Pretty woman
「出かけてくる」
「あら、また? 今度はどこへ?」
「またって、まだ二回目じゃないか。当てはない、まあ、気分転換ってところかな」
レイクサイドカフェに言ってコーヒーを飲み、久しぶりに繁華街の雑踏でも歩いてみようかと考えていた。
「付き合ってあげましょうか?」
「君が? どういう風の吹き回しだい」
「あなたのレポートも 〝特に変化なし ″ばかりで研究も停滞しているの。私も気分転換がしたくなったわ。創太郎の部屋着も仕入れておきたいし」
同じ出歩くなら一人より二人、そして並んで歩くなら野郎より女性、●●●より美形の方が良いに決まっている。俺に異存はなかった。
「コーヒーは嫌いかな?美味いストロングタイプを飲ませる店があるんだ」
所の嗜好なのだろう、この家ではただの一度もコーヒーを御馳走になったことがない。梓が嫌いじゃなければ良いのだがと、提案してみた。
「コーヒーか……何年も飲んでないわね。いいわ、行きましょ」
実態はともかく、夫の居る美貌の妻と、逃げられてはいるが妻子の居る男との奇妙なデートの幕が開く。世に言うダブル不倫の自覚は俺になかった。
きっとシルクなのだろう、値段を聞いたらびっくりしそうな凝った造りのワンピースを、梓は胸ぐりの深いカットソーの上に着ていた。片や、いつものポロシャツにくたびれたジーンズの俺。梓が後部席に座ったら、俺は身だしなみの悪い運転手にしか見えなかったろう。彼女のレクサスをレイクサイドカフェへと走らせる。
「車の件はごめんなさい」
梓が珍しく殊勝な顔で言った。最初に幽閉された時、俺の洋服と車齢十五年のポンコツは処分されてしまった事を聞いていた。
「東北に持って行けば使い途もあったかも知れないけど、こっちじゃ値段もつかない車だ。いいよ、もう」
「この車は、私専用なの。いつでも使ってくれていいわよ」
「社用車があるよ、慣れない高級車でキズでもつけたら困る」
「気にしないのに」
重ね重ね言うが、俺は小心者である、それも筋金入りの。八百万もする車をビクビクしながら運転したところで借り物にしか見えなかったろう。
「やあ、いらっしゃい。奥さんかい? 凄くキレイな人だな」
大山さんの言葉には、説明が面倒だったので曖昧な笑顔で返した。梓が俺の妻ではないことは加藤さんも鍛冶さんも知っていたはずだ。大山興信所の守秘義務はキチンと守られていると判断した。そして、隣のオフィスに人気はなかった。
先日のウェイトレスではなく、若く逞しい腕をした女性が注文したコーヒーを運んでくる。同性から見ても梓の美しさは際立っているのだろう。〝垂涎三尺去さる能わず〟 を彼女は体現していた。
「恵子ちゃん――」
俺の困惑に気づいた大山さんに促され、ウェイトレスはようやくテーブルを離れた。大山さんが目で謝意を表明されたので、俺も会釈で返す。それを見て梓がくすりと笑う。背後で何が起こっていたかは気づいていたはずだ。なのに、優雅な所作はしなやかさを保ち続ける。誰もが美形と認める梓にとって、きっとこの程度の侵食行為など日常茶飯事で慣れてしまっていたのだろう。影の薄かった以前の俺など、人目を引くどころか「あれ?居たの?」と言われることも屡々だったというのに。
「どうだい?」
「ええ、美味しいわ。うちは創太郎の嫌いなものは置かないの。結婚する前は、私もよくコーヒーを飲んだんだけど」
「また、君を怒らすかも知れないが、言わせてもらう。何も、全て所に合わせる必要はないんじゃないか?」
「私が苦痛だと思えばしない。そうは思わないから、創太郎に合わせているだけよ」
「そうか、ならいい」
特に不快になったようでもなく、俺は安心する。オブザーバーのつもりで所邸に居座った俺だが、彼等の認識はモルモットとしての珍重だったはずだ。その実験動物に意見をされるなど心外この上なく思えるのではないかと考えていた。
