を解くと、梓の待つ深淵への道が開けた。

《どっちだ?》《多分、こっち》精神の内部なのだから方向性などあるはずがない。あくまでもイメージとしてオイラーズが指し示す方向に意識を進める。

《途中参加の連中を重用するのかよ》

 僕らーズの不平が聞こえてきた。

《ここまで来られたのは、お前らのお陰だよ》

 俺は、僕らーズのご機嫌伺いを梓の精神の中でするという極めて複雑な行為を余儀なくされる。気を取り直した僕らーズを先頭に、尚も行軍は続いた。

 閉じ込められた梓の意識は、魔女の城に幽閉されたお姫様のイメージででも見つかるのだろうか。ロールプレイングゲームだと最後にボスキャラが出てくるのがお約束というものだ。未知の状況にも怯まない僕らーズの戦闘力は貴重だ。そもそ、梓の精神にとって俺は侵入者であり異物なのだ。それを排斥しようと、彼女の免疫細胞が攻撃をしかけてくることは充分に予想された。

《油断するなよ》

 俺は混成チームの轡を引き締め、再度梓に呼びかける。

《多分近くに居る、呼んでくれ》

《あなたが見えるわ、ここよ》

 声のする先は、意識のオーバーハングが張り出して見通しが効かない。

《呼び続けてくれ》

 俺はそう叫んで、唯一とも思える取っ掛りに手を伸ばした。懸垂の要領で登る精神の壁に僕らーズとオイラーズの混成チームも体を張り付かせた。

 果てしなく登り続けた気がする。そろそろ中腹だろうと思っても、頂きは一向に見えてこない。

『天才と凡人の差たる一歩は百里を半ばとする』

 古の文豪の言葉が重くのしかかってきた。どうせ俺は作り物ですよ。そうボヤいた瞬間、壁はその行程の終わりを告げた。途中で諦めていたら、若しくは近道を探していたらたどり着けなかった場所であることを悟った。

 梓は魔女の城に幽閉されてなどおらず、地味なオフホワイトのワンピースに身を包んですぐそこに蹲っていた。拘束も檻もない、ただただ瞳を潤ませてしゃがみ込んでいる。俺は手を差し伸べて彼女を立たせた。

 イメージが描く梓は清楚で可憐、そして言うまでもなく美しい。これまたイメージの俺の体温が上昇した。日高依子の咳払いが聞こえたような気がしてその手を離す。

《楽勝じゃん》

《ビビってないで出てこいよ、ボスキャラ》

《ディズニーだったら簡単に見つかるお姫様は偽物だったりもするんだぜ? ちゃんと確かめておけよ》

《まあまあ、無事にたどり着けたことですし》

 萎縮しまくっていたオイラーズまでもが手を取り合って歓喜の輪に加わっていた。その時だった、背中を張られた感覚が俺を襲う。梓の脳波に何がしかの反応があったことを所が知らせてきたのだろう。俺達に緊張感が走った。

 どこからか湧き上がった暗雲が頭上に立ち込め、梓が怯える目になった。本来、王子様役の俺がシュパッと剣を抜くシーンなのだろうが生憎丸腰である。左腰を探る右手は虚しく空を切るばかりだった。

《多分彼女達よ、私をここに閉じ込めたのは》

 免疫細胞の逆襲が今始ろうとしていた。イメージと言うものは蓄積された記憶で投影されるものだ。銅鑼や太鼓の音こそ聞こえはしなかったが、勇猛なアマゾネスの女戦士達が梓の精神の地平線を越えて姿を現す。彼女達に美形が少なかったのは、俺の貧困な記憶と乏しい発想の所以だろう。その数を数千騎と感じたのは、強敵であるといった認識がさせたのだと思う。

 闘うべきか? いや、相手が梓の免疫細胞である以上、交戦は適正ではない。

《逃げるか?》

 俺の提案に混成チームも同意し、脱兎のごとく走り出す。人の意識の内部などというものは、複雑に入り組んだ迷路みたいなもので、全てが入り口にしかなっていない。梓の意識の呼応があってこそたどり着けた場所だった。彼女自身ですら出口が分からないから閉じ込められてしまった訳で、頼りはオイラーズの感覚のみという心細い状況に俺達は居た。

 逃げ遅れた僕らーズの連中がひとりずつアマゾネス軍団に捕獲されては梓の意識から排斥されてゆく。彼等は喧嘩っ早いが弱っちい俺の分身だ。大柄で筋骨隆々とした彼女達にとってエアパッキンのプチプチを潰す程度の労力でしかなかっただろう。情けない……俺は手で目を覆った。そしてそのアマゾネスが梓の分身である以上、俺は先ほど梓に感じた〝可憐で清楚〟 とのイメージを修正する必要がある。単一の精神にそれらを混在さすことが出来る女性とは、何と恐ろしいものなのか。

 などと余裕をかましている場合ではない。オイラーズの誘導に従って走り続ける俺達のすぐ背後にアマゾネスの驚異は迫っている。そして梓の潜在意識は最後に大きな陥穽を用意していた。微かな光を目指し走り続けてきた俺達の目の前に、断崖絶壁が大きく口を広げて待ち構えていたのだ。俺の意識を取り込もうとの目論見か、それとも単なる異物除去が目的だったのかは定かではない。とにかく俺達は足止めを食らってしまった。

《何か手はないのか?》

 オイラーズの面々が頭を抱える。万事休すか――

《伊都淵さん、これを》

 天恵だった。日高依子の声と共に、芥川龍之介は蜘蛛の糸さながら、眩いばかりに光り輝くロープがするすると降りてくる。俺はそれに手を伸ばす。左手で梓を抱きかかえると混成チームの残党もロープにしがみつく。対岸への着地は運任せ、迫り来るアマゾネス軍団を尻目に俺達は岩壁から跳躍した。


 息も絶え絶え、そんな表現が相応しいほど俺達は疲労困憊していた。あれほど居た混成チームのメンバーはほんのひと握りを残すだけ。教養担当のオイラーズが力なく手を挙げたのが不幸中の幸いといえよう。彼等が残っていれば失った兵卒の補充は可能なのだから。

 胸を張っての凱旋ではなかったが、何とか梓の意識だけは……胸を撫で下ろし、周囲を見回した途端に俺は蒼くなる。梓が見当たらない、意識の対岸にもその姿はない。しっかりと抱き締めていたはずだったのにどこで――俺は膝をついて失態を悔やんだ。

《いと……ふち……くん……》

 落胆に沈んだ俺に、暗黒の彼方から梓の微かな呼び掛けが届いた。

「そこか――所、後は頼んだぞ」

 引き止める混成チームを振り切って、濃淡の判別さえままならない漆黒の中へと、俺は身を投じた。




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