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P300A  作者: 山田 潤
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Wood or Forest

「ただいまー」

「どこへ行ってたんだ、こんな遅くまで」

 玄関ホールで俺を待っていたのは、所の叱責だった。

「君がちゃんと管理してないから、こいつがフラフラ出歩くんだぞ」

 彼の怒りは梓へと飛び火した。彼女は俺をちらと見てから目を伏せる。俺が戻るまでにも散々、このことで所に責めたてられたようだった、表情が暗い。

「ラーメン屋へ行って、偶然会社の同僚と逢ったもんだからカフェに行って、少し話し込んでた」

「行動の詳細を聞いているんじゃないっ! 連絡ぐらい入れろと言っているんだ」

 おいおい、俺は思春期の女子高生かよ――帰りの遅い娘を心配した所が玄関先で仁王立ちになっている姿を想像した。娘役はこの俺。自分の姿をおさげ髪に置き換えてみたらこれがまた気持ち悪い。

「次はそうする。なあ所、時間はあるか? 少し話をしたいんだ」

 聞こうじゃないか、所は顎でリビングを指し示した。


「何だ、改まって」

 何から話そうかとオイラーズにスピーチ原稿の作成を任せていた俺を所が促す。

《これで》と、教養担当の一人が手渡した原稿を脳裏に広げた。ええっと――

「P300Aだけどな、あれの本来の効果は他人の感情に敏感になれることなんじゃないか? それなら正常進化だと思える。尤も俺のこれは行き過ぎの失敗作なのだろうがな」

「何がいいたい?」

「俺ですら、この国が進んでいる方向が正しいとは思えない。いや、視野を世界規模に広げて見ても人類は間違っているのだろう。お前の言う通り、科学や技術の進歩に先が見えないなら人が変わるしかないのだろう。ただ単に頭のいい人間が増えたところで、劇的な変化を見込めるとは思えない。間違いが助長されるだけになるかも知れないだろう? スパコンを例にとろう、秒間八千兆回を超える演算が出来ても完璧な地震予測など出来やしないよな? 統計や確率といった数字の横暴に根拠を求めているうちは、人類の進化はデッドエンドだ。だが他人の感情に敏感になれれば争いは間違いなく減る。誤解なき意思疎通が平和な世界を築く礎となるはずなんだ。コミュ二ュケーション能力に問題があって正確に病状を言い表せない人々にも正しい治療を受けさせてあげられる。善意がどれほど素晴らしいものかを人々が気づけば世界は必ず正しい方向に向かうと思うんだ」

「一理あるな。それで?」

「研究の方向性を見直してみたらどうだ。もっと人道的で多くの賛同を得られるような方法があるはずだ。そうなれば国家レベルの協力が得られるかも知れないじゃないか」

「お前の言うとおりかも知れんな」

 誠意を尽くして話せば、どんな相手にもそれが伝わる――俺は目を輝かせた。

「わかってくれたのか」

 しかしその期待はいとも簡単に打ち砕かれた

「そっちではない、やはりお前は失敗作だ。人道的? そんなものにこだわっていては動物実験すらままならないのが今の世の中だ。お前が『我こそは被験者でござい』と名乗り出た瞬間に俺は学会から抹殺される。大衆は産みの苦しみの共有は拒否するくせに成果だけは無報酬で手にしようとするものだ。知性を追求するとなれば、そんな蠢動など黙殺する冷酷さも必要なんだ。人類の進化がデッドエンドなら、先に待つのは滅亡のみ。既にその兆候が見えていて悠長なことをやっている暇などないんだ。石頭揃いの学会を動かすだけでも不可能に思えるのに国家レベルでの研究だと? 十年議論を続けて何ひとつまともなものを生み出すことの出来ない連中に何が期待出来るというのだ。あの大震災を例に挙げよう。ただただ金を注ぎ込むだけだった政府の施策は、癌患者にモルヒネを投与し続けるようなものだ。義援金の重複請求をするようなモンスター被災者も出ていると聞く。切り捨てるべきは切り捨てないと転移は広がる。国家が潰れてまで一地方の救済に力を尽くせというのか」

「癌患者はひどい」

「違うと言うのか? 幾ら金を注ぎ込み建物や設備が元通りになっても発注が元には戻らん以上、産業のレベルが被災前に戻ることはない。そんなことは阪神淡路大震災で立証済みじゃないか。中小企業の債権買い取りファンドの設立や住宅ローンの据え置きも、その場しのぎに過ぎん。サブプライムローンの破綻を見てきた連中のやることとは到底思えない。アメリカの二の舞になるだけだ。そんな簡単なことのわからない政府が俺は理解できない」

