Disclosure(露見)
「只今、戻りました。あれ、課長は?」
「松井さんの付き添いで入札の結果を聞きに行きました。でも、もう帰って来ていい頃なんですが――あ、手間取ってるふりしてどこかで遊んでいるのかも」
俺が出張からの帰社でないことを知っている日高依子は、そう言って笑った。秘密の共有は見知らぬ男女の仲を急接近させるものだ。キスまでしておいて見知らぬはないか――だがあ、あれは俺の唇が盗まれたのだと主張した。
午前十一時の発表のはずだ。そのまま納入の打ち合わせに入ったとしても、既に十五時になっている。日高依子の言う通り、戻ってなければいけない時間だ、何かあったのだろうか。
大した売上げもないのに医者の鞄持ちで五日間休んだことになっている俺に対する社内の視線は冷ややかだ。「俺も九州出張とか行きてえよな」聞えよがしに嫌味を口にしていたのはトップセールスの田中だった。
生活の糧を運ぶ先は不確かでも、それを別に求めることが出来る今の俺だ。この会社には何の未練もない。松井君や日高依子に逢えなくなる寂しさはあるが、一見親密そうに話す営業マン達の腹の探り合いや、隙あらば得意先を奪い取ってやろうと鵜の目鷹の目になっている連中の思考は醜く、著しく気分を損なう。日高依子の感覚を持つ人類に、この世界を禅譲する日はいつ訪れるのだろう。所の嘆きが想起された。
「戻りましたー」
松井君の元気な声がオフィスに響いた。後に続く課長と目が合ったので、戻りましたと口だけ動かして頭を下げる。課長も目だけで頷くが、その仕草に落ち着きがない。
「あっ! 伊都淵さん、戻ってたんすか。やりましたよ、全部じゃないけど十一点、うちの納入になったんです」
松井君が俺を目に留め、高らに入札結果を知らせてくれる。全部ではない? 数字に間違いはないはずだった。俺はどこか腑に落ちないものを感じて松井君に小声で訊ねる。
「その三点はMSSの数字が低かったのかい?」
「それがよく分からないんすよ、各社一人が事務長室に入っての発表でしたからね。他の業者はすぐに部屋を出てきたのに、課長とMSSだけ残って事務長さんと三人で長いこと話し込んでいたみたいなんす。出てきた時にはMSSの営業と肩でも組みそうなほど親密な様子で……」
やりやがったな――俺はすぐに課長の挙動不審の原因に思い当った。帰社報告を兼ねて課長のデスクに歩み寄る。
「本日戻りました。所先生が課長に宜しくと。入札の件、おめでとうございます」
「あ……ああ、松井が頑張ってくれたお陰だ」
「十一点納入なんですよね? もっと喜ばれたらどうです。お加減でも優れないんですか?」
「君には関係ないだろう」
痛い腹を探ろうとする人間の指摘には誰もが不機嫌になるものだ。
「少し、お話があるのですが」
「何だね?」
「今月をもちまして、こちらを退職させていただきたいのです
課長は不審げに眉根を寄せる。
「この入札の結果は、君の力によるところも多いと松井が言っていた。成績なら気にすることはないぞ」
「いえ、もう決めたことなんです。課長も御一緒にいかがですか?」
「一緒に? 何をだね」
俺の提案の意味が分からず、課長は怪訝そうな顔になった。
「退社ですよ。馘首される前に」
「なっ、何を言い出すんだ! この入札で支店売上げも一気に全体の上位に顔を出せるんだ。その責任者たる私が、何故――」
「しーっ、声が大きいですよ。責任者たる勤めをきちんと果たしてらっしゃれば、上位どころかトップに躍り出たのではありませんか?」
課長の言葉尻を捉えて言い返す。スタッフの視線を感じていた俺は敢えて婉曲な表現を選んだ。
「何が言いたいのだね?」
「ここで、お話を続けていいのですか?」
俺は思い切り含みをもたせた顔で課長の動揺を煽った。遅ればせながら周囲の注目に気づいた課長は俺を会議室へと誘い、追求は河岸を変えて続けられる。
「価格上位の三機種がMSSに行ったのはどういう訳なんでしょう?」
「うちの数字があちらより高かった、それだけだよ」
課長はそう嘯くが、動揺も狼狽も隠しきれていない。根っからの悪人ではないのだろう。出来心を起こしたものの、その発覚に覚えきっている様子が窺える。勿論、脳波を読む必要などなかった。
「では、はっきり申し上げましょう。あの数字は全て私が書き込みました。所から数字を聞かされていた私が、MSSより高い数字を入れるはずがないんです。だとすれば可能性は二つ、事前に情報を漏らされたMSSが数字を書き換えた。しかし、この線は頷けない。いくらメーカー系と言えど、あれ以下の数字で三点納入では採算が合うはずはないからです。そうなると残る可能性は一つ。あなたが上位三点の落札権を何かと引き換えにMSSに譲ったのです。先に述べたことに関しても私益は絡んでおりませんが不正には違いありません。私はその責任を取って辞めるのです。ですから御一緒にどうですかとお尋ねした次第です」
課長の顔が蒼白になった。
「失敬な、何の証拠があって私が不正をしたなどと言うのだね」
土俵際で踏ん張っているようではあるが既に死に体であることは明白だった。「言うのだね」の「ね」が完全に裏返っていた。
「その動揺ですよ、落ち着きのなさもです。何なら所に確かめてもいい。悪銭身に付かずです。まだ報酬を受け取っておられないのなら、今一度MSSに逢ってお断りになって下さい。若輩の私が言うのも烏滸がましいのですが、後悔というものは一生自分について回ります。第三者からの非難のように逃避は出来ません。寝ても覚めても罪の意識に苛まれるのです。そんな苦しみを背負う前にやめておきましょうよ」
俺の変化を悟らせることなく追求を終える。俺にはブラフの才能も備わったようだ。ガックリと視線を落とす課長の脳波から札束が飛び去って行った。
「私を告発するつもりかね?」
この時点で、ようやく所への関与を探る。いくばくかの謝礼で俺の鞄持ち出張を了承したらしいが、詳細は知らされておらず、俺の帰社も当たり前と判断していたようだ。そっちの賄賂には目をつむっておいてやろう。
「そのつもりなら、スタッフの面前でやりますよ。考え直して下さい。私の言いたいことはそれだけです」
課長の前に辞表を滑らすように差し出し俺は会議室を後にした。何事か言おうとした課長の声は閉ざされたドアにかき消された。