俺の脳味噌は刺激に飢えていた。医学の話題となってオピオイドがどうのGABA神経群がどうのと滔々と語られるのは興醒めだが、それ以外なら麗しき女性と知的な会話を楽しむ贅沢は、誰もが恵まれるチャンスではない。今日のところはプライバシーに関する提言は差し控えよう。そう考える俺は。やはり小心者だった。
「看板が上がっている、駐車場はあっちじゃないのか?」
尾張市まで足を延ばし、老舗デパートの正面にレクサスを横付けした梓は、「黙って見てなさい」といった目を俺に向けると携帯電話を手に取る。後方から鳴らされるクラクションに気をとめるでもなく悠然としたものだった。
「外商の栄村さんを、お願いします。井ノ口市の所 創太郎です」
〝外商〟 一般市民には馴染みの薄い言葉だ。僕らーズだったら、きっと「ガイショウって何だ?」となったに違いない。
「正面に居ます」
自分の家庭を築いて尚、中流の下たる暮らしから脱却出来てなかった俺は、得意客である梓が駐車券の優遇でも受けようとしているのかと思った。所邸で金持ちの日常を共有していたつもりだったが、それはほんの一部分を垣間見ただけに過ぎなかったことを思い知らされる。デパート隣の路地から走り出てきた男二人が、まるでコメツキバッタのように交互に頭を下げはじめた。
「これは、これは所様、ようこそおいでくださいました。大変、お待たせして申し訳ありません。ささっ」
とは言え、コメツキバッタが頭を下げる様を見たことはない。所邸にあった百科事典に載っていたショウリョウバッタの写真を思い描き、当の栄村某とイメージを重ねてみる。グリーン系のスーツと、ビル風に儚くなびく簾 髪がバッタの触覚に見えなくもない。〝大変〟 ほど、待たせてなくとも、そう言わねばならないのだろう。俺が所に入札の件を頼み込んだ時も、こんなだったのか。営業職の侘しさがヒシヒシと伝わってきた。
若い方の男がレクサスに乗り込んで発進させる。一般来客とは別の駐車場にでも運ぶのか、別に金持ちが羨ましいとも思わなかったが、平然とこんな待遇を受ける人種が居ることには驚いた。
「うちは、調度も洋服も全てここで買っているの」
幸い梓はドヤ顔にはなっていなかった。はいはい、あの俺より背が高い置時計や見るからに舶来と思しき応接セットですね。紫檀》製のサイドボードも忘れてはなりませぬ。ええ、ええ、バッタさん達の腰の低さも頷けますとも。
ご立派なデパートで売られている洋服は値札もご立派だった。俺より細身で七~八センチほど背の高い所の洋服を買うと言った梓だったが、俺に試着をさせては「いいわね、いただくわ」と、瞬く間に数点のシャツやズボン(販売員はトラウザースなどと、のたまっておられたが)の購入を意思表示した。『女の買い物は長い』は彼女の場合、当てはまらないようだ。
おかしかったのは、栄村某と店員の俺への対応だ。所の人相風体を知らないはずはない。ならば、このみずぼらしい男は誰なんだ? 梓の物言いから判断するに執事》でもなさそうだが――と、いった感じで、上にも下にも置けず、終いには俺を居ないものとして扱うことに決めたようだ。
〝購入の意思表示〟 と言ったのは荷物持ちぐらい買って出るつもりだった俺に、誰も商品を手渡そうとしなかったからだ。帰るまでには車に積み込まれているのか、或いは明日にでも自宅に届くのだろう。数年前、気取った店で気取ったバッグを買った妻が、物欲しげに伸ばす手を店員に苦笑で諌められ、店を出たところで心のこもってないおじぎと共にやっと手渡されたことがあった。こういうシステムもあるのかと二人で顔を見合わせたものだった。しかし梓へのもてなしは、それとも一線を画していた。頭の中にこんな歌が流れだす。
Pretty woman,―― この場合、俺がジュリア・ロバーツ役に当たるのだろうか? 今夜から寝る前にデンタルフロスを使う習慣にしよう。