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P300A  作者: 山田 潤
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Evolution(進化)

「いやあ、驚いちゃったなあ。あの後事務長から電話で、集計にミスがあって全てうちの納入になりましたって連絡があったんす」

「そうか、よかったじゃないか。これで以前の借りは返せたかな? おっとこの五千円も忘れないうちに返しておこう

 俺はポケットに突っ込んだくしゃくしゃの五千円札を差し出す。

「今更、あんな小さなこと言わないでくださいよ。俺の来月の給料がどれだけになるか分かります? 去年の年収の半分を超えちゃうんすよ」

 松井君は紙幣を財布に仕舞いながら興奮冷めやらぬ口調で続ける。だったら、それも返さなくっていいって言えよ。そうは思ったが、金銭の貸借にキッチリとした性格なのだろう。それはそれで結構なことだった。

「松井さんったら鼻高々ね。課長にその話を聞かされた時、膝ががくがく震えていたのを、あたしは知ってるんですよ」

 日高依子の混ぜ返しに、松井君は渋い顔になる。

「言うなよ、それは。でも本当に辞めちゃうんすか? 惜しいなあ、営業マンとしての才能を開花させたばかりじゃないっすか。伊都淵さんが帰っちゃってからの出来事なんすけど、田中さん、絶対に落とせるもんかってみんなと賭けをしてたみたいなんすよ。あ、入札のことですけどね。それで課長の発表を聞いた途端、具合悪くなっちゃったみたいで、そそくさと帰っちゃったんです。賭けの負け分は十万円を超えるって柳田さんが言ってたけど、払えるのかな?」

 柳田か――ベテラン営業マンだったが売上げはいつもノルマ付近を行ったり来たりの白髪頭の男を思い浮かべた。彼は俺に賭けてくれていたのか、あまり話したことのない男であった。彼の思惑が田中への反発なのか俺達への好意だったのかは、今となって知る術もない。

「落札イコール営業マンの才能ではないと思うよ。俺には松井君のような堪え性もなければ、人に負けたくないといった競争心も欠落しているように思える。だからこそ退社を決めたんだ、今回の功労者は松井君と日高さんだよ」

 俺達の打ち上げは、入札書類を作成した日と同じイタリアンレストランの隅でテーブルを囲むというささやかなものだった。

「あたしは何もしてません」

「君が居たから俺と松井君は快適に仕事が出来た。間違いなく君のお陰だよ」

 そう言うと、日高依子は頬を赤くして俯く。

「そして松井君が居なければ入札まで俺が会社に居られたかどうかも分からない。感謝しているよ」

「止めて下さいよ、水臭い。それに俺が融通した売上げなんかほんの十数万、今回のとは桁が違い過ぎます」

「善意ってのは金額の多寡じゃない。俺は今回の件でやっと君に借りを返せた気がする。今まで本当にありがとう」

 深く頭を下げる俺に、松井君は恐縮し過ぎてしどろもどろになる。

「や、止めてくださいってば。俺なんか本当に……入札だって、せいぜいニ~三点落とせれば関ヶ原だと思っていたぐらいなんすよ」

 笑っては悪いと思ったのか、日高依子が白い歯を覗かせかけた口に手を当てて言った。

「松井さん、それも言うなら関の山っていうんです」

 文学的素養には欠けていても、彼のような気のいい青年は今や稀有な存在となっている。店内を見回すとこんな思考が錯綜していた。。

(かったりいなぁ、明日も仕事かよ)

(デートに来て行く服がないわ)

(ライブのチケットが取れない、彼女、怒るかなあ)

 不謹慎なものでは、こんなのもあった。

(ローンの返済期日が迫ってるな。ここにもデカい地震が起きればいいのに。そうなればどさくさで払わなくて済むかも知れない。もしかすると義援金で賄えるかも知れない)

(俺の目の前を横切るんじゃねえよ、ばばあ。ぶっ殺すぞ)

 俺は目眩がしそうになった。所の言葉が蘇る。

 「絶滅のメカニズムを知っているか? 厄災は一度に人類全部に襲いかかる必要などない。生態系や食物連鎖の一部が欠落すればそれで十分なんだ。生命はそれにも適応しようともがき、一旦は収束したかのようにも見える。しかし必ず適応疲労というものがやってくる。生命というものが産まれた時から死に向かっているように、種も同様なんだ。地球のどこかで誰かの意識が決定的に歪めば、それはあっという間に伝播する。先人が営々と積み重ねてきた文化を破壊するのは、誰あろうその子孫たる我々なんだよ。このままではいかんのだ。盲信無為に生きるぐらいなら信念に沿って死ぬ方がいい。俺はこの研究に命を賭けている」

 震災の記憶を未だに保持している人々は店内に皆無だった。奢り高ぶった人類の恣意的な振る舞いが所の杞憂を現実にしそうに感じられた。。

「――ねえ、あれっ、どうしたんすか?」

 思考を店内の散策と回想に回していたため、松井君の言葉を聞き逃したようだ。

「ごめん、ちょっと考え事をしてた。何だっけ?」

「いや、大したことじゃないんすけど、伊都淵さんはこれからどうするのかなって」

 そりゃあ、所んちに居座って説得を続けて、出来れば彼等との関係も改善されて終えることが出来れば一番なのだが、そう都合良くは行かないだろう。それに所の持論に大きく心を動かされていた俺は説得の良否すら怪しくなりかけていた。俺は迷っていた。そんなことを松井君達に伝える訳にも行かず適当な嘘を探していると、斜め向かいに座っていた日高依子が口を開く。

「分かります。あたし達は、どうするべきなんでしょう」

「えっ?」

 俺と松井君の声が重なる。

「あ、ごめんなさい。……あたし、伊都淵さんに開発されちゃったのかも知れません」

 おいおい、その言い方は誤解を生むってば。案の定、松井君の脳波に 《この二人、デキてる?》が浮かぶ。

 「言葉足らずでしたね。でも、一人で悩まないでください。あたしなんかでも何かのお役に立てるかも知れません。一緒に考えて行きましょう」

 どうやら、日高依子は俺の考えが正確に理解出来るようになったようだ。そして松井君の脳波にはクエスチョンマークが矢継ぎ早に浮かんでは回答を見いだせずに行き場を失っている。

 ここではまずい。俺の思念に日高依子が小さく頷く。

「あっ! あたし何かいいましたっけ? お腹いっぱいになって、うとうとしてたみたい。寝言聞かれちゃったかも。恥ずかしい」

「何だ、寝言だったのかよ、急に変なこと言い出すから、びっくりしちゃったじゃないか。ねえ伊都淵さん」

「そうだね、そろそろお開きにしよう。明日からプー太郎の俺と違って、君らは週末までみっちり働かなきゃいけないんだし」

 善良この上ない松井君は、こんな小芝居でも信じてくれたようだ。もしかすると、そのフリだったのかも知れないが。


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