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P300A  作者: 山田 潤
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Irony(奇遇)

「ちょっと、ちょっと、オタクらどこの業者? 勝手に医局に入いられちゃ困るんだよね」

三十歳前後のCE(臨床工学士)が、ぞんざいな口調でドアを開けた松井君を背後から呼び止める。

「あっ、失礼しました。私はKYメディックスの松井と申します。ええと、瀬戸さんはおみえではないでしょうか」

  松井君が差し出す名刺を受け取りはしたが目もくれない。そのまま彼の肩越しに放り投げられた模造紙はひらひらと舞い降りる蝶の如くデスクの上に着地した。

「瀬戸さん? 聞いたことないなあ、どこの先生だろう。藤井さん、瀬戸さんなんて人居ましたっけ?」

クソ生意気なCEは書き物をしていた四十絡みの男に訊ねた。

「ああ、ずいぶん前に辞めた人だろう、放射線技師の。ほら、例の業者との癒着で――」

 小生意気なCEは思い出したような顔になって言った。

「はいはい、あの瀬戸さんね。なに? オタクらもあの人に相当注ぎ込んた口?」

「いえ、私どもは別に……」

  松井君の語尾が揺れる。頼みにしていた唯一の顔見知りが醜聞で職を追われていたのではどうしようもない。とっかかりからつまづいてしまったみたいだ。

「あ、KYさんだから、空気読めないのも無理ないか」

 CEは出来のギャグに手を叩いて自画自賛する。むっとした僕は彼の前に身を乗り出そうとするのだが、松井君が立ちはだかってそれを許さない。

「そうでしたか、それは大変失礼しました。今日のところはご挨拶だけでも。伊都淵さん、名刺を」

  元来、僕は営業が勤まるような温厚な人間ではない。CEの心無い発言に簡単に腹を立て、後先考えずに暴挙に出ようとすることが、それを如実に物語っている。年下の松井君に嗜められ、怒りでプルプルと震える手で僕は名刺を差し出した。

「何? この人。おっかない顔してるねえ。医療機器じゃなく喧嘩売りに来てたりして」

 〝Clinical engineer 福井〟名札にそう書かれた男が、けたけたと笑った。

「申し訳ありません、こんな顔で。彼の両親にもよく言っておきます――って、遅いっすよねもう。はは、こちらのような公立病院ですと機器の納入は入札制ですよね? 業者の指名はどちらで行われるのでしょう、お教え願えませんか」

 松井君の台詞にもカチンときたが、怒りを簡単に顔に出してしまう僕に非があったのは、明白な事実だ。福井の侮蔑を生み出したのは、他ならぬ僕自身なのだ。短気は損気とはよく言ったものである。

 こうして、医局では一番下っ端扱いされる彼らのストレス解消には出入り業者がターゲットにされるのが慣例となっているらしい。僕はラグビー部に所属していた高校時代から、ずっと疑問に思っていることがある。こういったストレスの順送りは、どこが終着点になるのだろう。高校で最上級生となっても大学に入れば、また下っ端からやり直し。社会に出れば出たで上司の鬱憤の捌け口に――非生産的な負の連鎖は、どこかで誰かが断ち切るべきではないのだろうか。『この野郎、どこかのコンビニで見かけたらサングラスにマスクで正体を隠して足腰立たなくしてやる』と、いったささやかな怒りの炎をぎこちない作り笑顔で包み込む。よろしくお願いします、と言って僕は頭を下げた。

「新規さんかあ、事務長は気難しい人だからなあ。ま、そんな顔で行っても無駄、無駄。可愛いお姉さんでも連れておいでよ」

 再び怒りの煩悶に身を震わす。自分でもさっと顔色が変わるのがわかった。僕には営業マン必携の堪え性というものが全くないのだ。

「確かにここ数年はお取引もございませんでしたが、六年前にLD100を一基納めさせていただいております。まるっきりの新規という訳でもないんです。なんとか事務長さんに御目通りできませんでしょうか」

