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P300A  作者: 山田 潤
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The Gift of the Magi(賢者の贈り物)

 試したことがなかった、と言うよりもこんな能力が備わったことに気づきもしなかった。脳細胞の活性化は、俺の運動能力にも多大なる影響を及ぼしていたのだ。しかし身体能力が伴わない。八百メートルほど全力で走った所で、全身が悲鳴を上げた。時計を見ると一分で駆け抜けた計算だ。靴の紐はちぎれ、ゴム製の底は焦げ臭く匂いを放っていた。

 立ち止まって脈拍を整え、今の肉体が耐えられる速度をオイラーズに計算させる。所邸までの距離が残り六百メートル強、時速二十キロメートルなら筋組織の断裂もなく走破可能。その数値に基づいてストライドとストロークを弾き出し再び疾走に移る。とうとう何でもありになってしまったな、そのうち空も飛べるんじゃないか?

《気づくのおせえよ、肉体改造にも我々のサジェスチョンは有効。でも飛ぶのは無理》

 と、初顔のオイラーズが告げてくる。こいつが俺の運動能力の担当らしい。

 靴の先が濡れて滑る。爪先には恐らく血が滲んでいたはずだ。踵の肉も裂けていたろう。スニーカーの片方が血で滑って脱げ落ちたが俺は構わず走り続けた。

「来たぞ」

「ラボに居る、鍵は開いている。来てくれ」

 インターフォン越しに言葉を交わし、爪先の溶けてなくなったスニーカーを脱ぎ捨てて上がり込んだ。

血まみれの靴下が廊下を汚すが、それを気にしている余裕はない。それほど所の声は切迫していた。玄関からリビング、ラボへと続く道程に悪意の残留はない。俺はスチール製の階段を駆け下りた。靴下も途中でツルリと脱げ落ち、途中からペタペタと間抜けな足音を響かせながら。

「どうしたんだ、あの慌てようは。何があった」

 かつて俺が拘束され、梓との密事を繰り返したベッドの脇に、所は立ち尽くしていた。

「梓が……」

 続きを聞くまでもなかった。ラップトップPCに書きかけのレポート、床に散乱した薬品の瓶、見慣れた機器類、病衣にすら美しいシルエットを浮かび上がらせる肢体。俺はルール無視を決断し、オイラーズの総動員を図った。彼等は一瞬にして状況を把握し、俺に伝えてくる。確かに誰も騙してはいないのだろう。しかしなんて無茶な……ベッドに横たわっていたのは梓、その人だった。脳波計は自然波以外、何も表示をしていない。

「突発波が大きく出たと思った瞬間、VEPが全て消えてしまったんだ。なあ教えてくれ、梓はどうなってしまったんだ?」

 所が膝から崩れ落ちる。その右手は梓の手をきつく握り締めたままだった。

「P300Aを投与したんだな」

 俺の問い掛けには答えず、所は懇願を繰り返す。

「お前なら梓を助けてやれるんだろう。金なら幾らでも出す。病院の機器納入もお前以外からはしないよう手配する。頼む、助けてくれ」

 俺は友人として来たんだ、金なんぞ要るか。心でそう答えベッドの梓へと歩み寄った。

「想像を超えた結果をもたらす実験の危険性は何度も説いたはずだぞ」

「俺が間違っていた。梓が戻ってくれるなら実験は辞める。だからお願いだ――」

 俺は梓の顔を覗き込む。彼女の瞳に意思の光はなかったが、いつもと変わらぬ涼やかな声が俺の脳裏に届いた。

《お願い、創太郎を責めないであげて。私が被験者を買って出たの》

《認知は出来るのか? 潜在意識の内に沈み込んでいるんだな。原因はグルタミン酸か?》

《ええ、そのようね。痛みも凄かったから生存本能を司る神経細胞が、ここへと私を閉じ込めたみたい。あなたはこれを分かっていたから実験をやめさせようとしたのね?》

《今のは君の意識を読んだだけだよ。俺が感じていたのは漠然とした危機感だけだった。これがわかっていれば、もっと説得の仕方も違ったはずだ。すまない、君がこうなってしまったのは俺のせいでもある》

《いいえ、頑なだったのは私と創太郎よ。あなたを信じるべきだったわ、大好きだったあなたを……》

 彼女の意識は何故か笑顔で投影された。見つめるだけで何もしていないように見える俺を、所が悲鳴のような声で急かす。

「どうしたっ! 何故、何もしない。早く何とかしてくれ」

「梓の意識は無事だ。潜在意識の奥深くにとどまってはいるが、明晰で論理的な思考は以前の彼女と何も変わってはいない」

「だったら、連れ戻してやってくれ。お前なら出来るんだろう?」

 所の目に希望の灯りが宿った。そして俺はオイラーズの回答を待つ、やがて彼等は力なく首を振った。

「すまん、分からない」

「方法がか? それとも薬剤の効果がか? 俺の知識を使ってくれ、ナロキゾンはどうだ? クロニジンは?」

 所の提案をすかさずオイラーズに振った。額を寄せ合って相談した彼等の返答はNOだった。

「P300Aの投与によってミクログリアが異常活性化し、グルタミン酸を放出した。それによって傷つけられた神経細胞から精神を守ろうと、潜在意識に閉じ込めたのは彼女自身なんだ。お前も知っての通り、中枢神経における免疫細胞はミクログリアしかない。謀反を起こしたそれを更に活性化させれば、彼女の意識がもっと深みに落ち込んでしまう可能性もある。新大脳皮質のサイズがコンパクトだった俺のその機能は弱く、梓はそうでなかったということなんだろう。それを解消する手段が、俺には分からないと言ったんだ」

