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P300A  作者: 山田 潤
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Coincidence(偶然の出会い)

「夕飯は要らないのね?」

 梓の問いかけは、出掛ける主人を見送る妻のようだった。

「ああ、たまには下品な下町の味を思い出したくなってね。勝手を言ってごめん」

 創太郎の食事の支度をしなきゃいけないの。私は付き合えないわ」

「君に似合う店じゃない。遅くならないうちに戻るよ。創太郎に叱られたら、俺が君の脳波をいじって勝手に出ていったとでも言っておくといい」

 高校時代から通いつめたラーメン屋は、所邸から六kmほど離れた場所にある。車齢は、それほどでもないが日夜営業で走り回る社用車の走行距離は十六万キロにも達しようとしていた。エンジンのノイズが大きめで、足回りからもタイヤの回転に合わせて大きな唸り音が聞こえてくる。リースの終わった車両を引き取る業者は、さぞや嘆かれることだろう。

 仰ぎ見る空には低く雲がたれ込め、雨が近いことを知らせている。俺はラーメン屋の引き戸を開いた。隠し味に使われているらしい生姜の香りが店内に立ちこめ、食欲をそそった。値段は三割増しになっていたが変わらぬ味にはリピーターも多く、グルナビに載らないのが不思議なほどの店だった。客の七割が味噌ラーメンを注文するそうで、餃子や唐揚げ等、サイドメニューは一切ナシ。味噌、醤油、塩、大盛りか普通盛り、具が多いか少ないだけのメニュー展開で、ラーメンのみにこだわり続けるこの店は今日も繁盛していた。

 北方先住民族を思わせる小柄な調理人の眉毛は栄養の行き届いた毛虫の如き太さで、二の腕も剛毛で覆われている。大きな中華鍋を持つ手首には厚手のサポーター、あの重量を来る日も来る日も振り回していれば腱鞘炎が持病になってもおかしくはない。

 全席カウンターの対面に見覚えのある顔があった。眼鏡をかけてはいたが、つい先日入札書類の作成を手伝ってもらったばかりの日高依子を見間違うことはない。見慣れた事務服でなく、シンプルなカットソー姿で肩までの髪を後ろで一つに束ねていた。ラーメンの湯気でレンスが曇るのか、時折眼鏡を外してはハンカチで拭いている。隣に座る同じような年格好の青年と言葉を交わす様子から、彼氏なのだろうと想像した。例え俺みたいなのでも、会社の同僚と顔を合わせれば挨拶の一つもせねばと感じるだろう。そんな気遣いをさせたくはなかったので。俺は顔を伏せたまま届いたラーメンを一気にかっ込んだ。


「伊都淵さん」

 駆け寄る足音が俺の背中で聞こえる、こっちが気づかないふりをしてやったのに何もわざわざ……そうは思ったが俺はにこやかに振り返った。

「やあ、君も来てたんだ。偶然だね」

振り返った途端に「やあ」である。わざとらしいことこの上ない。

「ええ、伊都渕さんもあたしに気づいていらしたんでしょ? 声をかけてくだされば良かったのに」

「俺がデートの邪魔をするような野暮な男に見えるかい?」

「デート? 嫌だ、あれは弟です」

 〝嫌だ〟ムキになって言う、その間投詞が適切なほど冴えない青年ではなかったと思うのだが、長い前髪をかき分けながらラーメンをすする姿にサトシクンを思い出して少しがっかりした俺にとって、その反応は朗報と言えなくもない。

「で、何か?」

「どうして出社しないんですか? 出張じゃないんでしょう」

「出張ではないけど、五日間は出張扱いだからね。それに入札の結果が出たら社を辞めるつもりなんだよ」

「何故ですか? あの数字を出したのは全部、伊都淵さんじゃないですか」

「松井君には随分、世話になった。彼が喜んでくれればそれでいいんだ。大量納入が決まった暁には、君にも何か奢るよう伝えておこう」

「そんなの要りません。伊都淵さんにだって生活がおありでしょう。今日はお一人なんですか? ご家族は?」

 日高依子は答えにくいことをズバッと訊いてくる。

「隠してもいずれ分かるから言うよ。我が家はちょいと揉めててね。妻も娘も実家に帰ってる。だから俺も家には戻ってない」

「何があったんですか?」

 これこれ、他人のプライバシーにしつこく首を突っ込むもんじゃありません。俺が答えあぐねていると彼女の弟が乗った車のクラクションが鳴った。天の助けだ、俺は黒のオデッセイを指差した。