 被災地を癌に例えた所の言い分には受け入れ難いものがあったが、彼の説が全て間違っているとも言い難い。サプライチェーンを免疫系の伝達に例えるなら、それを寸断されたことで起きた関連倒産や直接被災していない人々の失職が死を意味するのだろう。俺もその犠牲者の一人だったのだから――所は続ける。

「お前は誤解している。俺だって被災者には同情する。確かに俺は現地には行ってない。ああいった場合、俺のような医者は内科外科ほど重宝はされないんだ。代わりに梓に支援物資を持って二週間の医療ボランティアに行ってもらった。彼女は優秀な看護師だったからな。しかし国の施策を見てみろ。復興構想会議は被災地から五百キロも離れた霞ヶ関に老人ばかりを集めて気の長い議論を繰り返すのみ。復興庁に至っては未だ関係各省庁の反対で設立の見込みすら立っていない。そんな政府に何が期待出来るんだ? 危機感を身に染みて感じているのは弱者だけ。経済の舵取り役たる国会議員の報酬は二千万円以上。さらには席を置く企業からの収入もある。そんな連中に被災地の痛みなど伝わるはずはない。だからこそ俺は個々の能力の底上げを図ろうと研究に取り組んでいる。国家になど頼らずとも自立出来る国民を作り上げたいんだ」

 所の脳波に虚偽はない。尊大ではあるが、最終目標として掲げた理想は素晴らしいものであるとも思えた。

「失敗学というものがある」

 所の口調が変わった。

「尼崎の脱線事故や六本木ヒルズの事故に学ぶというあれか?」

「そうだ、あんなものは人の揚げ足取りに過ぎん。名のある学者が実験と検証を積み重ねるからこそ学問として認知されるだけでリスクマネジメントには通用せんよ。それでも大学は金を出す。すなわち税金が注ぎ込まれている訳だ。自然災害も人災も人智を越えて発生するものだ。起こってしまった事象に後付けで原因究明なすることなどは無意味で、あまりにも非生産的だ。それを変えられるのは、この研究でありお前という成果なんだ。災害で人が大勢死ぬのも、生き残った人々が苦しむ姿も俺はもう見たくないんだっ!」

 世の中は白と黒だけじゃない。多くを占めるのはグレイで、その濃度が状況によって濃い側に振れたり薄い側に偏ったりするのが人間なのだろう。待とう、所が善に振れる時を。俺はそう思っていた。

「忘れるな、お前がこうして俺と議論が出来るのはP300Aのお陰なんだ。あれなくして今のお前はない。喋り過ぎたようだ、俺はラボに行く」

 そう言って所は席を立った。

「創太郎の言ったことは本当よ」

 取り残された俺に梓がポツリと呟く。

「ああ、わかってる」

 俺の視線はテーブル上に固定されたまま、オイラーズと議論を交わしがらコップに注がれたビールの泡を、静電気で弄んでいた。

「私が研究の成果や名声だけにこだわる創太郎を愛せるとでも思った? あの人だって大震災の被害者に涙し人類の将来を憂いたのよ。そしてこの研究を始めた。鬼にならなければ出来ないことだってあるわ」

「何度も言うが、問題は方法論だ」

「彼は阪神淡路大震災で、実家に行ってらしたお母様を亡くしているの」

 俺は驚いて梓を見る。彼女は涙ぐんでいた。中学生だった所の家に届けものをする毎、駄菓子や果物を持たせてくれた優しげな所の母親の顔が思い出された。

「あなた達の話を聞いていて確信が持てたわ。女の私だからこそわかることもあるの。伊都淵君、あなたと創太郎の見ているものは同じ。彼はあなたを木を見て森をみない人間だと言った。あなたは、その木一本一本が集まってはじめて森となることを知っている。あなた達はコインの裏表なのよ」

「だったら、尚更……俺の話を聞いていただろう? スパコンでも無理なものを、計算だけが早くなった人類がどうやって……」

「彼は彼の出来る方法で模索を続けている。そして妻である私はそれに従うだけよ」

 梓の瞳には俺の反論を受け入れようとしない強固な意思があった。

「これ」

 梓が昨日行ったデパートの包みを俺に差し出してくる。

「俺に?」

「ええ、創太郎の好きなブランドよ。あなたにもきっと似合うと思うわ」

 梓が去ったリビングで包装を開けるとD&Gのロゴが左胸に刺繍されたポロシャツとハーフパンツが入っていた。


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