家族
物事の決着というものは全てが一気にやってくるものらしい。ほぼ一週間ぶりに帰った自宅のテーブルの上には、薄いブルーの封筒と井ノ口市市役所と書かれた大きな封等が置かれてあった。封を開くまでもなく、幸の残した思念は別れを告げている。呆気ない決着に俺は拍子抜けしていた。
孝之へ
色々、考えてみました。どうすれば、傷つけたあなたへの謝罪が出来、どうしたらまたお互いを愛し合い認め合うことが出来るのかと。
両親は、手をついて謝れば許してもらえると、私をあなたの許へ返すことしか頭にないようです。相談することは諦めました。
友人の奈津美を覚えていますか、彼女も離婚経験者です。シングルマザーでも生きて行ける、幸だけが悪い訳じゃない。などと、親身に相談に乗ってくれ、たくさんのアドバイズをもらいました。
そして結局、全てが不可能だという結論にたどり着いたのです。私が犯した誤ちは消えないし、あなたが謝罪を受け入れてくれたとしても、私はその負い目をずっと背負ったまま生きてゆかなければいけません。それに耐え切れなくなった私が、再び同じ誤ちを犯さないとも限りません。
やはり愛情をなくしてまで夫婦で居るというのは不自然だと思います。恋人時代、新婚当時の楽しかった思い出を振り返ってはみましたが、消え去ってしまった情熱は戻ってきせん。きっとあなたもそうなんだろうと思います。
離婚届を添えておきます。協議離婚の場合には、家裁へ行ったりしなくてもいいそうです。あなたが空欄を埋め私の実家に届けてもらうか、そのまま役場へ提出してもらえば、それで受理されるそうです。
十二年間の結婚生活の終止符なんて呆気ないものですね。私には何も望む資格などありませんが、娘達を可愛く思うなら、たまには顔を見せてやってください。
我儘を言って、ごめんなさい。
幸
P.S. 財産分与も養育費も要りません。女の私には婚待期間というのがあって、すぐには入籍出来ませんが、米山さん(智くんのことです)と、一緒になる予定です。彼もよくよく考えた末、私を選ぶと言ってくれました。あれから何度か実家にも来てもらっています。奈緒子は、未だに「パパに逢いたい」と泣いたりもしますが、そのうちに慣れてくれることでしょう。
赤の女王現象か――世界は絶え間なく変化し続けている。明日にも同じ立ち位置を求めるなら、立ち止まることは許されないのだ。努力を怠って存続するシステムなど、有り得ない。丁度進化を止めたサメが捕食者の立場から、フカヒレの供給源へと成り下がってしまったように。
家族が家族で居続けるためには、個々の血の滲むような努力を要求されるということだ。改めて世の夫婦達の偉大さを思い知らされた俺だった。
新調したばかりの携帯電話にメールが届く。日高依子からだった。
件名に『バカ』と一言、本文には 『もう、知らない』 そして十行ほど空いて 『でも、大好きです』 とあった。彼女の期待に応えてあげられる、俺は頬が緩むのを感じた。順序は逆になったが、捨てる神あれば拾う神もあるということが立証された訳だ。
とにかく、これで出直しの準備は整った。梓に借りた金を返し、日高依子の覚悟のほどを確認して旅立とう。来るべき未来に思いを馳せる。一気に疲労感が襲ってきた。気づけばこうなって以来、オイラーズの全員に休暇を与えたことはなかった。ひとりぼっちの我が家で、ようやくその機会を作ってやることが出来る。俺は自然脳波担当数名を覗いた全員にバケーションを言い渡した。《やれやれ、やっとかよ》口さがない連中は、無遠慮に指揮官たる俺を非難したが、その俺にも熟睡への誘いが訪れる。意識の深淵から呼ぶ声に抗う術もなく、俺は眠りに落ちていった。
胸ポケットでけたたましく鳴り響く携帯電話の着信音で目を覚ます。誰だ? メールを返さなかった日高依子の催促かしらん? 未だオイラーズは覚醒しておらず、俺はボンヤリした思考を携帯画面に向ける。〝所〟の文字が目にとまった。
「はい」
――伊都淵か。
息せき切った、そんな調子の声だった。冷静な所にしては珍しいこともあるものだ。
「そうだ。どうした? こんな時間に」
壁の時計に目をやると午前三時を少し回ったところだった。
――すまん、助けて欲しい。今から来れないか、いや、どうしても来て欲しい。
尋常ではない、ぽつりぽつりと所定の位置に戻り始めたオイラーズの面々も、異常事態を宣言している。しかし電話口では脳波も読み取れない。合わせて警戒警報も発令された。罠かも知れないぞ、と。
俺の覚醒は間違いなく所と梓に依るものだ。以前のボンクラな俺が何一つ成し得なかったことをすいすいこなせるようになったことには感謝もしている。意に反した人体実験を差し引いても、彼等には恩義の方が大きい……のか?
《どうせ、ボランティアに身を投じるつもりだったんでしょ? 困っている人が居たら手を差し伸べる、それがボランティアの精神であります》
俺は善良なオイラーズの提案を呑むことにした。
「すぐに行く」
電話を切った俺は、車を持っていないことを思い出した。走るか――出社した時のままのワイシャツとズボン、バランスは悪いが次女の運動会に参加するために買ったスニーカーを下駄箱から引っ張り出して足を通す。
待ってろよ、ハリケーンの真っただ中に飛び込むような胸騒ぎが起こった。属性の不確かな身震いが不安を煽ったが、これが避けては通れないステップだということもわかっていた。