「お待ちかねのようだよ、早く行かないと」

 彼女は暫く考え込むように俺と弟の乗った車を交互に見ていた。

「あたし、一度気になり始めると、答えが分かるまで気持ち悪くて仕方がないんです。待ってて下さい。逃げちゃだめですよ」

 いや、勝手に気にされても――しかも逃げるなって、俺はここでも実験動物扱いか。雨もポツポツ降り出した。適当なところで日高依子の好奇心を満たして退散せねば、所夫妻がモルモットの安否にやきもきする……かも知れない。

 車に駆け寄った日高依子がドア越しに何事か告げると車は発進し、彼女は再び俺の方に戻ってきた。

「いいのかい? 帰しちゃって」

「ええ、あたしんち、ここから近いんです。それに、社用車だってあるし」

 俺が乗ってきたライトバンに目線を振って言った。

「かなわないな、君には。雨が降りそうだ。カフェにでも行くかい?」

「はい」

 彼女は嬉しそうに頷いた。ポケットからレイクサイドカフェのマッチを取り出して見ると営業時間は二十一時までとなっている。彼女の興味を満たすためには再び嘘をつかねばならない。真っ直ぐに俺を見据えてくる日高依子の視線が俺には眩しく感じられた。


「眼鏡をかけているんだね」

「ええ、会社ではコンタクトにしています。ねえ伊都淵さん、雨ってセクシーだと思いません?」

「え?」

 車中で、彼女はそんな台詞を口にした。

「どしゃ降りは若くて激しい情熱、しとしと降る雨は大人の色気。あたしはそんな風に感じるんです」

「へえ、面白いことを言うんだね」

「あのラーメン屋さんで会社の人と逢ったのは二人目、最初は田中さんでした」

 彼女が、ずっとトップの売上げを続けていた嫌味な営業マンの名を挙げる。俺が入社の挨拶をした時、露骨に迷惑そうな顔をしてそっぽを向いた狭隘な男の顔が浮かんだ。

「田中さんったら、奥さんも子供もいるクセに、これから飲みに行かないかって、しつこく誘ってきたんです。信じられないでしょう」

「俺も、まだ妻と別れた訳じゃないよ。誰かに見られたら君が困るんじゃないのかな」

「伊都淵さんはいいんです、あたしが誘ったみたいなもんですし」

 勝手な理屈もあったものだ。しかし、これがモテ期というヤツなんだろうか。欲望が消え失せてから訪れたその皮肉に俺はため息が洩れた。


 「いらっしゃ……」

 大山さんの言葉が途切れる。つい先日梓と、そして今また別の女性とここを訪れた俺を目にした彼の反応としては当然だったのかも知れないが、俺は梓を妻だと紹介はしていない。そして、日高依子も単なる同僚である。出来ればそんな言い訳をする必要のないことを願った。しかし物事は思い通りに行かないのが世の常である。ウェイトレスを制し、大山さん自身で水の入ったグラスを運んでくると、彼は隣のテーブルにどっかと腰を下ろす。

「なるほど、確かに小野木に似てるな」

「え? どういうことでしょう」

「あいつも、若い頃はヒュー・ヘフナーばりに女性をとっかえ引っ変えしていたもんだ。ここへ連れてきた女性の数は両手の指を折っても足りんよ」

 やや非難めいた口調だった。客である俺が誰と付き合おうと、何人の女性を連れてこようと、売上げも上がって文句を言われる筋合いなどない――ないのだが、彼の思考にやっかみや誹謗といった負の感情はない。女癖の悪さを更生させてやろうとしての忠告か、若い女性をアラフォー男の毒牙から守ろうとしての行動なのか、何れにせよ見当違いではあるのだが、先の主張を口にする気にはなれなかった。

 そして日高依子の視線にも非難が混じっている。俺は仕方なく弁明を口にした。

「今朝の女性は、医師になった同級生の奥さんで、彼女も中学校時代の同級生なんです。病院への機器の納入で世話になるので、買い物の荷物持ちを買って出たという訳です。その途中にこちらの寄らせてもらいました、。そしてこちらの女性は会社の同僚です。俺がそんなにモテるはずないじゃないですか」

 すかさず二人の顔に安堵の色が広がった。勝手に誤解して非難を向けられた俺にはとんだ災難だったのだが、とにかく誤解は解けたようだ。大山さんは満足気にうんうんと頷いて厨房に戻って行った。




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