『ならぬ堪忍するが堪忍』を頭の中で念じ続けることで怒りが沸点に到達するのを抑え込んでいた僕は、人懐っこい笑顔でしつこく食い下がる松井君に感動していた。彼のにっこり攻撃が功を奏したようで、調子に乗る福井のバカにアポを取らせた僕達は事務長室へと向かっていた。すれ違う全ての白衣にへつらいの笑顔を投げかけながら。

「しかし松井君は凄いですね、あれだけ好き放題言われても怒り出さないんだから。僕にはとても真似出来ません」

「怒ってますよ、怒ってるからなんとか商売に持ち込んで儲けてやりたいんじゃないっすか」

 何を今更。そう言いたげな顔で僕を見る松井君の額に〝営業マンの鏡〟という文字が浮かんで見えた。


「伊都淵…… 伊都淵じゃないのか?」

 階段を降りてきた白衣の男の声に足を止める。伊都淵などという変わった苗字は多くない。と、いうことは誰かと間違って声を掛けたのでもなかろう。僕は振り返って頭を下げた。長身痩躯のその男はメタルフレームの眼鏡をかけ、一筋の乱れもなく髪をオールバックに撫でつけていた。ええと、誰だっけ? この病院に何ひとつ納入実績のない以上、機器のセットアップなどで顔を合わせた医師も当然皆無であった。

「あっ! 先生でしたか。お世話になっております」

 とりあえずこう言っておけ。顔を出し続けたどこかの病院から移ってきた医師が、珍しい名前を覚えていてくれたのだろう。呼び捨ては構わないが、せめて何か買ってからにしてくれないものか。げんなりする心情を顔に出さぬよう、営業笑いにひた隠して相手の素性を探る。白衣の男が首から提げる名札は無情にも裏返しになっていた。

「違うよ、バカ。俺だよ、所だよ」

「はあ……」

 誰がバカだって? 顔で笑って腹で怒って所某の正体を探る。記憶の引き出しをひっくり返してナノサイズの僕らーズが総動員で調べものに当たる。そのうちの一人が正解のカードを引き当てた。

「所……か? 中学の同級生の」

「そうだ、お前は全然変わらないなあ。こんなところで何をしているんだ」

 勉強は出来たが大人しくて目立たず、ついでによく学校を休んでいた所 創太郎だった。いや、壮一郎だったか?

 だいたいにおいて中学生男子の一番の関心事など女の子のことに帰結してしまう。自分よりハンサムなヤツ、運動能力に秀でたヤツ、話術の巧みさで女の子を惹きつけるヤツ、それ以外はライバルと目することもなく、無害(僕にとって)な連中、と一括りにしていた。そこに分類された所を、どちらかといえば僕は軽視していたはずだった。何せファーストネームの記憶すらかくのごとく曖昧だったのだから。当然、話も続かない。どんなおべんちゃらが医師のプライドをくすぐるのだろう、と考えを巡らすが焦るばかりで何も思い浮かばない。

 反して所の立ち振る舞いたるや威厳と自信に満ち溢れ、うだつの上がらない営業マンである僕との差は歴然としていた。人は変わるもんだな、感慨に耽っていると情けなさに涙がこぼれそうになったので、遅ればせながらの自己紹介に転じる。

「実は今ここで働いていて、これから事務長さんのところへ伺って入札の指名業者に入れてもらうよう、お願いするところだったんだ」

 所は僕の差し出した名刺にちらとだけ目をやって、怪訝そうな顔になった。

「KYメディックス? 知らないな。石田から、お前は機械設計の会社に居ると聞いていたぞ」

 所が共通の知人の名前を挙げた。とは言えその石田とも、ここ十数年逢っていはなかったのだが。失職した事情を数十年ぶりに再会し、立派な医師となっていた同級生に語るほど侘しいものはない。

