鍛冶千光
レイクサイドカフェというからには湖の畔にあるのかと思ったが、隣はNTTのビルだった。検索して地名を知った時から、あんなところに湖などあったろうかといった疑問を抱き続けていたのだが、立地に何の関係もなくつけられ店名なのだということがわかる、まあコーヒーが美味ければ、そんなことはどうでもいい話だ。よくわからない店名についてはこんな話もある。自宅から車で5分程の場所にペットホテルが出来ていた。看板には『セレブハウス ポチタマの家』と書かれてる。セレブならペットにポチとかタマとかいった古典的な名前はつけやしないと思うのだが。
話を戻そう。その店はカフェというよりも昔ながらの喫茶店といった風情で、客は老夫婦がひと組だけ。店内に流れる音楽のボリュームは適正で趣味も悪くない。静かにコーヒーを楽しむには文句のない環境だった。今時、珍しくコックコートに身を包んだ長身で五十絡みの男が厨房に一人、接客は同じくコックコートを着た少し薹の立った女性がこなしていた。
「クレマたっぷりのストロングコーヒーを」
ネットに載せられたキャッチコピーそのままの注文にウェイトレスが微笑んでくれたが、あまり魅力的では……言うまい。俺の目的は美味いコーヒーだったのだから。しかし何故か落ち着かない。この店に入る前から、絡みつくような視線を感じていた。目に映る範囲の思考にそれは見当たらず、オイラーズの誤作動かとも思ったが、そうでなかったことがほどなくして証明される。
「相席をよろしいですか?」
どう表現すればよいのだろう、中肉中背、顔にも髪型にも、これといった特徴の見られない無個性な男が俺の前に立った。ガラ空きの店内で相席など申し出ること自体おかしい。どうやら俺に向けられた視線の発信元はこの男だったようだ。そしてその思考が純粋な興味であることを知るに至り、俺にもその男への興味が湧いてきた。
「男同士がテーブルを挟んで向かい合うのも色気のない話ですが、それでもよろしければどうぞ」
「では、失礼して」
男が腰を下ろしコーヒーを注文した。コックコートの二人が怪訝そうな表情になる。それは男に向けられたものはなく、この状況に向けられたものだった。彼等は顔見知りなのかも知れない。
「私は隣の興信所を預かっているカジと申します。うちの加藤がお世話になりましたようで。伊都淵さんとおっしゃるのですか? 珍しい御苗字ですね」
男は〝 大山興信所 鍛冶千光〟 と書かれた名刺を差し出す。俺は全てに合点が行った。梓に眠らされた男の上司なのだろう。能面のように無表情が貼り付いた顔は持って産まれたかのように自然で、加藤より一枚も二枚も上手だといった風情を漂わす。オイラーズに分析を託すと、次のような回答が返ってきた。
《油断をしないに越したことはないが、悪い人間ではないようだ》 同時に警戒レベルも引き下げられたので、俺はテーブルに届いたコーヒーを手に取った。確かにクレマたっぷりで深みのある香りが漂う。三グラム包のグラニュー糖を一本入れてかき混ぜ、口に運んだ。看板に偽りなし、美味いコーヒーであった。伏せられた伝票の値段も至極良心的。少し遠いが、これが味わえるのなら足を延ばすことも厭わない。コーヒーチケットを買っておこう。一方でそう考え、鍛冶と名乗る男を見据えて答えた。
「ええ、親類以外にはないようですね。ところで私の気づかないところで色々とお世話になっていたようですが、加藤さんはあなたの部下なのですか?」
牽制球の偽投程度では、鍛冶は顔色一つ変えない。
「はい、私が面倒を見ております。失礼がございましたら私が伺っておきます」
彼の注意は俺の指の動きから眉毛の上下にまで行き渡っている。きっと洞察力に長けた人間なのだろう。物を訊ねる時も情報は最小限に留め、相手が口をすべらせるのを待つ。そんな手法を得意としているようだった。
「いや、失礼というほどのものでも、しかし――」
語尾が消える前に鍛冶が言った。
「私のパートナーをご存知なのですか?」
「小野木さんのことですか? いえ、面識はありません」
「では、どうやって彼の名前や発言の内容をお知りになられたのです?」
「言っても信じませんよ。それに加藤さんから予備知識は仕入れておいでなのではないですか?」
質問には質問で応じる。敵か味方か判らない人間に、正体を明かす愚は犯せない。
「用心深い方のようだ」
恐らく微笑んだのだろう。ほんの少しだけ持ち上がった唇の端からそう判断した。
「そちらこそ」
世間話を交えながら丁々発止の探り合いが十五分ほど続いた。俺はコーヒーのお代わりを頼む。今度は長身の男が運んできた。余計なお世話だが、ここのウェイトレスはトイレの回数が多く、しかも長い。
