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P300A  作者: 山田 潤
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Unchained Melody

「そんなことまでさせられるんですか?」

今しがた浮かべたばかりの安堵の色を消して日高頼子が言った。忙しい娘だ。

「そんなって?」

「買い物のお供ですよ、今、そう言ったじゃないですか」

 まるっきりの嘘ではなかったが真実でもなかったため、俺は〝そんなこと〟に気づくのに少し時間を要した。

「ああ、それか。所んち…あ、例の病院の准教だよ。何もせずに彼んちに居ても退屈だったし、奥さんが買い物に行くって言うから、この機会に恩を売っておこうと思ったんだ。させられたんではなく、させていただいたんだ」

「大変ですね、営業の人って」

 そこで同情されても困る。彼女みたいな善良な人間に、底の浅い嘘をつくのは心苦しかった。

 上手い嘘というものは真贋のブレンドが絶妙なものをいう。その場しのぎのデマカセに、その配分を検討する余地などない。捏造に関して、オイラーズは極めて非協力的だったからだ。

「食うためだよ。それで、君の質問は? 明日は例の入札の発表もある。君の好奇心を満たして早く帰ろう」

 日高依子はようやく本来の目的を思い出したような顔になって話し始めた。

「さっきの続きです。どうして出張扱いになってるんですか?」

「所が、課長に直談判して俺を借り出したらしい。有閑マダムのお相手が元同級生で出入り業者なら安心だろう? そんな思惑じゃなかったのかな」

「では、伊都淵さんのその変化は何故なんですか? 松井さんも普段の伊都淵さんじゃないみたいだって言ってました」

 いやはや、この娘はなかなか鋭い。頼みの教養担当オイラーズは休暇中で、閃きも妙案も舞い降りてはこない。俺は苦し紛れにこんな言い訳をした。

 「人は、何かのきっかけで生まれ変わっちゃったりするもんなんだ。俺の場合は所との再会かな。同級生があんなに偉くなってて、真面目に営業マンをやってもコネや伝手のある連中にはかなわない。それが嫌になったんだ。開き直りだよ」

「本当にそれだけですか?」

 適当な作り話では引き下がってくれそうもない。どうにか俺から興味を逸らす方法はないものか。不本意ではあったが、彼女の隣に席を移し、こんな作戦に出た。

「固い話はここまで。飲みに行かないか? いい店を知っているんだ」

「誤魔化さないでください。あたしが田中さんの話をしたから、そう言えば追求を逃れられると思ったんでしょう」

 俺はほとほと困った。脳波をいじくれば済む話だが、いい人間である彼女にそれはしたくない。日高依子の肩に回そうとした手は宙ぶらりんのまま、虚空を抱く。

 仕方ない、例え気味悪がられても入札が済めば辞める予定の会社だ。もしかしたら頭が変になったとでも思ってくれるかも知れない。俺は再び、彼女の正面に座り直した。

「一つ、俺から質問してもいいかな? それに答えてくれたら君に本当のことを打ち明けよう」

「いいですよ、何ですか?」

「課長のセクハラだよ、君は肩を揉まれたり、必要以上に顔を近づけて話したりされているように思う。でも、君はそんな課長を嫌悪していない。それは何故なんだい?」

「何故、あたしが課長を嫌っていないと思うんですか?」

「俺への答えが先だよ」

 暫く考えたような顔をした彼女だったが、静かにこう言った。

「可哀想な人だと思うからです。きっと家庭でも奥さんやお子さんに構ってもらえない反動で、ああなっちゃうんじゃないかと。スキンシップに餓えてるんですね、きっと」

やはりこの娘はいい人間だ。ひょっとしたら真実を話しても気味悪がられることなく受け入れてもらえるのかも知れない。どっちにせよ俺に失うものがある訳ではなかった。

「伊都淵さん」

 口を開きかけた俺より先に、彼女の声が発せられる。

「何だい?」

「人の考えが分かってしまうんですね」

 俺は口に運ぼうとしたコーヒーカップを危うく取り落とすところだった。

「驚かせたらごめんなさい。実はあたしもそうなんです。全ての人の全ての考えが見える訳じゃなく、ほんのたまに分かってしまうんです。今は、あたしを怖がらせないようにとの配慮が伊都淵さんから伝わってきました」

