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P300A  作者: 山田 潤
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Catharsis(浄化)

『居候、三杯目にはそっと出し』 のつもりで臨んだディナーは洋風、つまりパンだった。

 梓が追加した三十枚を超える俺のレポートは、今日の日付で彼女のラップトップPCに保存されている。その上で人参やらほうれん草やらを生地に練りこんだパンなど、よく作っている暇があったものだと俺は感心していた。

 関係ない話だが俺は人参が嫌いだ。脳がどう進化しようと嫌いなものは仕方ない。テーブル上を回される籠からオレンジ色のを避け、四つほどいただく。医者の家庭で出る料理はこれが普通なのか、健康を第一に考えられたメニューはどれも薄味で、こってりした味付けを好む俺には物足りない。味覚の伝達回路の調節が必要だった。

 ジャクジーのついた風呂は独身時代に入ったラブホテル以来だった。床暖房にミストサウナにと至れり尽くせりのバスルームだったが、俺はシャワーのみで済ませた。こんなのに慣れたら後が困るといった貧乏人的発想である。脱衣所には新品のバスローブが置かれていたので拝借する。明日にでも自宅からパジャマを取ってくるか――半囚われの身の俺だが、思考は至って呑気なものであった。

 二階の客間を仮の住まいとして与えられた。ラップトップPCを開いて確認するオプショントレードの取引は順調。純粋な興味で、先物取引にも手を広げてみようかと思ったが《こちらのプラスは誰かのマイナス》とオイラーズに諭されて思いとどまる。妻と娘が食べて行けるだけ稼いだらこれからも手を引こう。俺はそう決めた。

 深夜、何度もドアの向こう側に人の気配を感じた。向かうところ敵なしのオイラーズにも休息は必要だ。夜間は生存本能に関わる連中の一個小隊を交代で歩哨に立たせ、その他は休ませる。そして日中はその逆をしていた。それを所に気づかせる訳には行かない。そんな時の俺は立ったまま眠る馬みたいなもので、簡単な受け答えは出来ても、普段の――もはやどれが普段の俺なのかは、はっきりしなかったが――俺ではない。頭のいい所のことだ、それに気づくようなことになれば、なんとかして俺の頭をかっさばくための戦略を立ててきただろう。そんな訳で気配には物音で答える。無駄な諍いは避けるのが、大人の良識的判断というものだ。

 客間のある邸宅を持ち、先生と呼ばれる名誉ある職に就き、更には才長けた美しい妻をめとった幸せで満足は出来ないのか。所はそれが向上心であると言ったが、俺には理解出来なかった。


 彼等の朝食は機械的だった。ローファットの牛乳に同じくローファットのベーコン、ピッチャーに入れられていたのは野菜ジュースで、トーストには何もつけず黙々と口に運ぶ。時折、所が俺の脳画像を梓に見せて意見を求めるといった朝食風景は、俺にとって異様でしかない。そんなものを見せられて、よく食欲が減退しないものだ。

 おそらくこれが彼等の日常なのだろう。所は出勤、片付けが終わった梓はラボで研究を続けたいと言う。俺は従順に検査に付き合うがバイタルに特別な変化はない。一通りのチェックを終えた梓が「どうする? 私を抱きたい?」と言ったが、性的欲求もなく彼女の注意を逸らす理由もない今、俺はそんな気になれなかった。

「着替えとパジャマを取ってくる。GPSの発信器でも埋め込むかい?」

「無意味でしょう、そんなものは。私はあなたが電位を操れるのを知っているのよ。でもお願い、戻ってきてね」

 手元に置いておきたいのは貴重なモルモットとしての俺か、梓に女性を取り戻させることの出来る俺なのか、彼女の真意を探ろうと思えば出来たが、俺はしなかった。

「信じろよ、俺は君たちが実験を諦めてくれるまでここに居る。なあ梓、これが進化だと思うか? 何の欲望もなくなり、ただ君らの誤ちを正すためだけに生きているようなもんだ。これが神の領域だというなら、神様は相当退屈だと思うぞ」

「私があなたと同じ力を手にしたらそうはならない。医学と人類の発展に大きく役立てるはずだわ。世界を変えられる力があって、それを使わないのは卑怯だし怠慢よ」

 やれやれ、この夫婦は俺への非難まで同じ口調になっている。

「夕方には戻る」

 俺はそう告げて体を起こした。何か言おうとして口を開きかけた梓だったが、それは発せられないまま彼女は口を閉じた。


 自宅に妻と娘が戻った形跡はなかった。着替えや通園カバンまで持って実家に帰ってるのだろう。十年かけて築き上げた婚姻関係が、こうもあっさりと破綻するなどとは、以前の俺なら思いもしなかったろう。家庭への精神的な献身を怠った自分を棚に上げて妻の不貞を罵り、激昂する感情をぶつけ合い、そして娘たちを理由に関係の修復の途を探る。こうなる以前の俺だったら間違いなくそうしていただろう。そしてすったもんだの末、元の鞘に収まる。そんな小競り合いみたいなコミュニュケーションも夫婦には必要なのかも知れない。妻を迎えに行こうともせず、不遜にも人類の未来を憂いて所邸に入り浸る。そんな俺の振る舞いはとても人間らしいとは思えなかった。

 着替えを詰め込んだバッグを社用車の荷台に放り込むと、俺は家の鍵を鉢植えの下に隠す。帰って来る場所は残してある。全ては妻の判断に任せよう。投げやりになった訳ではない。物事は収まるべきところにしか収まらないと考えての行動だった。

 静かな場所で美味いコーヒーが飲みたい。そう感じた俺は、ラップトップPCを開いてカフェの情報を調べ、或るキャッチコピーに目を留めた。

『クレマたっぷり、魅惑のストロングコーヒーは如何でしょう。 レイクサイドカフェ』





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