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P300A  作者: 山田 潤
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Misconstruction(錯覚)


「すまないが、少々、金を貸してもらえないだろうか」

 所邸へ戻った俺は梓に金の無心を頼み込んだ。さすがに数千円のタネ銭ではオプション取引も始められない。

「百万もあればいい?」

 資産家の妻は言うことが違う。元金を回収して手っ取り早く稼ぐにはタネ銭は多いに越したことはない。オイラーズはアローヘッド(高速売買システム)のパーソナル版ともいえるものの構築に成功していた。ヘッジファンドの戦場へと切り込んでゆくための、その重火器は、秒間数千の自動注文をこなす。当然、相手はデイトレーダーや個人投資家のレベルでなくなるため、誰かの懐具合に胸を痛める必要もなくなるという訳だ。

「悪いな、一週間もあれば利子を付けて返せると思う」

「いいわよ、そんなのいつでも。でも、それでは気が済まないんじゃない?」

 梓の瞳が露骨な交換条件を提示してきた。

「あれか、俺は構わないけど……」

「けど、なあに?」

「所も気にしていないと言うが、君はどうなんだい? 世にいう貞操観念ってヤツだよ。所に申し訳なく思うとかはないのかい?」

「この時代、あなたみたいにセックスは愛情の交換であるべきだなんて思っている人間は少ないわ。単なる欲求の解消よ。だったら目一杯楽しんだ方がよくはなくって?」

 なくって? と、来たもんだ。言葉遣いは上品でも要求は動物の本能に基づいた行為である。それが本来の生存本能に法ったものならまだしも、薄いラテックスを介しての擬似行為へと変質したものに、何の価値があるのだろう。そういった欲求の消えた俺にとって、快楽によってとはいえ梓の美しい顔が歪むのも、彼女が上げる嬌声も、嫌悪とまでは行かないが、すんなり受け入れるには抵抗があった。しかも借金のカタよろしく肉体を提供する行為は、古きこの国の悪しき慣習をも彷彿としてものの哀れを誘う。見知らぬ男に純潔を捧げねばならなかった少女達の胸中を察して息が詰まる……といったほどのことではなかったのだが。

「シャワーを借りていいかな」

「そんなの後でいい。後一時間もしたら彼が帰ってくるわ。さあ、早く」

 俺は風俗に行った経験はないが、急き立てる梓が『お客さん、早くしないと延長料金よ』 と告げるベテランソープ嬢のように思え、やるせない気持ちになった。いっそ快感の回路を開放してやろうか、単なる医師の妻ではない。美貌の医師の妻との赤裸々なセックスを文章にすれば、さぞ秀逸な官能小説が書けたことだろう。勿論、そんな不埒な考えにオイラーズの賛同が得られるはずもなかったが。


新たな人生が与えられるならば、次は絶対に女性に産まれてきたい。そう思わせるほどの梓の反応だった。歓喜の頂は男のそれよりも遥かに高く、そこにとどまる時間も桁違いに長い。しかも、女性は男性と違って回復のための時間を必要としないのだ。梓の内で過ごす時間が四十分ほど経過した時に、彼女が発した思考『凄い、イキっぱなしだわ』 は、残念ながら男性の遺伝子には組み込まれていないものである。なにかに書いてあった〝ペニスの先が感じる数秒間の快楽〝 とは、明らかに異なる次元の快感を女性は享受出来るのだ。出産という男どもには決して耐えられない痛みと引き換えに。

「そろそろ所が帰ってくるんじゃないか?」「いいから、黙っててっ」を繰り返し、梓は毎度の如く――いや、今回は俺の眼下に弛緩しきった体を横たえる。贅肉もなく引き締まった梓の腹部には、汗溜まりが出来ていた。

「寝るなよ」

「分かってる」

 そう返事はするが、梓は体を起こさない。ここでも俺はお人好しぶりを発揮してしまった。

「夕飯の支度、俺がしてやろうか?」

 梓が気だるそうな顔を俺に向ける。

「出来るの?」

「ああ、冷蔵庫を開けてもいいかな」

「じゃあ、お願い。何でも好きに使って。あたし、もう動けない」

 〝あたし ″ですか…… 〝わ ″が 〝あ ″に変わっただけで、梓に女性の柔らかさを感じてしまった。幼き懸想を捧げた中学生時代、追えども縮まることのない彼女との距離を嘆き続けた俺の感傷は二十数年を経て思わぬ形で実を結んだ。情動の回路を弛めていなければ、彼女を強く抱きしめ『愛してるよ』などと、のたまってしまったかも知れない。

しかし、三日で三回は多過ぎる。新婚夫婦じゃないんだから。目を閉じた梓から視線を引き剥がすようにしてラブホ、もとい、ラボを出た。


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