 驚いた。人工の似非超能力者ではなく、本物が目の前に居たのだ。俺は慌てて教養担当のオイラーズを叩き起こした。幸い大山さんはウエイトレスとの会話に夢中になっていて、俺達の話が耳に届いた様子はない。

「その話は、ここじゃあマズい。出よう」

 

 そぼ降る雨の中、社の看板が入った車で夜の街を流す。助手席側のワイパーゴムが硬化していて視界は良好とは言えなかったが、知覚の研ぎ澄まされた俺に運転の不安はない。

「全てじゃないと言ったね。君が分かるのはどんな感情なのかな?」

「尖った感情とでも言えばいいのかな……嫌悪や悪意、それとさっきみたいに優しい感情も分かる時があります」

 彼女の瞳が眼鏡の奥で輝いた。確かに好意は向けたが、それは鍛冶さんや松井君に向けたものと同じ類で、家庭も中途半端なまま梓のダッチワイフに成り下がっていたこの俺が、この娘にあらぬ期待は抱かせる訳には行かない。

「俺の感情は君を好きだって言ってたかい?」

「そこまで正確には分からないんです。ただ漠然とした好意とか嫌悪感が伝わるだけで。心地よい波動は好意、悪意には刺すような痛みを感じることもあります」

「このことは誰にも言わない方がいいよ。変人扱いされるだけだ」

 ナチュラルに能力を得た彼女の存在が、ひょんなことで所の目にとまるやも知れない。P300Aの犠牲者は俺一人で充分だ。中途半端な俺の能力で日高頼子を守りきれるかどうか自信がなかった。

「亡くなった母も同じ力があったみたいなんです。物心ついた頃のあたしが母にそう話した時、誰にも言ってはいけないと言われました。弟にはないみたいです。だから誰にも話してません。伊都淵さんが初めてです」

 俺は日高依子こそが人類の進化の形なのかも知れないと思った。悪意を感じることが出来れば争いや危険は遠ざけられる。他人を憎むことが醜い感情だと気づけば、そうしなくなるかも知れない。好意を感じることが出来るなら誤解は減り、面倒な駆け引きも必要なくなる。少なくとも、現代のように虚偽にまみれた社会ではなくなるように思えた。

 ただ、それでも懸念は残る。未熟極まりない人類が、果たして嘘のない世界で生きられるのだろうか、と。

「そのほうがいいだろうね。人は理解の及ばないものに恐れを抱くものだから。俺が本当のことを言えなかった理由もそこにあるんだ」

「あたしは伊都淵さんを怖いだなんて思いません」

「ありがとう、でも君のその判断が正しいかどうかが、俺には分からないんだよ」

 ふと、彼女のジーンズに泥が付いているのを見つけて手で払ってやった。しかし、そこが太腿だったことに気づいて困惑する。性欲がなくなった俺の問題はこんなところにも露見してしまう。10番手以上のタテ糸を藍色に染色し、ヨコ糸を未晒し糸で綾織りにしたコットン百パーセントの生地についた粘土質の汚れとしか認識しないのである。

「あ、ごめん。つい……泥が付いてたんだ――え? 粘土質?」

「趣味で、陶芸をやっているんです。ラーメン屋さんに行くぎりぎりまでロクロを回してたから、きっとその時についたんだわ。ありがとうございます」

 なんと、礼を言われてしまった。悪意がなかったことは理解してくれたようだ。陶芸か、若い女性にしては珍しい趣味だなと思った。反射的に頭の中に音楽が流れ出す。昼間はプリティウーマンだったが、今回はUnchained Melodyだった。

 Oh my love――

 映画ゴーストのために書き下ろされたように思えるこの曲だが、実は妻子の居る囚人が開放(Unchained)を夢見たB級映画の挿入歌だったらしい。


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