「いろいろ、あってね」と、お茶を濁す

「医療機器販売の営業マンか、大変だな。だがうちも入札とは名ばかり、CE連中の専門学校時代から業者は張り付いているそうだからな」

「そうなのか……まあ、種も撒かねば芽も出まい。とにかく指名業者に名を連ねさせてもらうところから始めるよ」

「おう、頑張れ。そのうちどこかで飲もう」

 会話の舞台となっていた階段の踊り場に背を向け所は歩き出す。そのやり取りを見守っていた松井君が僕にハッパをかけた。

「先生が同級生なんて正に天佑、大チャンスじゃないっすか。名刺をもらっておかなきゃダメっすよ」

『男なら自分の持ち物で勝負しろ』亡き父の時代錯誤な教えを叩き込まれて育った僕はコネの使い途にも疎い。はっと気づいて階段を下る所を追いかけた。ちなみに、ここで言う持ち物とは度量とか肝っ玉とかいう類のもので、断じて怪しげなものではない。

「所――もとい、先生、名刺をいただけませんか」

 所は僕を振り返って言った。

「他人行儀なやつだな。生憎今は名刺を持ってない。この病院で脳神経外科の准教は俺ひとりだから用がある時はそう言って呼んでくれ」

 いや、実際ほぼ他人だし――それは口にせず、そそくさと松井君の許に戻って小声で訊ねる。大胆にも所教授様を待たせたままで。

「准教って偉いのかい?」

「伊都淵さんの同級生なんすよね? だったら三十七歳か……大出世の部類でしょうね。事務長さんへの口利きをお願いして指名業者に入れてもらいましょうよ。上手くことが運べば課長も伊都淵さんを二度と給料泥棒なんて呼べなくなるっす」

 降って湧いたような幸運を喜ぶ僕の背中に、よく通る所の声が届いた。

「おい、今夜は空いてないか?」

 はいはい、なんでございましょう。揉み手すらせんばかりの卑屈さで所の許に舞い戻る。

「さっきはどこかで飲もうと言ったが、俺も研究一筋の人間でな。夜の街に詳しくない。どうだ、今夜家へ来ないか? 会わせたい人も居るんだ」

 会わせたい人? さっき話に上がった石田だろうか。

 我が社に交際費といった支出名目はない。営業マンは各々のポケットマネーを潤滑剤へと融解させては営業成績向上の期待を抱く。さもなければ学会発表資料の作成を手伝う(これも、出来が悪ければ厳しい叱責に遭うのだが)といった労力の充当で決済担当者のご機嫌を伺うのだ。単価の張る機器の単独導入、単価は小さくとも大量導入を期待して悪戦苦闘するのだが、その代償が血圧計数セットだったりもする。抱いた期待は気体へと昇華されてしまう訳だ。

 営業手当が売上げのたった三パーセントでは、個人の収支損益が赤字になることなど珍しくもない、と常日頃から松井君は言っていた。財布の中はなけなしの福沢諭吉が一枚きり。そしてそれは月末までのランチ代であり、タバコ銭でもあった。そんな僕にとって所の申し出は願ってもないものだった。ムチウチになりそうな勢いで首を縦に振った。

「そうか、良かった。論文も書き終えたし今夜は昔話に花を咲かそうじゃないか」

 僕の肩をポンと叩いて踵を返す所の袖を、都会で迷子になった幼児のように必死になって掴む。

「待ってくれ、家はどこなんだ?」

「学校からの配布物をよく届けてくれたじゃないか。家は立て直したけど場所は変わってない。じゃあ十九時にな」

 何なんだ、この急展開は――僕は松井君と顔を見合わせた。

 

 世の中、そう甘くはない。事務長の対応は門前払い同然だった。

「はいはい、YKメディックスさんね。覚えておきますよ」

 その時点で既にクソジジ……いや、事務長殿は社名を覚え間違えていらっしゃった。


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