「鍛冶さん、こちらは知り合いなの?」
「いえ、初対面です、祐二が小野木さんに似ていると言いましてね」
「あいつに? へえ、俺にはそうは見えないな」
「ええ、確かに外見に相似点は少ないようです。しかし内面はどうでしょう。大山社長はそういったものを素早く見通すことに精通しておられましたよ」
「またオヤジの話か――頼むから俺と比べないでくれよ。で、こちらの内面が小野木に似ているって鍛冶さんも思うのかい?」
「さあ? なかなか本音を語っていただけないので」
話の焦点が小野木という人物に絞られたのを見計って俺は割って入った。
「その小野木さんて方はどんな人なんです? 似てる似てると言われると気になってしまうのですが」
「生きておられれば、あの人もあなたに興味をもたれたことでしょう」
東日本大震災の被災地でボランティアに励み、震災孤児と仲間の命を救うために命を落とした男の話を聞かされる。そんな人間がまだこの国に居たのか――胸が温かいもので満たされる気がした。僅かな時間の会話だったが、鍛冶の評価は〝悪い人間じゃない〟 から〝いい人間〟 に格上げされていた。
「東北におられるんでしたね。復興は進んでますか?」
「あれだけの被害です。そう簡単に元に戻るものではありません。多くの人が色んな形での支援を表明していますが、それが即座に現地の方々の救済につながる訳ではありませんし……如何です、伊都淵さんも一度現地に足を運んでみられませんか?」
「そうしたいのは山々ですが、暫くここを離れる訳には行かず……理由は加藤さんにお尋ねください。これをお渡ししておきます。使途はお任せします」
俺は残高が数千万に膨れ上がっていた預金通帳と印鑑を差し出した。通帳を開いた鍛冶さんは目を丸くする。よっしゃ! 無表情の本丸に一歩踏み込んだぞ。オイラーズが小さくガッツポーズをした。
「これは……いや、しかし何故こんな大金を私に? 初対面ですよ、我々は」
「あなたがいい人間だと、俺の中の何かが教えてくれています。小野木さんの精神にも感銘を受けました。幸い俺には済む場所も仕事も――いや、仕事はなくなるかもな。でも健康な肉体があります。持つものが持たざるものに。それが果てしなく順送りにされれば、多くの人生が豊かになる。そうは思われませんか?」
「義援金として新聞社にでも持ち込めば、形として残りますが」
「いつ被災者の手に届くか分からないアレですか? ご冗談を。それに下手に新聞に名前でも載った日にはタカリが増えるだけです。あなたならそれを有意義に役立てていただけると信じています」
「ありがとうございます。あなたの期待を裏切らないよう、現地スタッフとよく相談して使途を決めたいと思います」
「いつかきっと、被災地に行きます。その時はあなた方のお手伝いをさせて下さい」
いい人間と過ごす時間は快適で心が休まる。俺は鍛冶さんが差し出した右手を強く握り返した。
「住民登録は中ノ原市ですが、今はほぼ杜都市のボランティア事務所におります。ご用の際には、こちらの大山さんか祐二にお伝え下さい」
「わかりました。ところで、こちらのコーヒーは本当に美味い。用がなくとも、ちょくちょくお邪魔させてください。コーヒーチケットはお幾らですか?」
俺と鍛冶さんのやり取りを興味深げに見守っていた店主に訊ねた。
「小野木に似ているか……祐二君がそう言った理由が分かる気がするな。コーヒーは永久無料だ、いつでも寄ってくれ」
随分とフランクな口調で店主が答える。意気に感ずるという言葉がある。おそらく大山の男気がそれに呼応したのだろう。だが、俺はその提案を退けた。
「大山さんが淹れるコーヒーは金を払って飲むだけの価値がある。ただなら、俺はもう来ませんよ」
「あはは、気に入った。じゃあ、こうしよう。お代わりは何杯飲んでもただだ。それならいいだろう?」
「ありがとうございます」
「ヒゲはないが、確かに小野木のハートを持っているようだ。あいつの分まで人生を謳歌してくれ」
大山の大きな手で背中をはたかれ、俺は口に含んだコーヒーを吐き出しそうになった。
こういった、ええカッコしいが、こうなる以前よりの俺の悪いクセだ。若しくは〝悪銭、身に着かず〟といったところか。住宅ローンや光熱費が、口座振替になっていたので、新たに口座を作る必要に迫られていた。所邸で取り戻した財布に入っているのは五千円札一枚と千円札が数枚。次の引き落とし日前に給料の振込みはある。マイナスになる恐れはなかったのだが、何かあったら大変だ、気の小さな俺はそそくさと銀行へ向かった。