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「何だ、これは?」
「肉丼っていうんだ。死んだオフクロの得意料理でな」
牛肉をニンニクで炒めて、すき焼きのタレを絡め、大葉と紅生姜、卵の黄身を彩りに加え、銀シャリにぶっかけて食べる。テーブルに着いた所が顔をしかめたところを見ると、お上品な彼にはお気に召さないらしい。
「梓は?」
「ラボだよ。俺のバイタルを調べて以来、入り浸ってるみたいだぞ。新しい発見でもあったのかもな。それはいいから食ってみろって」
昼間俺が出かけたことも、梓とのセックスも所には言わないほうがいい。俺はオイラーズの指示に従った。
箸を取ってひとくちだけ口に運ぶと、所は再び顔をしかめる。
「味が濃過ぎる」
「頭脳労働者のお前にはそうでも、ラグビーの練習で疲れて帰った俺には塩分補給も必要だったんだ。オフクロの創意工夫がこもった料理だぞ。こう、ガツガツって感じで食べてみろよ」
「腹は減っていない」
「面倒臭いヤツだな、お前も。だったら風呂にでも入って来い。湯は張ってある」
「風呂もお前が?」
「ああ、いい主夫になれそうだろ?」
所は俺の軽口に取り合わず、ぷいとダイニングを出ていってしまった。何か病院で面白くないことでもあったのかしら? 留守を預かる主婦の思考を真似てみる。「エプロンでもしていれば彼の応対も違ったのかも知れないわね」おちゃらけた発想でキッチンを見回してみるがエプロンは見当たらない。そう言えば、梓のエプロン姿を見た記憶もない。生活感と趣に欠けた家庭だなと思ったが、俺自信、所のような態度を妻にとっていたことを思い出して自己嫌悪に陥いる。そして数分後、とろんとした目をして梓が入ってきた。
「あら、本当に作ってくれたのね。いい匂い、創太郎は?」
「口に合わないらしい、風呂へ行ったよ。君はどうする?」
「いただくわ」
梓はキチンと手を合わせてから、箸を取った。躾のしっかりした家庭に育ったのだろう。彼女の両親はどんなだっけ? パペッツの回路を探ってみる。
《見てないものは記憶されてません》
役人口調でオイラーズが答えてきた。
「おいしいわ、ちょっと味は濃いかな。創太郎には合わないでしょうね」
「君の実家はどうだったんだい? ここんちみたいな薄味ばかりだったのか」
「いいえ、父と妹はこういった丼物が好きだったわね。母はよく、味が薄いって叱られていた。なんだか懐かしい」
梓の遠い目に郷愁が浮かんだ。
「伊都渕君のお宅はどうだったの?」
「うちは中流の下だったからな、コロッケでもトンカツでもパンパン叩いて平べったくしてから、ソースに浸して食べたもんだよ。今、思えば質量は変わらないのに……バカだったなあ、俺も親父も」
あはは、と声を上げる梓の笑顔は中学時代の面影のままに輝いた。
「で、今は?」
「知ってるんだろう? 妻と娘たちは実家。あいつの浮気のせいだけじゃない。俺にも随分、落ち度があったように思う。それに気づけたのは、この脳味噌のお陰かもな。味噌汁も飲んでみろよ」
その話題を長引かせたくない俺は料理へと逃げる。
「何が入ってるのかしら」
「海鮮汁だよ。冷凍庫にあったカニを使った。そっちは素材の味を生かしたかったから、うんと薄味にしてある」
梓が椀を口元に寄せる。白い喉が小さく上下した。
「おいしい、私より料理が上手なんじゃない?」
「そんな訳はないさ。ここで御馳走になったディナーは、どれも豪華でメニューも豊富。俺に出来るのは、これかインスタントラーメンぐらいのもんだからな」
「私だってレシピ通りに作っているだけよ」
「一般家庭では使わないような高級な食材を使ってね」
「気に入らない?」
梓が眉根を寄せた。
「俺が気に入る必要はないだろう。君は所の妻なんだから」
「引っかかる言い方をするのね」
「いいや、真実を述べたまでさ」
電位を見るまでもない。彼女の表情に不快感が広がった。俺の言葉を皮肉か侮蔑とでも受け取ったのか、会話は途切れたままで気詰まりな時間が続いた。
「ごちそうさま、美味しかったわ。片付けは後で私がするから、そのままにしておいて」
そう言って梓が席を立つ。俺は黙って頷いた。
廊下にと続くドアに手をかけて、梓が振り返った。
「お金、部屋に置いておいたから、創太郎に見つかる前に仕舞ってね。あなたに何も与えるなと言われてるの。彼はあなたが出歩くのも快く思っていないわ」
「いいのかい?」
「さあ?」
笑顔をなくした梓の端正な顔からは何の感情も伝わってこず、怜悧さだけが強調されていた。無表情だったにも関わらず鍛冶さんからは温かみを感じた。感情を伴わない表情こそが、その人間の本質ではないのだろうか。オイラーズからの回答はない。全員が腕組みをして首を捻っていた。