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P300A  作者: 山田 潤
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Supplication(祈り)

 出勤前の日高依子に連絡を取り逢いたい旨を伝える。昨夜の非礼を詫び、その後は意識して明るい口調に努めたのだが、生来人の感情に敏感な彼女にそんな作為など通用するはずもない。即座に不自然さを感じ取った彼女は、仕事は休みます、と言った。俺は恐縮して電話を切った。

 皮が破れ、肉の裂けた俺の足は五割増しのサイズまで腫れ上がっていて、ブカブカだった所のサンダルにベストフィットしていた。正に〝怪我の巧妙〟である。人目のある日中に人間離れした脚力を見せる訳にも行かず、俺は目的地までとぼとぼと歩いて行くことにした。日高依子が指定したファミリーレストランまでは十五分ほどの距離だ。上りかけた夏の太陽がジリジリと背中を焦がしてくる。俺は二度ほど体温を下げた。


 平日の午前中だが店内は賑わっていた。専業主婦と思しき集団に、四人掛け・六人掛けのテーブルは七割方占拠されており、そのうちの誰かが五分と開けずにドリンクサーバーに立って行く。我が国伝統の井戸端会議は、趣と河岸を変えて引き継がれているようだ。

 テーブルについて二十分ほど経った時、鈴を鳴らして日高依子が店のドアを開けた。店内を見回すこともなく真っ直ぐこちらに歩み寄ってくる。既に俺の意識を見つけ出すくらいのことなど何でもなく行えるようだ。

 人が来るから、と注文を待たせていたウエイトレスが、日高依子が腰を下ろすと同時に近づいてきた。俺はコーヒーとモーニングプレートのセットを注文する。日高依子も「同じものを」と告げると、ウエイトレスは注文を復唱することもなくテーブルを離れていった。

「急に呼び出してすまない」

《構いません、何があったんですか? それにその足、どうしたんですか?》

「ここでそれは止めておこう。人目につき過ぎる。詳細については――」

 俺の頭の中を呼んで欲しい、と俺はこめかみを指差した。想像してみるといい。街のレストランで向き合って座った男女が一言も語らずに、表情だけが千変万化する。そんな光景を見れば誰だって薄気味悪く思うだろう。俺の提案に頷くと日高依子の柔らかなイメージが頭の中に広がる。それはとても心地良かった。

「もう、決めたことなんですね」

「うん。友人一人救えないで、何がボランティアだって思えてね。所からの電話を受けるまでは、君の期待に応えられるつもりでいた。それは嘘じゃない」

「伊都淵さんは、あたしに嘘なんかつきません」

 彼女の視線は俺の内面までも見透かすように――いや、実際に見透かされいたのだ。

 オイラーズが築き上げてくれた善良さは俺にとって後天的なもので、隅々まで行き渡っているかどうか自信がない。若く魅力的な女性に好意を寄せられ、大切な使命を放り出して易きに流れる途を選択しないよう、俺は必死になって精神の身繕いをしていた。

「わかんないよ、もし君と結婚して俺が浮気したとしよう。その時はオイラーズ総動員で事実の隠蔽にあたらせると思うけどな」

 重い話が気詰まりになった俺は冗談で逃げようとするが、だが意識の首根っこを彼女が掴んで離さない。

「それがなければ、あたしと一緒に居てくれるつもりだったんですね?」

「ああ、妻とは離婚することになった。君がこんな甲斐性ナシのアラフォー男を嫌でなければ、そうするつもりだった」

 だが出来ない相談だった。欲望丸出しの僕ラーズが顔を覗かせる。俺はモグラタタキの要領でそいつらを押し込んだ。

「だったら話は簡単です。伊都淵さんが挑もうとするその場に、あたしも居させて下さい」

 俺は口に運んだパンケーキを喉に詰まらせる。この娘ときたら何度俺を驚かせば気が済むのだ。

「それは出来ない、だからこうして別れを告げに来たんだ」

「何故ですか? あたしに好意を持っていてくれるんでしょう? あたしも伊都淵さんのことが大好きです。それなのに何故、別れなければいけないんですか」

 妙齢の女性に『大好きです』なんて言われて平静でいられるはずなどなかったが、この時のオレは説得に必死で、それを反芻している余裕がなかった。

「だからこそだよ。梓を救うどころか、俺まで戻って来れない可能性があるんだ。いや、そっちの確率の方が高い」

「だったら尚更です。あたしが伊都淵さんの意識を離さないでいて、呼び戻します」

 日高依子の瞳は真剣味を帯びて深く輝き、俺は気圧されそうになる。

「わかってくれないかな。だらしなく意思の光を失った俺を、君に見せたくないんだよ」

「それは嘘です。伊都淵さんは、あたしを危険から遠ざけたい一心でそんなことを言ってるんです。あたしにはわかります。安心して下さい、あたしも自分の身ぐらいは守れるようになりました。ほら」

 素早く左右を見回した後、彼女が見つめたグラスが俺の前にすーっと滑りよってきた。表面張力ではない。その証拠にグラスは俺の前で回転運動を始めていた。オレは慌ててグラスを掴む。

「君は……」

「伊都淵さんのお陰です。小さい頃、超能力を扱ったテレビを見ていて、あたしにも出来るんじゃないかと何度も試してみました。でもテレビでやっていたのは巧妙なトリックだった。それを知ってからは意思の力で物を動かすなんてことは不可能なんだと思っていました。電位の変化を利用するんですよね?」

「……あ、ああ」

 ナチュラルに能力を授かった日高依子は、たった一日で長足の進歩を遂げていた。似非能力者との邂逅が引き金になったのかも知れない。

「でも、所が何と言うか……」

「お忘れですか? 伊都淵さんがMRIを受けたとき、あなたは担当者の意識の外に身を置くことができたのでしょう。あたしにだってそのぐらい出来ます。でも、どうしてもダメなのが計算です。伊都淵さんみたいに頭は良くならないみたい」

 清々しい笑顔で日高依子は伝えてくる。俺が行使しようとする愚行権の領域を彼女は制圧しつつあった。

「約束してくれないか。俺がどうなろうと君の身に危険が及びそうになったら、ひとりで逃げて欲しい。肉体的にも、精神的にもだ」

「嫌です」

 俺の妥協案を日高依子は言下に却下する。頑固な娘だ……

「嫌って、君……」

「あなたがどうにかなりそうだったら、あたしが守ります」

 そう語る彼女の顔は聖母のような慈愛に満ち溢れていた。人類の進化の行方どころか自身の半日先さえ見通せない俺だったが日高依子のような善良な人間が、この世界に居るというだけで未来に希望が持てる気がした。何としても梓救出を成功させて、この世界にとどまりたい。使命感に駆り立てられただけの無謀な挑戦に純粋な祈りが加わっていた。

「決まりですね」

「負けたよ」

 オイラーズも白旗を振っている。そして彼女が俺の隣へと席を移してきた。いつかのカフェでの俺を真似るように愛くるしい顔を寄せて日高頼子は言った。

《キスして下さい。二人で、ここから消えましょう》

 彼女のふっくらした唇に俺の唇を重ねた。テーブルの横を通り過ぎる客やウエイトレスの意識下から俺達は消え去っていた。日高依子との二度目のキスはメイプルシロップの味がした


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