 所は呻くような声を出す。

「くっ……梓は助からないのか?、ハッキリ言ってくれ」

「夫であるお前がそんなことでどうする。わからないとは言ったが俺は諦めてはいないぞ。少し時間をくれ、考えてみる」

 正直オイラーズに匙を投げられたら、ボンクラな俺のオリジナル脳などなんの役にも立たない。そのボンクラ脳をかつて形成していた僕ラーズにも招集をかけてみる。彼等が捻り出したそれはアイデアと言えるようなものではなかったが、一縷の望みを託して予備調査を始める。

「答えにくいかも知れんが、二点ほど聞きたい、それとリクエストがある」

「なんだ? 梓が戻るなら何でも話す。何でもする、言ってくれ」

「中学生の頃、お前は自閉症だったのか?」

「なっ……」

 虚を突かれたように一瞬言葉を失った所だったが、絞り出すような声で答えてきた。

「……ああ。そうだ」

「それはどうやって克服したんだ。自閉症は先天性の脳の障害なんだろう? 未だメカニズムもよくかっていないと聞く。それをどうやって克服出来たんだ」

「母だよ、今のようにインターネットもない時代だ。母はどんな小さな希望にも縋って、あちこちの病院に俺を連れて行ったんだ。それこそ日本全国津々浦々までな。脳内たんぱく質が足りないからと言われれば、それを投与してくれる病院へ。当時認められていなかった中枢神経劇薬を用いる医者にもかかったそうだ。そして俺に語りかけることを片時も忘れなかった。満足に受け答えの出来なかった当時の俺にだ。ただ俺の場合、行動の限定とコミュニケーション困難にしか問題がなかったのだから、現在定義されている自閉症ではなかったのかも知れない」

 所の視線は俺にも梓にも留まっていない。遠い過去――おそらく母の面影へと、その視程を伸ばしていたのだろう。

「そうだったのか――もうひとつ、お前は勃起障害だな」

「あのファイルを呼んだのか、やはりお前の言ったことは本当だったのだな。電位を操れる。素晴らしい進化じゃないか。それで梓を救ってやってはくれないか? お前の言うところの、愛情を交換した仲なんだろう?」

「していない」

「いや、梓が告白してくれんたんだ。お前と三度寝たとな」

「愛情の交換の方だ、梓の脳裏にはお前のことしかなかったよ。彼女は俺に抱かれながらも、お前と愛情を交わしていたんだ」

「――バカな」

 所の顔が悲痛に歪んだ。

「本当だよ。なあ所、お前は梓の絶対神になろうとしたんじゃないのか? 彼女が求めていたのはそんなものではなかったんだぞ。俺は羨ましいよ。誤解はあったが、お前達はお互いを信頼しきっていたんだからな。賢者の贈り物っていう寓話を知っているか? お前達夫婦は正にあのまんまだ」

 肩を落としたまま所が頭を振った。彼の否定が何に向けられたのかは武士の情け、探りも追及もしないでおく。

「それで、リクエストとは何なんだ?」

「俺が梓の意識を迎えに行く。オイラーズは反対しているがな。当然だ、彼等にとっても未知の領域なら、方法も手探りで成功の確率の計算も不可能。俺が戻ってこられる保証はないと彼等は言っている」

「すまん。お前まで戻らなかったら、俺は後悔してもしきれない」

「あの居丈高で傲慢だったお前はどこに行った。俺が失敗したら、二人まとめて連れ戻してみせるぐらいのことを言ってみろ」

「……すまん」

 景気づけに軽口ぐらい言えないのか、この真面目人間め。すまん、すまんばかり言われ続けたら戻ってこられるもんも戻ってこられやしないじゃないか。

「どうなるかわからない俺だ、逢っておきたい人がいる。明日の正午には戻る。その前に変化があるようなら携帯で呼んでくれ、すぐに駆けつける。これが俺のリクエストだ」

「時間経過が梓の症状を悪化させることはないのか?」

「ああ、彼女は安定している」

 俺の言葉に安心したのか、深く頷いた後、梓に目を据えた所は何も語らなくなった。

「じゃあ、行ってくる」

 重いスチールドアの締まる音にかき消されてしまいそうなか細い声を背中で聞いた。

「頼む、戻って来てくれ」

 その囁きが俺に向けられたものか梓への呼び掛けだったのかはわからない。それでも俺は強く心に誓った。戻ってくるさセリヌンティウス、友達だろう。

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